先輩とコーヒーと部活と胃袋
翌日――。
早瀬にきちんと『俺とシュウは、君が考えているようなヤマしい関係なんかじゃ無い!』と伝えよう――そう意気込んで登校した俺だったが、
「もう……マヂ無理……」
朝に胸に抱いていた筈の気概は、放課後には綺麗さっぱり消え失せていた。
いや、休み時間の合間や昼休みに、何度か早瀬に接触しようとはしたのだ。――だが彼女は、学年一の美少女で、男女両方からの人気も高い。
早瀬の周りには、常に陽キャ達による人だかりが出来ていて、筋金入りの陰キャである俺には、ウォール〇リアや初号機のA.T.〇ィールド並に、破るどころか近寄る事すら叶わない障壁となっていた。
そして、為す術も無いまま、放課後に到る……。
ひょっとしたら……と思って、ドアの隙間から早瀬の教室の中を覗き込んだが、早瀬の机の周りにはそれまで通り……否、それ以上の陽キャバリアが展開されていて、もはや、彼女の頭しか見えなかった。
それを見た俺は、
「……――よし!」
大きく頷き――諦めた。
いや、無理無理!
あの、陽キャオーラマシマシの壁を掻き分けて、早瀬に声をかける位なら、ヤクザの家にピンポンダッシュする方がまだマシ……いや、それも別ベクトルで無理……。
取り敢えず、今日は無理だ。日を改めよう。――いや、そもそも、そんなチャンスは永久に来ない気がしないでも無いけど……。
俺は、頭を過ぎった嫌な予感を、頭を激しく振って振り払うと、
「取り敢えず……部活行くベ」
そう独りごちながら、俺は、カバンを肩にかけて、足早にその場を立ち去った。
頭の片隅で『逃げてんじゃねーよ、このヘタレ!』という声が響くが、『否! 断じて否! これは、逃げでは無く、“戦略的転進”だ!』と、我ながら苦しい言い訳をしつつ歩を進めるのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
部活棟は、今の校舎の隣に建っている、二階建ての古い木造の建物だ。俺は、軋む階段を上り、2階の一番奥の部室へと向かう。
部室の扉の磨りガラスには、『文芸部』と墨書された古ぼけた紙が貼り付けられていた。左上のセロテープの粘着力が弱くなっていて、毎度めくれているのを直すのは、もはやルーチンワークと化している。
俺は、がたつく引き戸を力任せにこじ開けながら、部屋の中へ足を踏み入れた。
「……ちわーす」
いつもの調子で、緩い挨拶をするが、返事は無い。
――が、無人ではなかった。カタカタと微かな音が、部屋の奥から聴こえてくる。
俺は、挨拶に対する返事が返ってこない事を気にも留めずに、長机の上にカバンを放り出すと、パイプ椅子に腰を下ろした。それはいつもの事だったからだ。
――と、
「……お疲れ様、高坂くん」
タイピング音が途切れると、澄んだ響きの声が、部屋の奥から投げかけられた。
「あ、お疲れ様です、諏訪先輩」
俺は、声の方へ顔を向けると、軽く会釈する。
そこに座っているのは、文芸部の副部長である、二年生の諏訪香澄先輩だ。
背中まで無造作に伸ばした黒髪と、度の強い黒縁眼鏡で、正直、地味且つ暗めの印象を受ける女子生徒で、その外見通り、地味で暗い。――俺が言うのもなんだが。
「……コーヒー、飲む?」
そう、小さな声で俺に言うと、椅子を引いて立ち上がる。
「あ……すみません、頂きます」
俺が答えると、小さく顎を引いて頷き、脇の戸棚からマグカップを2個取り出した。
そして、引き出しからインスタントコーヒーの袋を取り出すと、慣れた手つきで2匙ずつカップに入れて、ポットのお湯を注ぐ。
「……どうぞ。コーヒーミルクと砂糖は、自分で入れて」
相変わらず、素っ気ない口調で言うと、彼女は自分の分のお湯を注ぎ、元の椅子に座る。そして、立てたタブレットの角度を直し、再びキーボードを叩き始める。
「……ありがとうございます」
俺は、彼女の横顔に礼を言うと、真っ黒なコーヒーに口をつけた。
「……苦っ」
俺は、口の中に広がる強烈な苦味に思わず顔をしかめ、慌てて戸棚の砂糖とコーヒーミルクの粉末に手を伸ばす。
舌を何度か火傷しながら味見をして、砂糖を4杯程ぶち込んで、ようやく耐え得る味に出来た。
「……だから、砂糖とミルクを薦めたのに」
キーボードを叩く手は止めず、タブレットの液晶画面に目を据えたまま、諏訪先輩は抑揚の少ない声で言った。
俺は、その言い草に少しカチンときて、思わず言い返した。
「いや、先輩は平気でブラックコーヒー飲んでるじゃないですか。だから、俺も平気だと思ったんですけど」
「君と私の味覚は違うのよ。人の感性がそれぞれ違うのと同じ様にね」
俺の子供くさい言い訳は、先輩の余裕あるオトナな言葉で見事に封殺され、俺はぐうの音も出せずに、憮然としてコーヒーを飲み干した。……砂糖を入れまくったのに、さっきよりもコーヒーの味が苦くなった様な気がするのは、何故だろうか……。
俺は、コーヒーを飲み干すと、所在なげに部室を見回した。
長机の反対側に、俺達が座っているのと同じパイプ椅子が
あるが、この席が埋まった事は、俺がこの文芸部に入ってから一度も無い。
この文芸部には、名簿上、俺達の他に三人の部員が居る事になっている。しかし、文芸部部長を含めたこの三人は、実質的な幽霊部員である。
部長以外のふたりは、今まで顔も見た事が無いし、部長だという三年生も、入部した日を含めた数回しか会っていない。
つまり、本当に“文芸部”として活動しているのは、俺と諏訪先輩のふたりだけ――。
もっとも、斯く言う俺も、この部室でする事といえば、『研究』と称したラノベ読書や『情報収集』と称したスマホ弄りなので、文芸部員としての活動はしていないに等しい。実際には他の部員と変わらない幽霊だと言える。
さしずめ、三人が“浮遊霊”で、俺が“地縛霊”ってトコロだな。
……部屋には、相変わらず、諏訪先輩が叩くキーボードの音だけが反響している。
さて、俺も“部活動”を始めるとするか……。
空になったマグカップを長机に置くと、俺はポケットを弄り、スマホを取り出し、電源ボタンを押す――が、
「……あ、あれ?」
何度ボタンを押しても、スマホはうんともすんとも言わない。
……そういえば、昨日、うっかり充電忘れてて、殆どバッテリーが残ってなかったんだった……。
今更思い出し、俺は思わず舌打ちをして、スマホをしまった。――こんな日に限って、暇つぶし用のラノベも持ってきてない……。
完全に手持ち無沙汰になってしまった俺は、大きな溜息を吐くと、パイプ椅子に深く腰を沈めた。
――カタカタと、諏訪先輩が軽快なテンポでキーを叩く音だけが、部室の空気を揺らす。
「……暇っすね」
「私はそうでも無いけど?」
「……すみません」
沈黙に耐えかねて、投げかけた言葉をフルスイングで打ち返された俺は、気まずい思いをはぐらかそうと、空になったマグカップに口をつけてみせて場を繋いだ。
――と、それまで小気味よい音を立てて鳴っていたキーの音が、唐突に止んだ。
「高坂くん」
「え――?」
突然、名を呼ばれ、驚いた俺は声の方に顔を向けた。
キーボードから手を離し、マグカップに口をつけている諏訪先輩と目が合った。
「あ……は、はい。――な、何でしょう?」
俺は、諏訪先輩の背後から漏れ出る不穏な空気を感じ、慌てて背筋を伸ばす。
彼女は、じろりと俺を見ながら、ゆっくりと言った。
「あなた――、何で昨日、部活に来なかったの?」
諏訪先輩の言葉を聞いた瞬間、甘ったるいコーヒーで満たされた俺の胃袋が、キリキリと悲鳴を上げた。
(イラスト・いといろ様)
今回のサブタイトルの元ネタは、Mr.Childrenのアルバム「Q」の一曲「友とコーヒーと嘘と胃袋」から取りました。
シニカルな曲ですが、言葉遊びに桜井さんのセンスが感じられる名曲です。
特に、桜井さんが酒を煽って捲し立てたと言う長台詞が、何気に深い事を言ってるんですよねぇ。
「惰性で生きちゃダメ」……うーん、深い。
この曲に限らず、アルバム「Q」は、前向きな曲が多いので、落ち込んだ時に聴くと元気を貰えます。
お薦めです。