『セッ』にまつわるエトセトラ
「良かったねぇ~。工藤くん退院して!」
「あ……う、うん! そうだね――」
そう言って、横を歩きながら屈託のない笑顔を向けてくる早瀬に、俺は慌てて頷く。
『しゃぶ華』でのシュウの退院祝いがお開きとなり、帰途に就く早瀬を送る為、俺と早瀬は、日が傾き始めた駅までの道を歩いていた。
季節はすっかり晩秋。陽の光はすっかり弱々しい。ひんやりとした風が、歩道に舞い落ちた落ち葉を巻き上げながらクルクルと旋を巻く。
――だが、俺の心と身体は、肌寒さを感じるどころでは無かった。
寧ろ、熱い。――“暑い”ではなくて“熱い”。……特に、右半身が。
それは、俺の右側を軽快な足取りで歩く早瀬のせいに他ならない。
駅前通りの歩道は、元々3メートル程の幅があるのだが、植えられた街路樹と、その間にみっしりと停められた違法駐輪の自転車によって、通れるスペースがかなり狭くなっていた。
自然と、その狭いスペースを通る俺と早瀬の距離は縮まり……殆ど肩が触れ合いそうなほどに近付いている。
さっきから、早瀬の身体がこちらに寄ってくる度、俺の心臓は陽気なサンバを踊り、俺の脈拍と体温は跳ね上がる。
その内、十五分以上全力で戦った伝説の人斬りみたいに、俺の身体は人体発火を起こしてしまいそうだ……。
と――、
コツン
路駐していたママチャリを避けようとした早瀬の肩が、俺の二の腕に軽く当たった。
「――ヒヒャッ!」
「あ、ごめん、高坂くん。ぶつかっちゃったね」
早瀬の肩が触れた瞬間、まるで高圧電流を流されたかの様に、全身を震わせ硬直した俺に、はにかみ笑いを向ける早瀬。
「ぐ……ぐあああ~……!」
その、麗らかな春の日射しの様な笑顔を前にした俺は、まるで太陽の光を浴びた鬼か吸血鬼かのように悶絶した。
や……止めてくれ、早瀬! その笑顔は、俺に効くッ!
「あれ……? ご、ごめん高坂くん! そ……そんなに痛かった?」
「あ……だ、大丈夫っす、ハイ。――き、気にしないで、うん!」
本気で心配して、俺の顔を覗き込んでくる早瀬に、慌てて首をブンブンと横に振りながら、距離を取ろうとする。
「あ……そう? ホント?」
そう言って首を傾げる早瀬に、今度は大きく上下に頭を振りながら、俺は「大丈夫っす、マジで!」と連呼した。
早瀬は「そう……?」と、半信半疑という様な顔をしていたが、俺が引き攣り笑いを浮かべつつ右腕をブンブンと振り回すのを見ると、やっと笑顔に戻った。
と、悪戯っ子の様な顔になったかと思ったら、声を顰めて、俺に尋ねる。
「ところで……どうだったの?」
「え……? どうだった――て、何が……?」
「――そりゃ、決まってるじゃん?」
俺の訊き返しに、そう言った早瀬は、その猫の様な大きな瞳を細めて言った。
「――あの時、私がハルちゃんとうみちゃんをサラダバーの方に連れて行った時に、高坂くんは工藤くんと一緒にトイレに行ってたじゃん。……その時、何かあったんじゃないのかな~? ……って」
「う――」
ウキウキとして言う早瀬を前に、俺は言葉を詰まらせた。
と、同時に、合点がいった。
……そうか、二人きりになってこの事を聞きたかったから、早瀬は俺に『駅まで送ってほしい』って言ったのかぁ……。
俺は、ほんの少しガッカリしつつ、おずおずと彼女に訊いた。
「な……何で、そう思うのかな……?」
「だって……」
早瀬は、微かに頬を染めながら口籠もる。そして、両手の指を組み合わせて、親指をいじいじと動かしながら、上目遣いで答えた。
「……何かさ、トイレから戻ってきた高坂くんと工藤くんの様子が……変によそよそしかったから……何か進展したのかなぁ……って」
「し……進展んっ?」
俺は、内心でドキリとして目を剥いた。
すると、早瀬が鼻息を荒くしながら、俺に詰め寄る。
「ねえ、ひょっとして告った? 告ったの? で、工藤くんはっ? 工藤くんはオッケーしてくれたっ?」
「こ――告白ゥッ? ……い、いや! してないしてない! そんな事――」
矢継ぎ早に、俺に向かって言葉を投げつけてくる早瀬にドギマギしつつ、俺は慌てて頭を振った。
すると、早瀬は更に顔を紅潮させ、見開いた目を期待でキラキラと輝かせる。
「あ! ひょっとして、告白をすっ飛ばして、しちゃったの? せ……せっ――!」
「おいいいいいいいぃぃぃぃぃっ!」
早瀬がとんでもない単語を口走ろうとしていると思った俺は、慌てて声を張り上げて、彼女の言葉を遮った。
「ちょ……! 『セッ』って、な……何を言おうとしてるの! お、女の子が、こんな公道のど真ん中でェッ!」
彼女の口から、その単語が飛び出すのが、何か嫌だった、……いや、この娘、こんな純真で無垢そうな顔してるけど、BL同人誌を読み耽ってたりしてるから、当然そういう知識も持っているだろうけどさ……。
でも、嫌なモノは嫌なのっ!
「あ……ごめん……」
俺の一喝に、早瀬もハッとして、両掌で口元を押さえた。
そして、さっきまでとは違う理由で顔を真っ赤に染めて、おずおずと言う。
「そ……そうだよね。確かにちょっと恥ずかしいよね……」
「……いや、ちょっとどころじゃ……」
「もっと可愛らしい言い方の方が良かったよね……『ちゅー』とか……」
「うんうん、そうだね! やっぱり『ちゅー』の方……て、あ、アレ?」
どこかのお土産品の赤べこみたいに、首を千切れんばかりに縦に振っていた俺は、ふと違和感に気付いて動きを止めた。
そして、頬を引き攣らせると、恐る恐る早瀬に尋ねた。
「あ……あのぉ……早瀬さん? さっき言いかけた“セッ”から始まる言葉って……何だったの?」
「え……?」
早瀬は、俺の問いかけに、キョトンとした顔で答える。
「ええと……“せっぷん”だったんだけど……。“キス”だと、ちょっと恥ずかしいなあって思って……」
「せ――セップン……接吻ね! あ、ああ~、成程ぉ! 接吻! あ、そうかそうか~!」
早瀬の答えを聞いた俺は、冷や汗をダラダラ流しながら、何度も大袈裟に頷いた。
そんな怪しい事この上ない俺の反応に、早瀬は怪訝な表情を浮かべて、ちょこんと首を傾げる。
「……どうしたの、高坂くん? ――ひょっとして……」
「あ、あはははははぁ~! な、何の事かなぁ~? お、俺は最初っから“接吻”だって分かってましたけどぉ~! あ、あはははは……!」
訝しげな早瀬の視線から目を逸らしつつ、俺は顔を引き攣らせながら、ただただ馬鹿笑いを張り上げるのであった――。




