ZEN ZEN 気にしない
ハル姉ちゃんは、リビングのドアの前に立ち塞がり、暫く肩で荒い息を吐いていたが、呆気に取られて固まっている諏訪先輩に気が付くと、まるでゴジラのような足取りで詰め寄った。
「え……あ……あの……?」
にじり寄られた諏訪先輩は、眼鏡の奥の目を大きく見開き、身体を小さく竦め……完全に、怯えた子羊のようになってしまっている。
一方、飢えた狼は、眉根を寄せて、諏訪先輩を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見回した後――ニッコリと笑った。
「あらぁ、初めまして! 私、ひーちゃんのお姉ちゃんしてる、遙佳っていいまぁす。気安く、“ハルちゃん”って呼んでくれてもいいよぉ」
「ひ……ひーちゃん……? は……ハルちゃん……ですか……?」
フレンドリーの意味をはき違えまくった、まるでキャバクラ通いの中年サラリーマンのような、ハル姉ちゃんの自己紹介に、すっかり面食らった様子の諏訪先輩。
「だーっ! な、なに、初対面の人に向かって、馴れ馴れしくいっちゃってるんだよ! ――つか、人前で“ひーちゃん”呼びは止めろって言ってんだろッ!」
一方、俺は、顔を真っ赤にし、ハル姉ちゃんに抗議の声を上げた。
「あー、そう言えばそうだったわねえ。……ごめんねえ、ひーちゃん」
「だから、ひーちゃんは止めろと言うにッ!」
この女、絶対わざと言ってやがる……。
ハル姉ちゃんは、俺の厳重なる抗議をサクッと無視すると、目をパチクリさせている諏訪先輩に目を向け直すと、にこやかな表情で尋ねた。
「で――、あなたが……ひーちゃんの彼女の、早瀬ちゃんかしら?」
「か――か、彼女……?」
「だ――――ッ! それは、違えっつってんだろうがぁっ!」
とんだ“濡れ衣”を着せられて、文字通り絶句する諏訪先輩を前に、俺は慌てて声を張り上げた。
「早瀬は、その……タダの友達だって、前から言ってるだろうが! つーか、その人は早瀬ですらねえよっ、この早とちりがぁ!」
「ふえ? ち……違うのっ?」
と、ビックリした声を出したのは、ハル姉ちゃんの後ろで、ドアの間から顔だけ出して様子を窺っていたらしい羽海だった。
「あ――アタシ、てっきり……」
「あ、そうなんだぁ~。……ごめんなさい。人違いしちゃったみたい」
勘違いに気付いたハル姉ちゃんは、申し訳なさそうな表情を浮かべながら、諏訪先輩に軽く頭を下げた。
そして、首を傾げて、彼女に尋ねる。
「じゃあ……あなたは……?」
「あ……は、はい。すみません、名乗るのが遅れまして……」
ハル姉ちゃんの問いかけに、ハッとした顔をした諏訪先輩は、ピンと背筋を伸ばすと、緊張の面持ちで口を動かす。
「あの……私は、文芸部で副部長をしてます――諏訪香澄と申します。……今日は、高坂くんのお見舞いでお邪魔しました。……宜しくお願いします」
そう言うと、彼女は腰を折り、深々と頭を下げた。
ハル姉ちゃんは、諏訪先輩の慇懃な挨拶に、目を丸くして「まあ」と呟く。
そして、興味津々な様子で、諏訪先輩に質問をぶつける。
「副部長って事は――スミちゃんは、二年生なのかしら?」
「す……スミちゃん……?」
諏訪先輩は、ハル姉ちゃんが自分につけたニックネームに、唖然とした顔を見せたが、コホンと咳払いをして気を取り直すと、静かに答えた。
「は……はい。高校二年生……ですが。――それが……?」
「ふぅん……。そうなんだぁ」
ハル姉ちゃんは、諏訪先輩の答えに頷くと、俺の方を横目で見て、ニタリと気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「……意外とやるじゃない、ひーちゃん」
「ふ……ふえ? な……何がだよ?」
「……同級生の女の子と、年上のお姉さん……我が弟とはいえ、隅に置けないわねぇ。お姉ちゃんは、弟が立派に育って、嬉しいような、寂しいような、複雑な気分よぉ……およよよ……」
「そ……それって……フタ……フタマタってヤツじゃないのっ? 不潔! 愚兄のフケッツぅぅぅぅっ!」
「だ~か~ら~っ! そういうアレじゃねえっつってんだろうがぁあっ!」
わざとらしく、袖口で目元を拭くフリをするハル姉ちゃんと、真に受けて盛大にヒスる羽海に、業を煮やした俺は叫んだ。
「……あの……そ、その……」
「ほらぁっ! お前らのせいで、あの諏訪先輩が、物凄く気まずい感じで困っちゃってんじゃないかよぉ! どーすんだよ、この空気ィッ!」
……本当にどうするんだよ。明日から、部室で顔を合わせづらくなっちまうじゃねえかよ!
俺は途方に暮れて天井を仰ぐ。
と――、
「……あら?」
俺の発狂っぷりを見ながら、クスクス笑っていたハル姉ちゃんが、諏訪先輩の顔に目を留めて、小さく呟いた。
「……あらあらあらあらら」
ハル姉ちゃんは、そう繰り返しながら、諏訪先輩に近付き、その長い前髪を手で掻き上げた。
「あ……あの……? は……遙佳……さん?」
「だーめ、ハルちゃんって呼んで♪」
「あ……ハ……ハルちゃんさん……な、何を……?」
狼狽えた様子の諏訪先輩。
――無理も無い。
女とはいえ、初対面の人に、いきなり前髪を触られたら、誰だっておののく。
……だが、ハル姉ちゃんはそんな事には一切頓着せず、柔和な笑みを浮かべつつ、他人のパーソナルスペースの内にズカズカと容赦なく踏み込んでくる。
――正に、『陰キャの敵』なのである。
子どもの頃から、ハル姉ちゃんずっと一緒に育って、色々と揉まれてきた俺にとっては、すっかり慣れたものなのだが、今日が初対面の諏訪先輩は、ハル姉ちゃんのペースには慣れていない。
さすがに見かねて、俺が間に入ろうとする。
「おい、ハル姉ちゃん! ちょっとは遠慮し――」
「ねえ、スミちゃん?」
ハル姉ちゃんは、俺の言葉を華麗にスルーし、諏訪先輩に問いかけた。
すっかりハル姉ちゃんのペースに嵌まった諏訪先輩は、気を呑まれつつ、素直に頷く。
「は……はい……何でしょう?」
「……あなた、お化粧ってしてるの?」
屈託のない笑顔を浮かべつつ、ハル姉ちゃんは、諏訪先輩に尋ねた。
諏訪先輩は、キョトンとした表情を浮かべた後、ブンブンと頭を振る。
「……い……いいえ……。け、化粧とかは……今まで、した事が無いです……」
「そう……じゃあ、この髪の毛は? ちゃんと美容院に行って切ってもらってる?」
「……いいえ……。カトーヨーカドーの一階の、千円カットのお店で……」
「……だよねぇ」
諏訪先輩の答えに、ハル姉ちゃんは小さく頷くと大きな溜息を吐いた。
そして、じっと先輩の顔を見ると、有無を言わせぬ口調で訊く。
「スミちゃん……今度の週末、空いてる?」
「え……ええと……は、はい……」
ハル姉ちゃんの問いに、戸惑いながらも頷く諏訪先輩。
首を傾げた彼女は、おずおずとハル姉ちゃんに訊き返す。
「ええと……そ、それが何か……?」
「うふふ、じゃあ、決まりねぇ! じゃあ――」
諏訪先輩の問いを笑ってはぐらかしたハル姉ちゃんは、やにわに上着の袖を肘まで捲ると、妙に低く渋い声で言った。
「――週末、もう一度来て下さい。本当のスミちゃんをお目にかけますよ!」
って、――や、ヤマ○カさん――ッ?