部屋と猥雑と俺
「やべえやべえやべえやべえ!」
俺は、顔を青ざめながら、自室の床に散乱したマンガ本や食べカスや空き缶を、一心不乱に掻き集める。
諏訪先輩の発案で、再試前日の今日、先輩がシュウに数学Aを一夜漬けで仕込む事に決まった。その為、これからふたりが、ここ――俺の部屋にやって来る予定なのだ。
はじめは、シュウの家でやるつもりだったが、おばさんが例によって出張中で家に居ない為、いくら徹夜で勉強するといえど、大人の目が届かない所に高校二年生の女子を泊まらせるのは色々とマズイという判断 (もちろん、そんなえちい事は毛ほども考えていない……うん、考えていない……か、考えてないってば!)で、父さん母さんついでにハル姉ちゃんと羽海の目があるウチに集まる事になったのだ。
その為に、この荒れ果てた部屋を、何とか人を迎え入れられるレベルに片付けなければならないのだが、まだ時間があるとタカをくくりまくった結果、全く手付かずのまま今に至るという訳だ。
人はコレを「夏休み最終日の法則」と云ふ……。
正直、時間が無いのでそのままビニール袋の中にぶち込みたいところだが、分別もしないでゴミを出そうとした暁には、ウチの母さんの髪の毛が金色に輝いて逆立つ事は明らか。面倒だが、燃えるゴミと空き缶ゴミとビニールゴミと燃えないゴミ……それぞれ袋に分けなければならない。
――そして、また時間が無為に過ぎていく……。
「……やべっ! ふたりが来るまで、あと30分しかない……!」
俺は、ベッドの横に置いた目覚まし時計が8時半を指しているのを見て、いよいよ焦りを募らせる。
「……シュウだけならまだしも、あの人が来るのに、この部屋のまんまじゃヤバいもんなぁ――」
「え! シュウくんがどうしたってッ?」
「どわぁっ!」
何の前触れも無く、勢いよく開かれたドアの勢いに度肝を抜かれた俺は、思わず悲鳴を上げた。
「ね、ねえ、愚兄! シュウちゃんが――何だって?」
「う……羽海?」
風呂上がりのパジャマ姿で、濡れたままの頭にバスタオルを巻きつけた格好の羽海は、目の色を変えてズカズカと無遠慮に俺の部屋に立ち入ると、俺の胸倉を掴んだ。
「ぼ、暴力反対……! は、話せば分かる!」
「ねえ! 答えなさいよ、愚兄! 今アンタ、シュウちゃんの名を口にしたでしょ! その後……何て続けたッ?」
「い……いや、つうか、何であんな小さな呟きをドアの向こうから……?」
「そ……それは、アンタが一生懸命ガサゴソやってるから、何やってるのか心配になって聞き耳を立ててた……じゃ、じゃなくって! たまたま耳に入ったの! も、も、文句あるッ?」
何故か顔を真っ赤にした羽海が、俺の襟首を掴む手に力を込めながら怒鳴った。
なんだよ、それ……。たまたまで聞こえるような大きさの呟きじゃ無かったぞ……。
――が、今の俺には、羽海のしどろもどろな説明にツッコむ余裕は、最早残されてはいなかった。
「ぐ……ぐるじい……首が……! し……締ま……ッ!」
「……あ、ごめん」
首元を締め上げられた俺の顔色が、土気色に染まりかけている事にようやく気付いた羽海は、慌てて手を離した。
――と思ったら、今度は俺の両肩をむんずと掴み、ぐらんぐらんと激しく揺すり始める。
「で――、シュウちゃんが何だって! 吐け、吐けぇ~ッ!」
「い……いや! 止めて止めてっ! 吐くっつーか、違うモン吐きそうだから止め……うぷっ!」
激しい揺さぶり攻撃にすっかり目を回した俺は、胸の奥から酸っぱいモノがこみ上げる予感に、慌てて口を押さえる。
「きゃ、キャアアアアッ!」
危険を察知した羽海は、悲鳴と共に、俺の身体を思い切り蹴り飛ばした。
「あああああああっ!」
俺は、羽海のドロップキックを胸に受け、蹈鞴を踏みつつ部屋の中央に吹き飛ばされ、転がっていた空き缶に足を取られて、頭をベッドの縁に思い切り打ちつける。
「いっ! 痛っつつつつ……!」
「あ……ご、ごめん……お兄ちゃ――愚兄っ!」
……あくまで“愚兄”呼ばわりか、妹よ。
ぶつけた頭を押さえて悶絶する俺に、心配そうな様子で――
「……で、シュウちゃんがどうしたって?」
……あ、そんな事は無かった。
ダウンしたベビーフェイスに追撃する悪役レスラーよろしく、再び俺の襟首を掴んで引きずり起こした羽海は、剣呑な光を宿した瞳で俺を見据えながら訊いた。
命の危険を感じた俺は、半分涙目になりながら答える。
「え……ええと。実は今夜、シュウが一夜漬けで勉強しに来るんで、その準備で部屋をキレイにしようと――」
「えええええええええっ?」
俺の言葉は途中で、羽海の上げた素っ頓狂な絶叫に遮られた。
羽海は、般若のような表情になると、俺の顔面を右手でがっしと掴み、ギリギリと指に力を込めていく。いわゆるアイアンクローだ。
「い……痛い痛い痛い痛い!」
指先の爪が俺の顔面に容赦なく食い込み、俺は思わず悲鳴を上げる。だが、その指の力は一向に緩まない。
「今……今、何つった? シュ……シュウちゃんが、べ、勉強しに来る……? この家へ――?」
「あがががが……! そ、そうだよ! 後30分くらい……9時に来る予て――」
「そういう事は早く言えエエエエエッ!」
「あがががががあっ!」
羽海の怒りの絶叫と共に、俺は顔面を掴まれたまま、後頭部を思い切り叩きつけられる。――叩きつけられた先に枕があったのは、ラッキーだったのか、殺意の波動に目覚めた羽海に、ほんの少しだけ理性が残っていたからなのか……。
「いぢぢぢぢ……」
「ちょっと! お姉ちゃぁぁぁん! 大変ッ! 大変だよぉぉぉぉぉぉ……」
サンドイッチよろしく、両手で顔と後頭部を挟んで悶絶する俺を置いたまま、羽海は駆け足で階段を下りていった。1階のソファで寝そべって、ポテチを摘まみながらバラエティ番組を観ているハル姉ちゃんに注進に行ったようだ。
「……――ぇぇぇええええええええッ?」
――ほら、やっぱり。
階下からドップラー変異だかエコー効果だかがかかったハル姉ちゃんの叫びを耳にしながら、俺は口の端を引き攣らせた。
そして、リビングのドアを勢いよく開け、ドタドタと廊下を走る音が聞こえたかと思うと――、
「――お父さん! 早くお風呂出て! 私入るからっ!」
「……ぇぇ?」
風呂場の扉を開け放った音と、焦燥に満ちたハル姉ちゃんの声、そして、のんびり湯船で寛いでいたところを、娘に闖入されて泡を食う父さんの悲鳴が聞こえてきた。
「早く! シュウくんが来る前に、お風呂……もうこの際、シャワーでもいいから入らないと……! もうっ、早くしてよお父さん! 40秒で身体拭いてパジャマ着て出てってッ!」
「……ッ! ちょ、ま、待て! は……はる……ッびゃあアアアアァッ!」
「あ……」
まったく状況を理解できぬまま、満足に着替える時間も与えられず、ハル姉ちゃんに浴槽を追い出されてしまったらしい父さんの悲鳴を耳にしながら、俺は思わず目を瞑り、天を仰いで十字を切った。
ああ……ごめん、父さん……。永遠に――。




