ヒカルしっかりしなさい
「……ただいま」
「あ! お帰り~!」
重い足取りで、やっと家に帰ってきて、ドアを開けた俺を、ハル姉ちゃんの脳天気な声が迎えた。
ドタドタと足音を立てて、勢いよくリビングの方から半身を出したハル姉ちゃんが、期待に目を輝かせながら、俺に訊いてきた。
「意外と早かったねえ。――で、首尾はどうだったのかい?」
「……何だよ、首尾って……」
俺は、ジト目を姉に向けると、手を洗いに洗面所へ向かった。
ハル姉ちゃんは、その後をついてきながら言う。
「そりゃあね……スミちゃんとどうだったのかなぁ~、ってさぁ」
「別に……何にも無えよ」
俺は、蛇口を捻りながら、ぶっきらぼうに答えた。
「なぁんだ、つまんないの~」
「……何を期待してたんだよ、全く……」
俺は、眉を顰めながら、鏡に映るハル姉ちゃんの顔を睨んだ。と、ハル姉ちゃんの口元が、三日月の形になる。
「うふふ、そりゃあね……。ウチの可愛い弟が、オトナの階段を昇っちゃう的な……ねえ」
「あら! 昇っちゃったの! ちょっと、ハルカ! すぐにお父さんにメールしないと! 『諦めてた内孫が見られそうよ!』って!」
「昇ってねえよッ! ……つか、諦めんの早すぎだろ、内孫ォッ!」
「え? 冗談抜きに期待しちゃって良いの、内孫?」
「……善処します」
話があらぬ方向に逸れ、俺は辟易しながら、はしゃぐ母さんとハル姉ちゃんを押し退けると、大股でリビングに向かう。
と、晩ご飯が並んだテーブルの前に座った羽海が、上目遣いでおずおずと声をかけてきた。
「ぐ……愚兄! あ……アンタ、あのネクラ女とそういう関係に――!」
「だーっ! 羽海もかよ!」
俺は、女三人の質問波状攻撃に、思わず声を荒げる。
「だーかーらっ! 俺と諏訪先輩の間には、そういうアレは無いっつってんだろうが! あと、“ネクラ女”は、いくら何でも失礼だぞ、羽海!」
「――ッ!」
俺が怒鳴ったのが意外だったのか、羽海はその目を大きく見開き、金魚のように口をパクパクさせていたが、言い返す言葉が見つからなかったのか、ぷうと頬を膨らませて黙り込んだ。
と、俺に続いてリビングに入ってきたハル姉ちゃんが、会話に割り込んでくる。
「――でもさ、正直、どうなのよ?」
「あ? 何がだよ?」
殊更に不機嫌さを露わにして、訊き返す俺に、にやりと笑いかけて、ハル姉ちゃんは言う。
「イメチェンした後のスミちゃんを見て、ひーちゃんはどう思った?」
「ど……どう思った……って……」
ハル姉ちゃんのド直球な問いに、俺は言葉を詰まらせる。
「そりゃ、物凄く変わったなぁ、って――」
「それだけぇ? 『可愛いなぁ』とかは思わなかったのぉ?」
「か! ……可愛いというか、綺麗だなぁとは……」
「はい! ひーちゃんの『綺麗だなぁ』頂きましたぁ~!」
俺の答えに、まるで自分の事のように表情を輝かせるハル姉ちゃん。俺は、顔を真っ赤にする。
「ちょ! な、何だよっ! そんな大袈裟な……!」
「えー、全然大袈裟じゃないよぉ」
俺の言葉に、ハル姉ちゃんは、立てた人差し指を振って、「チッチッ」と舌を打つ。……腹立つなぁ。英国紳士かよ、その仕草……。
「女の子に対して、ひーちゃんからそういうカンタン詞が出てくる事自体、画期的な事なのよ。あなたにも、ようやく人並みの感情が芽生えてきたのね……お姉ちゃん、嬉しいよ~」
「弟を、人の心を知らない、哀しきロボットや人造人間みたいに言うんじゃねえ」
俺は、ムッとしながら呟いた。
と、ハル姉ちゃんは、俺に重ねて訊いてきた。
「――で、それは、ちゃんとスミちゃんに言ってあげたのよね?」
「え……?」
俺はドキリとして、さっきまでの事を思い出し――首を横に振った。
「……い、言ってない……けど……」
「マジでぇ~ッ?」
俺の言葉に、ハル姉ちゃんは大袈裟に仰け反った。
そして、心底呆れたとばかりに、クソでかい溜息を吐きながら、フルフルと頭を振った。
「うわ、かわいそう~! それは、スミちゃんかわいそうだわぁ~! いや、ヒくわぁ。自分の弟ながら、ヒくわぁ~ッ!」
そう大袈裟に嘆くと、廊下の母さんに向けて叫んだ。
「ちょっと、聞いた~? お母さぁん、ダメだよぉ。ひーちゃん、女心がまるで全然分かってなぁい! やっぱり、内孫とか、諦めといた方がいいかも~」
「えー、そうなの? もう、お父さんにメール送っちゃったわよ~」
「い……」
いや、そこまで言わなくてもいいだろうが! つか、メール送るの早いなオイ!
ムッとした俺は、ハル姉ちゃんに言い返そうとするが、上手い言葉が見つからない。
……いや、違うな。
多分、俺は、心の奥ではハル姉ちゃんの言葉に同意してるんだ。だから、言い返したくても言い返せない……そういう事なんだろう。
確かに、一言でもいいから、きちんとした感想を、諏訪先輩にかけてあげるべきだった。渋谷まで行って、あんなに気合の入った格好をして――。
「……て、そういえば……」
そこまで考えて、俺の頭に素朴な疑問が浮かんだ。
「なあ……ハル姉ちゃん……」
俺は、浮かんだ疑問を、ハル姉ちゃんにぶつけてみる。
「諏訪先輩、物凄いイメチェンっぷりだったけどさ……。そのお金ってどうしたの? 美容院代とか、服代とか、化粧品代とか……結構バカになんなかっただろ?」
「あー、それね」
俺の問いに、ハル姉ちゃんは、小さく頷いて答える。
「そうねえ、確かに結構かかったわよ。大体、トータルで五万円くらいかなぁ」
「ご……五万んっ? ね……ハル姉ちゃんが出したの、そんな大金?」
俺は仰天して、思わず声を上ずらせるが、ハル姉ちゃんは、笑顔で首を横に振った。
「ううん。私じゃないよぉ。あ、モチロン、ちょっとは出したけどね」
「じゃ、じゃあ……諏訪先輩が――?」
「ううん。違うよぉ」
「へ……?」
ハル姉ちゃんの答えに、俺は当惑して首を傾げた。
――と、ハル姉ちゃんは、ニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「お金はねぇ……お母さんに頼んで、ひーちゃんのお年玉口座から引き落としてもらった分で払ったんだよ」
「は……はぁ……? ……ん? ――は? はあああああああッ?」
ハル姉ちゃんの言葉の意味を、脳内で咀嚼し、15秒かけて漸く理解した俺は、目を飛びださんばかりに見開いて絶叫した。
俺は、激しく取り乱しながら、素知らぬ顔で夕食の準備に戻ろうとする母さんに食ってかかった。
「ちょ! な……何で! 何で諏訪先輩のイメチェンの為に、俺のお年玉口座の金を下ろすねんッ!」
「え……えと……それは……」
俺の、仁王も斯くやという形相を前に、母さんは顔を引き攣らせながら答える。
「あれは……ヒカルの将来の為に積み立ててた貯金なので……。『絶対に、ひーちゃんの将来の為になるから』って、ハルカが言うから……」
「何じゃそりゃぁあ~っ!」
母さんの話を聞いた俺は、目を剥くと、今度はハル姉ちゃんの方を向いた。
「な……何で! 何で、諏訪先輩のイメチェンが、俺の将来の為になるっていうんだよ!」
「そりゃあ、モチロン……ねえ」
ハル姉ちゃんは、俺の剣幕にも怯む事なく、ニヤニヤ笑いを浮かべたまま答える。
「ゆくゆくは、ひーちゃんとスミちゃんが――」
♪ピロポロピ ピロポロピ……
ハル姉ちゃんの言葉は、突然鳴り出した固定電話の着信音に遮られた。
「あー、はいはーい!」
俺の追及から逃れるチャンスだとばかりに、母さんが小走りで電話の元に駈け寄り、受話器を取った。
「もしもし、高坂でございます。……あ、どうもどうもー! こちらこそお世話になってます~。……いえいえぇ! 今回は大変でしたねえ。…………いーえぇ! それは全然お気遣いなく~。……え? あら、そうなんですかぁ。……」
リビングに、電話用に1オクターブ高くなった、母さんの声が包む。
さすがに、電話の着信中に口喧嘩をする訳にもいかないので、俺は憮然とした顔のままで黙り込む。
――母さんの声は続く。
「……まぁ、それは良かったですねぇ。…………ああ、明日の2時ですか? ……ええ、あ、丁度三人とも居るんで、聞いてみますねえ。……ああ、これからごはん食べるところだったんですけど……いいえ~、全然大丈夫ですよ~。ちょっと待ってて下さいねえ」
そう言うと、母さんは、受話器を耳から離し、送話部を掌で覆いながら振り返った。
そして、俺たち三人の顔を見回しながら、嬉しそうに尋ねる。
「ねえ。みんな、明日の予定は空いてる?」
唐突な質問に、俺たちは戸惑いながら、互いの顔を見合わせた。
羽海が、俺たちを代表して母さんに訊き返す。
「明日……? 何かあるの?」
「そうなのよ!」
母さんは、羽海の問いに嬉しそうに答えると、手に持った受話器を指さしながら言った。
「今ね、シュウ君のお母さんから電話がかかってるんだけどね。――シュウ君、明日退院するんだって! それで、『良かったら明日の退院に立ち会ってくれませんか?』って誘われてるけど……あなた達、どうする?」




