午後の珈琲
――早瀬がこの文芸部の部室を訪ねてきたのは、諏訪先輩に用があったかららしい。
どうやら、放課後に部室で会おうと、諏訪先輩が彼女に伝えていたようだ。
だが……、先輩はもう帰ってしまっている。
正直にそう伝えると、早瀬はひどくビックリした様子だった。彼女が驚き消沈した様子を見た俺は、諏訪先輩と同じ文芸部員として、さすがに申し訳なく感じた。
だから、せめてものお詫びとして、彼女にコーヒーを振る舞う事にしたのだが――。
「あ、あの、これ……そ、粗茶――じゃなくて、粗コーヒーですが……」
来客用のマグカップに、この部室にある中で最高級のインスタントコーヒーをなみなみと注いで、俺は早瀬に差し出した。
「あ、高坂くん、ありがとー」
早瀬は、その顔に屈託のない笑みを浮かべると、俺が差し出したマグカップに手を伸ばす。
そして、濛々と湯気を上げるマグカップを、躊躇なく口元に運び、そのまま傾けた。
「あ――、は、早瀬さん! 少し冷まさ――」
「ッ! 熱ちち……」
俺の制止も遅く、熱々のコーヒーを口に含んでしまった早瀬は、目を白黒させながら、小さな悲鳴を上げた。
俺はオロオロしながら、とにかく早瀬に声をかける。
「あ、ご、ゴメン! 熱かった?」
「あ、ううん、大丈夫だよ。ちょっと舌を火傷しただけだから」
早瀬は、俺に向けて苦笑いを見せると、コーヒーのせいで少し赤くなった舌を、ペロリと出した。
彼女が見せる、そんなお茶目で可愛らしい表情に思わず俺は見とれてしまったが、すぐに我に返る。
「ちょ、ちょっと待ってて! ちょっと水汲んでくるから!」
「あ、ホントに大丈夫だよ、高坂くん――」
早瀬の言葉も最後まで聞かず、俺はコップを引っ掴むと、勢いよく部室を飛び出した。
古い部室棟の廊下をダッシュして、一階の水道まで急ぐ。
部室棟は、築ン十年の木造の建物なので、勢いよく走る俺の足下で、板敷きの床が心許ない軋み音を立てる。
今にも床板を踏み割ってしまうのではないかという不安が頭を過ぎるが、そんな事で足を緩めるつもりはない。
そして、ようやく一階の流し台に辿り着き、俺は慣れぬ運動で上がった息を整える時間も惜しみ、蛇口を捻って、コップに水を注ぐ。
ふと顔を上げたら、鏡に映った冴えない顔が目に入った。極端に醜男という訳ではなく、かといって、イケメンと言うにはほど遠い、良くも悪くも平均値ど真ん中の、つまらない顔だった。
俺は居たたまれなくなり、そっと目を伏せた。
――脳裏に、さっき見た可愛らしい笑顔が過ぎる。
「……こんなツラで、あの娘に惚れてるなんて……身の程を知れってヤツだよなぁ――」
そう呟くと、鏡の向こうの俺が、皮肉気に口元を上げた。
俺は、鏡に映る皮肉屋を一睨みして、大きな溜息を吐くと、水道水で掌を濡らす。
「……うるせえよ。惚れちまったモンは仕方がねえだろうがよ」
そう独り言ちると、濡れた掌で髪を撫でつけ、跳ねた前髪や寝癖を丹念に整えた。
そして、もう一度鏡に目を遣る。
「……よし」
そこには、さっきよりほんの少し男前になった俺が、俺を睨み返していた。
◆ ◆ ◆ ◆
「ごめん。お待たせ、早瀬さん。……こ、これ、水です」
部室に戻った俺は、早瀬の前に水を満たしたコップを置いた。
「あ、ごめんね、高坂くん! わざわざ水を汲んでくれて……ありがと」
早瀬は、そう言って俺に微笑みかけると、コップを手に取り、一口飲んだ。
そして、満面の笑みを俺に向ける。
「美味しい! 舌のヤケドも楽になったよ~」
「そ、そう……。良かった」
早瀬の笑みに、俺もぎこちない笑顔で返す。
その瞬間、
(……あれ、俺、ちゃんと笑えてるよな? 頬の表情筋が、明らかに仕事してない感覚なんですけど……。ひょっとして、スマイルはスマイルでも、ウォーズ○ン・スマイル的な感じになってないか、コレ?)
と、急に不安になった俺は目を巡らせて鏡を探すが、生憎とこの部室の中に鏡は無かった。
しょうがない……と、さぞや不気味に引き攣っているであろう自分の表情を確認する事を諦めた俺は、早瀬の真向かいのパイプ椅子に腰をかけながら、少し冷めたコーヒーに、スプーンで掬ったコーヒーミルクと砂糖を溶かし込む作業に没頭している彼女を見つめる。
「……やっぱ、良い娘だよなぁ……」
「……え? 何が?」
「あ! いや、何でもない! コッチの話!」
思わず口をついて出た独り言を早瀬に聞き留められ、俺は慌てて誤魔化した。
幸い、早瀬はコーヒーの方がずっと気になっていたようで、「そう?」と首を傾げただけで、それ以上ツッコんでは来なかった。
俺は、秘かに胸を撫で下ろすと、間を持たせる為に、自分のコーヒーを一口啜る。
――良い娘だよな。
マグカップを呷りつつ、対面の早瀬をチラ見ながら、改めて俺はそう思った。
……だってそうだろ?
コーヒーで舌をヤケドしたって言っても、テンパった俺が、慌てて流し台まで水を汲みに行っている間に、元に戻るじゃん。
俺がやった事って、無駄じゃん。バカじゃん。
なのに、早瀬はそんな事をおくびにも出さずに、俺に「ありがとう」って伝えて、俺が汲んできた水を飲んで、「美味しい」って言ってくれるんだぜ。
俺が汲んできたのは、タダの水道水なんだから、美味いはずなんかないのにさ。
――そういう、さり気ない気遣いをしてくれる娘……なかなか居ないよなぁ。
「……どうしたの、高坂くん? 何か、変な顔してるよ?」
「ふぇ――ふぇっ?」
……ぼんやりと早瀬に見惚れていたら、とんでもなく締まりのない顔になっていたらしい。訝しげな表情を浮かべる早瀬に、そう問いかけられた俺は、飛び出さんばかりに目を見開いて、広げた両掌で顔を覆った。
「あ……こ、これは……う、生まれつき……です」
「ぷっ! まさかぁ~」
俺の答えに、早瀬は噴き出した。
「今のは、物凄く変な顔だった! いつもの高坂くんは、もっと普通の顔だったよぉ」
「あ……そ、そうっすか……」
“普通の顔”という評価が、ポジティブなものなのかネガティブなものなのか判断がつかなかった俺は、取り敢えず若干頬が引き攣れた愛想笑いを浮かべてみせる。
「と……ところで!」
言葉に詰まった俺は、とにかく会話の流れを変えようと声を上げた。
そして、さっきからずっと引っかかっている、基本的な疑問を舌上に載せる。
「は……早瀬さんは、今日はどんなご用件で……文芸部部室に?」
「あ、そうそう!」
俺の問いかけに、ハッとした表情を浮かべた早瀬は、小首を傾げながら答える。
「私は、香澄先輩から借りた小説を返しに来たの。……でも、おかしいよね? 『必要になったから、放課後、部室で返して』って言ってたのは香澄先輩本人なのに、もう帰っちゃったなんて……。必要無くなっちゃったのかなぁ、この本……?」




