病院へ行こう!
エレベーターの扉が開くと、先週も嗅いだ覚えのある、消毒液の臭いが鼻についた。
俺たち高坂家一同は、エレベーターを降りると、目的の病室へと足を運ぶ。
「――ちょ! お姉ちゃん! 走って先駆けしようなんてズルいわよ!」
「ふん! 孫子曰く『恋は拙速を尊ぶ』よっ!」
……いや、孫子先生は、確実にそんな事言ってねえだろ。
「待ってよ、お姉ちゃん! 大人げない! お姉ちゃんと違って、私はまだ子どもなんだからぁ!」
「へーん! 恋に老若男女の差は無いのよ! よって、『大人げない』なんて概念もありませーん!」
……我が姉妹ながら、醜い。醜すぎる。
俺は、廊下を全力疾走しようとして、速攻でこめかみに青筋を浮かせた婦長さんの力強い両腕に搦め捕られてしまったハル姉ちゃんと羽海を、呆れた目で見ていた。
婦長さんは、東大門の仁王像も斯くやという形相で、キンキン声をふたりに浴びせる。
「あなた達ッ! ここは病室の廊下ですっ! 騒々しく走ったりしたら、他の患者さんのご迷惑でしょッ!」
「「あ……スミマセン……」」
「まったく! 低学年の女の子の方はともかく、お母さんまで、娘さんと一緒に走るとか――」
「「ちょ! ちょっと待てい!」」
婦長さんの言葉に、ハル姉ちゃんと羽海は、同時に声を張り上げた。――さすがに親子……もとい、姉妹なだけあって、見事なシンクロっぷりである。
「ちょ、おばさん! 誰が低学年よっ! 目ぇ付いてんの、アンタッ?」
「わ……私が……お、お母さんッ? そ……そんな年齢に見えるって……いうの……?」
目を剥いて、婦長に食ってかかる羽海と、呆然として、廊下の壁にもたれかかるハル姉ちゃん。
「あ、スミマセーン! ウチの子達がご迷惑を~!」
「こ……こら、羽海! 止めなさい!」
母さんと父さんが慌てて、喧しく騒ぐ三人に向かって声を上げながら駈け寄る。
「……」
ひとり、騒ぎから取り残された俺は、どうしようか迷い、
「……まあ、父さんと母さんが行ったから、あとは何とかなるだろ……。俺には関わりのねえ事でござんすよ、ってな」
と、出来るだけ他人の顔を装い、スタスタと早足で収拾のつきそうも無い混沌を通り抜けると、勝手知ったる足取りで506号室へと向かったのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
家族の起こした騒ぎから、上手い事離脱した俺だったが、506号室の引き戸に手をかけたまま、もう5分も固まったままだった。
『506』と刻みつけられたプレートを見上げると、嫌でも思い出してしまう。
……先週の土曜日の事を。
『“月は、出ているか”ぁ――――ッ!』
顔を真っ赤にしながら、それでも俺の目を真っ直ぐに見据えて、そう叫んだシュウの姿が脳裏に浮かび、俺の心臓はその鼓動を早める。
――考えてみれば、先週の土曜日以降、俺はシュウの見舞に来ていない。それは、水曜日まで熱を出して寝込んでいた事もあるし、木金は普通に学校に行って、病院に寄る時間が無かった事もある。
土曜日は、諏訪先輩がウチに訪ねてきてたし……。
「……いや、違うな……」
そうじゃない。水曜日まではともかくとして、木曜から昨日までだったら、見舞に行こうと思えば行ける時間はあった。
部活を休んだり、ハル姉ちゃんが諏訪先輩を渋谷まで連れ回している間の時間を利用すれば……。
それでも、そうしなかったのは――シュウと顔を合わせるのに、俺は激しい抵抗を覚えていたからだ。
――かといって、決してシュウに会いたくない、という訳でも無い。
寧ろ、その逆だ。
多分、シュウの事だ。たとえ、この前の事があったとしても、それまでと変わらぬ“親友”としての態度で、俺を迎えてくれるに違いない。アイツは、そういう奴だ。
――問題は、俺の方だ。
いざ対面した時に、俺自身が、シュウに対する拒否反応を見せてしまって、アイツを悲しませてしまうのでは無いか? そうでなくても、今までとは違う態度を見せてしまっては、こんな俺なんかを『好きだ』と言ってくれたシュウの気持ちを裏切る事になってしまうのでは無いか? ……それが、何よりも怖かった。
「……んな事言ってもよ。ここまで来たら、帰れねえだろよ。ヒカル……腹括れ!」
俺は、そう独り言ちて、気力を奮い立たせた。
……そうだよ。
いつか、シュウも言ってただろ? 『オレが信じるお前を信じろ』 ――って。あの時とは、シチュエーションは違っているけど、正に今が、『シュウが信じる俺を信じろ』って時だ。
俺は、覚悟を決めた。
「……よし!」
そして、引き戸の取っ手に手をかけ、ゆっくりと引――
ガラガラ……
「っと! え、ええ……ッ?」
正に自分がドアを開けようとする寸前に、ドアが開き、俺はバランスを崩してつんのめり、咄嗟に、側にあったものにしがみついた。
「う、うわぁっ!」
「きゃ……キャッ!」
ふたつの悲鳴が上がる。
ひとつは、言うまでもなく俺の。
じゃあ、もうひとつは――?
「……ちょっと、晄くん……。重いんだけど……」
「ふぇっ? あ、おばさん――?」
もうひとつの悲鳴の主が、おばさん……シュウの母親だという事が分かり――同時に気が付いた。
バランスを崩した俺が抱きついているのも、おばさんだという事に――!
「あ! す、す、スミマセンッ!」
俺は、おばさんの身体から仄かに漂う、懐かしい香水の香りに鼻腔を擽られるや否や、目を白黒させて、慌てて身を離した。
顔から火が出る思いで、両手をワタワタと振りながら、一心不乱に頭を何度も下げる。
「ほ……本当にスミマセン! あ……あの! 偶然なんで! バランスを崩して、手を伸ばしたところにいたのがおばさんで……思わず掴まっちゃっただけなんで! その……決して、その……」
「大丈夫よ、晄くん」
おばさんは、ガトリングガンの様に言い訳を捲し立てる俺に向かって、柔らかな笑みを向けた。
「そりゃ、いきなりしがみつかれて、ちょっとビックリしちゃったけど、おばさん全然平気だから。……何か、懐かしかったわ。小さい頃に良く、ぐずる晄くんを抱っこしてあげてたのを思い出したわよ」
そう、懐かしそうに言うおばさんを前に、顔を真っ赤にした俺は、ポリポリと頭を掻いた。
と、おばさんがニッコリと微笑んだ。
「晄くん、ウチの子の為に、わざわざ来てもらって、ごめんなさいね」
「あ……いや……」
俺は、バツが悪い思いを感じて、思わず口ごもった。
「その……入院中、あんまり見舞にも来なくて……すみませんでした」
「そんな事無いわよ。秀も、今日、晄くん達が来てくれるって知って、喜んでたわよ」
「あ……そうすか――」
おばさんの言葉に、俺の心の曇りは、少しだけ晴れた。
と、おばさんはクルリと振り返ると、病室の奥に向かって声をかけた。
「ほら、秀! 晄くんも来てくれたわよ!」
「お! 来たかヒカル! 早く入って来いよ!」
「あ……お、おう!」
奥から聞こえてきたシュウの声は、聞き慣れたいつもの調子の声だった。その声を聞いた瞬間、俺の心を覆っていた分厚い雨雲は、一瞬で霧散した。
――同時に、おばさんの言葉に、妙な違和感を感じ、首を傾げる。
「……晄くん『も』?」
俺は、怪訝な表情を浮かべて、首を傾げる。
と、その時――、
「あっ! 高坂くんも来たんだねぇ」
「――ッ!」
突然背後から聞こえてきた、鈴を転がす様な可愛らしい声を聞いた瞬間、俺の時間は、冗談抜きに止まった。
「……へ? ――な、何で……?」
俺は、壊れたからくり人形のようなぎこちない動きで、ゆっくりと振り返る。
……俺の背後には、
「やっほー、高坂くん! こんにちはぁ!」
相変わらずの奇抜な格好で、天使のような笑みを俺に向けた――
早瀬結絵が立っていた。




