先輩とおれ
「あ……き、昨日っすか……?」
俺は、引き攣った笑いを浮かべながら、視線を右上に泳がせる。
――そういえば、昨日、早瀬に呼び出され、例の件のショックで抜け殻になっていたせいで、部活に行った覚えが全く無い。シュウが見付けるまで、俺は教室の椅子に座って茫然自失だったのだから、部活に行く気力自体が、すっかり失せていたのだろう。
俺は、諏訪先輩から目を逸らしながら、しどろもどろになりつつ答える。
「あ……昨日は、何だか急に気が遠くなって……気が付いたら、すっかり遅い時間になってしまったので、そのまま帰ったんす。――すみません」
……うん、嘘は言っていない。
「……気が遠くなった――?」
俺の言葉に眉を顰める諏訪先輩。……まあ、こんなスカスカな言い訳じゃあ、このリアクションは当たり前だろうな……。
と、突然、諏訪先輩が椅子を引いて立ち上がった。
そして、俺の方へズイッと身を乗り出して、俺の顔をマジマジと覗き込んできた。
「あ……あの……ど、どうしたんすか、先輩?」
「気が遠くなったって……大丈夫なの、高坂くん? 熱っぽかったりしない?」
ドギマギする俺に、諏訪先輩は心配そうな声をかけてくる。
……しまった。変な言い訳で取り繕おうとしたら、マジで先輩を心配させてしまったか――。
「あ……だ、大丈夫です! 一晩寝たら、元気になりましたから!」
「そう……本当に?」
と、尚も疑わしげに俺の顔を凝視する諏訪先輩だったが、「はあ……」と小さな溜息を吐くと、自分の椅子に座り直した。
そして、キーボードの上に指を載せて、執筆の続きをしようとした様子だったが――、
「……嘘はつかなくても良いわよ、正直に言いなさい」
視線は真っ直ぐタブレットの液晶画面に向け――即ち、俺に横顔を向けながら、彼女は抑揚の無い声で言った。
俺は、先輩の言葉に当惑する。
「……いや、嘘なんかついてないですけど――」
「本当は……部活に出るのが嫌になったんじゃないの、高坂くんも?」
「……へ?」
先輩の唐突な言葉に、俺はアホみたいな声を出した。先輩は、目をタブレットの暗転した画面に据えたまま、淡々と言葉を紡ぐ。
「……良いのよ、無理して出てこなくても。部長達みたいに、部に籍だけ残しておいてくれれば、廃部にはなる事はないし。……ほら、文芸部なんて、こんな風に小説を書いてるだけだから、私ひとりでも不自由はしないし」
「あ……いや……」
「……高坂くんも、他にやりたい事があるのでしょう? 別に咎めだてる事もしないから、もう来なくても別に――」
「ちょ、ストップストップ!」
俺は慌てて、あらぬ所へ飛躍しつつある諏訪先輩の言葉を遮った。
制止された先輩は、驚いた様な顔をして、俺の方を向く。
「お――落ち着いて下さい、諏訪先輩! 俺は、別に部活が嫌で昨日来なかった訳じゃ無いんですよ!」
「……う」
「嘘じゃないです! ……ちょっと、ショックな事があって――その内容は、あんまり言いたくないんですけど……、と、とにかく、それで教室の机でボーッとしてただけなんです! ――そこら辺は、シュウ……野球部の工藤ってヤツに訊いてもらえば分かってもらえると思います、ハイ!」
俺は、誤解を解こうと、更に声を張り上げ捲し立てた。
「と・に・か・く! 俺は、文芸部が嫌な訳じゃないんで! 安心して下さい、先輩!」
「……」
諏訪先輩は、おれの釈明に対して、感情の読めない表情を浮かべたままだった。
――部室の中に、重苦しい空気が垂れ込める。
何だか、とても息苦しい――。
――と、
「……本当に?」
諏訪先輩の唇が動き、その間から微かに掠れた声が漏れた。
俺は、大きく頷く。
「はい! 本当っす!」
「……その割には、部活に来ても遊んでばっかりで、全然活動してくれてないみたいだけど」
と、先輩が、眼鏡越しにジト目で俺を睨む。
痛いところを衝かれた俺は、言葉に詰まって、目を白黒させた。
「う……それは……あ、あくまで着想を得る為の土壌づくりと言いますか何と言いますか……」
「いくら土壌だけを良くしても、種を蒔かないと作物は採れないのよ」
俺の苦し紛れの言い訳をバッサリと斬り捨てた諏訪先輩だったが、つとその頬を緩めた。
「まあいいわ。次から、何でも良いから、一編書いてみなさい。実際に書き始めてみないと、色々な要領も分からないしね」
「あ……で、でも……俺が書いたモンなんて、誰も読まないッスよ。……自信ないです」
「そう言い訳しながら、死ぬまで“研究”しているつもりなの、高坂くんは?」
「……それは――」
辛辣、かつ的を射た先輩の言葉に、俺は言葉を詰まらせた。そんな俺を、諏訪先輩は静かに諭す。――彼女には珍しく、ぎこちない微笑みをその顔に浮かべながら。
「――自信が無いのは、誰でも一緒よ。私も、本を出している作家さんも、――多分、歴史に名を残した文豪達も」
「……そうっすかね」
「多分ね」
そう言うと、先輩は席を立ち、テーブルの上のふたつのマグカップを持ち上げると、俺に向かって尋ねた。
「……おかわり、要る?」
「あ……じゃあ、お願いします……」
先輩は、俺の答えに頷くと、インスタントコーヒーの瓶を開ける。
慣れた手つきでコーヒーを作りつつ、先輩は言葉を継いだ。
「……大事なのは、まず形にする事よ。活字にすれば、誰かがあなたの物語を読んでくれるわ。ある人からは褒められるでしょうし、別の人からは貶されてしまうかもしれない。……でも、それを怖がって、言い訳しながら、何時までも人の目に触れる事から逃げてしまっては、自分の書く話が良いのか悪いのかすら気付けないわ。――それって、単なる時間の空費よ」
「……」
「大丈夫」
と、先輩は、俺の前に湯気を立てるマグカップを置きながら、静かに言った。
「高坂くんの作品は、まず私が読んで、忌憚の無い感想を述べてあげるから。いきなり赤の他人の目に晒すよりは安心でしょ?」
「……はあ……まあ……」
諏訪先輩の“忌憚の無い感想”ってヤツも、ソレはソレで怖いんですけど……。
俺は、心の中でそう思いながら、引き攣った笑いを浮かべる。
そして、慌ててマグカップに口をつけ、コーヒーを口中に流し込み――砂糖とミルクを入れ忘れた事に気が付いた。
が――、
「……あれ? ――あ、甘い?」
意想外にまろやかな甘みが舌に優しく広がり、俺は驚いた。
思わず顔を向けると、澄ました顔でコーヒーを啜る諏訪先輩の横顔が目に入る。
彼女は、横を向いたまま、相変わらずの抑揚のない声で言った。
「……砂糖を三杯半と、コーヒーミルクを二匙入れたけど、どうかしら?」
「あ……入れてくれてたんすか」
俺は思わず目を丸くする。諏訪先輩が、俺のコーヒーに砂糖とミルクを入れてくれたのは初めてだったのだ。
俺は、大きく頷いて言った。
「あ……丁度良いっす! ――ありがとうございます」
「……」
諏訪先輩は、俺のお礼の言葉にも無言で、再びタブレットに向かうと、キーボードを叩き始めた。
……俺は気まずくなって、机に目を落として、マグカップを呷る。
その直後、
「……こちらこそ」
という、諏訪先輩の呟きを耳にしたような気がしたが――気のせいかもしれない。
◆ ◆ ◆ ◆
夕方の5時半を回り、俺は諏訪先輩よりも先に部室を出た。
十月に入って、まさに“つるべ落とし”の如く、日が沈む時間がどんどんと早まっているのを感じる。
早くも薄暗くなり始めた外に出た俺は、駐輪場へと急ぐ。
自分の自転車を見付け、鍵を挿して引き出す。
と――、
「――高坂くん」
突然、背後から名を呼ばれた。不意を衝かれた俺は、「はへ?」と、間抜けな声を出しつつ振り返った。
そこには――、
「高坂くん……ちょっと今、いいかな……?」
「――ッ!」
――早瀬結絵が立っていた。
【イラスト・紅蓮のたまり醤油様】