先輩が化粧を落としたら
――月曜日。
放課後になり、俺はいつもの様に部室棟へ向かう。
「お疲れ様でーす――」
いつもの様に、剥がれた『文芸部』の紙の端を貼り直し――え? いい加減にテープを貼り替えろ? ……察しのいいガキは嫌いだよ――、俺は引き戸を開ける。
カタカタ…… カタ……
「……お疲れ様」
いつもの様に、軽やかなタイピング音と、素っ気ない諏訪先輩の声が、俺を迎え入れた。
俺は、いつもの様にカバンを机の上に放り出し、パイプ椅子を引いて、定位置に腰を下ろす。
そして、視線を左に向け、
「……あれ?」
思わず首を傾げた。
その声を聞いた諏訪先輩は、首を廻らして、怪訝な表情を浮かべる。
「……どうしたの?」
「あ……いや……」
俺は、諏訪先輩の問いかけに慌てて首を振りながら答える。
「あの……いつもの諏訪先輩だな……と思って……」
――確かに諏訪先輩は、一昨日、一日中ハル姉ちゃんに連れ回されて“大改造”され、見違える様な姿になった――はず。
しかし、今、俺の隣でキーボードを叩いているのは、髪の毛が短くなって茶髪になった以外はいつもと変わらない、見慣れた諏訪先輩の顔だった。
一昨日の諏訪先輩の姿を学校でも拝めるものと思っていた俺は、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけガッカリする。
そんな俺の様子を見逃さなかった諏訪先輩は、俺にジト目を向けると、自分の青白い頬に手を当てた。
「あら、『いつもの』って……。高坂くんは、一体何を期待していたのかしら?」
「あ……その……す、すみません……」
「……別に謝らなくてもいいけど」
そう言うと、先輩は微かに苦笑いを浮かべた。
「……でもさすがに、学校に行くのに、一昨日みたいなお化粧していくのはちょっと……ね」
「でも……ウチの高校って、結構校則緩いじゃないですか。確かに、がっつりメイクしてきて、生活指導室に呼び出される女子もいますけど、少しくらいだったら……」
「まあ、そうなんだけどね。……男の子の高坂くんには分からないかもしれないけれど、メイクするのも大変なのよ」
「まあ……。確かにハル姉ちゃんも、毎日一時間近くもかけて、洗面台で化粧してますね。そういえば」
「でしょう? ――それに」
と、諏訪先輩は、目を机の上のタブレットに戻して、キーボードを叩きながら、独り言の様に言う。
「何だか……煩わしくって」
「煩わしい……ですか?」
「うん」
諏訪先輩は小さく頷いた。
「一昨日、高坂くんと別れて、電車に乗ってる時に、色んなところからの視線を感じてて……。ヒソヒソと私の噂話をして盛り上がっているのが耳に入ったりもしてね。何だかとっても疲れちゃったの。――元々、そんなに目立つ事が好きじゃないっていうか、苦手でもあったし……」
「……そうでしたか」
諏訪先輩の話を聞いた俺は、一昨日の諏訪先輩の姿を思い返し、何となく理解した。
確かに、一昨日の諏訪先輩の顔と姿を目にしたら、どんな人でも思わず目で追ってしまうだろうし、話題にもしたくなるだろう。……そのくらい、綺麗だった。
――と、
「あ、そうは言っても、ハルちゃんさんには感謝してるのよ」
諏訪先輩は慌てた様に手を振り、穏やかな微笑を浮かべた。
「一昨日、ハルちゃんさんが、私の為に一生懸命コーディネートとかメイクとかを考えてくれたおかげで、自分なんかでも綺麗になれるって事を気付かされたし、これまで全然だと思ってた自分の顔に、少し自信を持つ事も出来たの。……でも、普通の生活で、あんまり目立ちたくもないっていうのも本心だし、一昨日みたいに、心なしか高坂くんがよそよそしくなるのも、何だか嫌だし……」
「あ……よ、よそよそしかったですか、俺……?」
「うん、すごくよそよそしかった」
「あ……そ、そうっすか……」
先輩に即答され、俺は返す言葉もなく、頭を掻いた。
◆ ◆ ◆ ◆
「そういえば……高坂くん」
突然、今日更新する予定の『Sラン勇者と幼子魔王』最新話を執筆する手を止めぬまま、諏訪先輩が俺に声をかけた。
「あ――はい?」
俺は、手書きで諏訪先輩――星鳴ソラが書き上げた、次々話のプロットから目を上げて、返事をする。
「野球部の工藤くんって……確か、あなたのお友達だったわよね?」
「え……あ、ああ、はい。――そうですけど、何か……?」
俺は、頷きながら、怪訝な表情を浮かべた。――同時に、何か大切な事を忘れている気がして、首を傾げる。
「彼、退院したんですってね。おめでとう」
「あ……ありがとうございます。――て、俺が言うのも変か」
そう言って苦笑いを浮かべた俺は、ふと不思議に思って、諏訪先輩に思わず尋ねた。
「って……、どうして知ってるんですか? 俺、まだ退院の事――ていうか、シュウの事自体、諏訪先輩には詳しく話していないですよね?」
「あ……別に大した事ではないんだけど。退院の事は、クラスの野球部の人が、『工藤の奴が、やっと登校してきた!』って喜んでるのを聞いたから、それで知っただけ」
そこまで言うと、諏訪先輩はキーボードを叩く手を止め、傍らのマグカップを手に取って、ゆっくりと揺らしながら言葉を継いだ。
「で……、工藤くんが高坂くんの心友だっていうのは、彼が入院して、あなたが落ち込んで――怒ってた時に、早瀬さんから聞いてたから」
「あ……成程……」
諏訪先輩の解説に俺は得心したが、同時に、さっきから感じている『何かを忘れている』感は、いよいよ高まった。
シュウ……
退院……
早瀬……
俺は、引っかかるワードを脳内で反芻し、何を忘れているのかを思い出そうとし――、
「あ――ッ!」
唐突に、俺はその事を思い出し、そして絶叫した。
「っ? ――ど、どうしたの、高坂くん……?」
諏訪先輩は、マグカップの縁に口をつけようとしたところで硬直し、目を丸くして俺の顔を見つめていた。
「あ……いえ、その……」
俺は、ハッと我に返り、しどろもどろで首を振った。
――言うなら、今だよなぁ……。
俺は、そう思いながらも、諏訪先輩にその事を告げる事に躊躇いを覚える。
そりゃそうだろう? 多分引かれるし、下手すりゃ怒られる。
――でも、先輩以外に頼める人もいないしなぁ……。
俺は、シュウ以外、碌な交友関係を持たずにここまで生きてしまった不明を悔いたが、もう遅い。
――『いいか、ヒカル。必ずお願いしろよ。……でないと、二度とお前に協力してやらねえぞ!』
数時間前、俺にそう言ったシュウの顔が、脳裏にまざまざと思い浮かぶ。
あの言葉は……多分本気だ。……忘れたフリをして先延ばしにしようものなら、本当にシュウに見限られる。……アイツは、昔からそういうヤツなんだ。
――まあ、さっきまで本当に忘れてたんだけど。思い出しちまったモンはしょうがない。
「……はぁ~」
俺は、小さく溜息を吐くと、覚悟を決めた。
そして、マグカップを置いて、再びキーボードを叩き始めた諏訪先輩に向かって、重い口を開いた。
「あ……あの! す……諏訪先輩! お願いがあるんですが!」
「……何? そんなに改まって……」
諏訪先輩は、カタカタと軽快な音を鳴らしながら、顔をタブレットに向けたまま、訝しげに言った。
俺は、気合入れのつもりでマグカップのコーヒーを一気に飲み干す。
そして、椅子を引いて立ち上がり、直立不動になると、そのまま一気に捲し立てた。
「諏訪先輩! クリスマスイブなんですが、ご予定は空いておりますでしょうかッ!」
「へ……へっ?」
カタだだダっ!
それまで、カタカタと規則正しく鳴っていたタイピング音が、一瞬激しく乱れた。
だが、それも一瞬だけ。すぐにいつもの規則正しいタイプ音に戻る。
「ど……どうして、そんな事を聞くの――かしら?」
心なしか、先程までよりも速い間隔でキーを打ちながら、諏訪先輩は俺に尋ねてきた。
そして俺は、より一層顔を引き締め、勢いに任せるまま、一息で言い切った。
「それはもちろん! クリスマスイブに! 付き合ってほしいからですッ!」
「ふぁ、ファあッッ?」
カタ……カだだだだだだだだだダダダダdっ!
諏訪先輩の素っ頓狂な声が上がった瞬間、軽快なタイピング音が、激しい不協和音と化した。




