半透明の月がのぼる空
「……お、俺に、言いたい……事?」
シュウの背中から陽炎のように立ち上る、威圧感に満ちたオーラを前にした俺は、目を白黒させながら、おずおずと訊き返した。
それに対して、無言のまま小さく頷くシュウ。
その目は、3点ビハインドの9回裏ツーアウト満塁の局面で、打順が回ってきた時でも見せないだろうというくらいの気迫を漲らせて、ギラギラと輝いている。
「……な、何だ――ですか? 工藤さん……」
ラスボス裸足の威圧感を以て、ジリジリと詰め寄るシュウを前に、俺は、スライムもかくやとばかりにプルプルと震えるばかりだった。さっきまでの威勢は、ケツを捲って何処かに飛んでいってしまった……。
暫くの間、シュウは、そんな俺を怖い目で見下ろすだけだった。
だが、意を決した様に大きく息を吐くと、ぽつりぽつりと喋り始めた。
「……オレさ。この前、車に撥ねられた時さ……見たんだよ。“ソドー島”ってヤツを……」
「……ひょっとして、“走馬灯”……っすか?」
「……それな」
シュウは、照れ隠しなのか、ゴホンと咳払いをすると、話を続ける。
「――良く、アニメとかマンガとかであるじゃん。一瞬でそれまでの思い出が一気に頭の中に湧いてくるってヤツ。……マジでそのまんまだった……」
「……」
「多分、撥ね飛ばされて、道路に叩きつけられるまでの、ほんの数秒だったと思うんだけど、物凄く長く感じて……色々な事が頭を過ぎったんだ」
そう言うと、シュウは、その時の情景を思い出そうとするかの様に目を瞑る。
「……最初は、幼稚園の入園式で、おふくろに手を引かれてお遊戯室に入っていって――最初にヒカルと会った時の事」
「え……?」
シュウに言われて、俺は慌てて過去の記憶を脳味噌のタンスの中から引っ張り出す。
……そういえば、そうだったかも知れない。――でも、今の今まで忘れていた。
「――それに、年長の時のお泊まり保育で、夜にトイレに行くのが怖くて、ぐずってたヒカルが漏らした事……」
「……それは、思い出さなくて良いだろ……つか、忘れとけ……忘れて下さい……」
いきなり、なかなかの人生の恥部を持ち出され、俺は顔を赤らめる。
シュウは、そんな俺の懇願も耳に入らないかの様に、尚も言葉を継いだ。
「小学二年の時に、六年生に絡まれてたら、ヒカルに助けられた事……」
「……そんな事あったっけか?」
シュウの言葉に、俺は首を傾げた。
――確かに、小学校中学年までのシュウは、今の姿からはとても想像もつかないが、やせっぽちのチビだった。……まあ、俺はそれよりも小さかったんだが。
その為、昔のシュウは、クラスメイトや高学年に良くからかわれて泣いていた。ビービー泣くコイツを側で慰めてあげてた記憶はあるが、助けた事なんてあったかな……?
だが、シュウは「あったよ」と、真剣な顔で頷くと、更に言葉を続ける。
「……それに、林間学校でふたりで遭難しかけたり、修学旅行で遅刻しかけたり……そんな事が、次々に思い出されたんだ。宙を舞っている間に――」
「……ていうかさ……」
そこまで聞いた俺は、その話に引っかかりを感じて、思わず口を挟んだ。
「――何か、お前の走馬灯に、必ず俺が登場してないか……?」
「……そうなんだよ」
俺の言葉に、シュウは頷いた。
「そうなんだよ。……オレの思い出の中には、必ずお前がいるんだ。……撥ね飛ばされてる最中に、オレもその事に気付いたんだ」
「え……?」
シュウの言葉に戸惑う俺。
――と、シュウは、つと目を伏せた。
「その時、オレは切実に思ったんだ……。『死ぬ前に、もう一度ヒカルに逢いたい』――ってさ。お前に二度と逢えなくなる……それは本当にイヤだと思った」
「……」
その言葉を聞いた時、俺の心臓が、トクンと波打つのを感じた。
俺は、何も言えなかった。――何も言えずに、ただ、シュウの口から紡がれる言葉を一音も聞き逃さぬようにと、耳を欹てるだけだった。
そして、シュウは、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「――で、運良く助かって……。病室のベッドに寝転がって、あの時の事を考え直していく内に……何か、解った気がしたんだ……」
「……“解った”――って、な、何が……?」
思わず訊き返した俺の顔を見て、シュウはフッと微笑むと、もう一度大きく息を吐いた。
「……オレ、実はさ。お前から早瀬の話が出る度……それを聞きながら、ずっとモヤモヤしてたんだよ」
「……え?」
俺は、目を丸くして、シュウの顔を見上げた。
……まさか、シュウは、俺が早瀬の事を相談する度に、嫌な思いをしていたのか?
――いや……そりゃそうだ。いかに親友だと言っても、他人の恋なんかをグダグダと聴かされ続けてたら、嫌気も差す――。
「いや……そうじゃないんだ、ヒカル」
俺の表情から、何を考えているのかを察したらしいシュウが、慌てて首を横に振った。
「そうじゃない……。お前が楽しそうに早瀬の話をしてるのを聞くのは楽しかった……それは本当だ。――でも」
そう言いながら、シュウは顔を僅かに曇らせる。
「……何だか、胸のどこかがざわつくというか、締めつけられるっていうか……。ずっとそんな感じでさ。――何でなんだか、自分でも解らなかったんだけど……」
シュウは、そこで一旦言葉を切ると、俺の顔を真剣な顔で見て、力強く頷いた。
「うん――今日、お前の顔を見て、怒られて……そしたら解った。――オレの、本当の気持ちってヤツを、な」
「ほ……本当の……気持ち……?」
シュウの言葉を聴きながら、俺は自分の心にサイレンが鳴り始めているのを感じていた。――この先、シュウが何を言うのか、聞きたいような、聞いてしまったら戻れなくなりそうな……そんな予感がしたのだ。
「しゅ――シュウ、ちょい待――」
「ヒカル! ……オレは!」
シュウが口を開くのを遮ろうとした俺の言葉は、シュウの大声に遮られた。俺は、喉から出かかった言葉を詰まらせてしまう。
そんな俺の前で、シュウは、顔をリンゴの様に真っ赤にしながら、まるで鯉のように、口をパクパクと開け閉めする。
「オレは……その……ヒカ……お前の事が……その――!」
「へ、へ……? な……何――だよ……?」
「オレは……す……あ――――ッ! ダメだ!」
訳が分からず、目をパチクリさせる俺に向かって、何かを伝えようとするシュウだったが、苦悶の表情を浮かべて、絶叫しつつ天を仰いだ。
――と、その目が、何かを捉える。
「…………そうだ」
シュウは、ボソリと呟くと、右腕を伸ばして、空の一点を指さした。
その指の先に見えるものを、俺の目も見止めた。
「……月?」
夕方前の初冬の青空に、ぼんやりと浮かんでいたのは、まるで半分透き通っているかのようにうっすらと見える、昼の月だった。
「……ヒカル」
シュウが、静かに俺の名を呼んだ。
「……何だよ?」
「お前さ……懐メロソーセージって知ってるか?」
「な……懐メロソーセージぃ?」
聞いた事のないトンチンカンな名詞に、俺は目を白黒させるが、すぐにピンときて、苦笑いを浮かべる。
「……もしかして、夏目漱石の事か?」
「…………それな」
シュウはバツの悪そうな顔でコホンと咳払いをし、話を続ける。
「その……夏目漱石って知ってるか?」
「お前なぁ……文芸部ナメてんのかよ。知らねえ訳ねえだろが」
「ああ……そっか。悪い」
俺の答えに、シュウは相好を崩した。
「……その夏目漱石が、訳してただろ? その……オレがお前に言いたいのは……それ……なんだ……」
「……へ?」
……何だっけ? ……確かに、漱石が、月に準えて、翻訳した言葉ってのがあった。――確か、“月が…………何だっけ?
一方、シュウは頬どころか耳の先まで真っ赤に染めながら、辿々しく言葉を紡ごうとしている。
「そ、そう……! つ、月……月……」
そして、目をギュッと瞑り、肚の底から絞り出した大声で、その言葉を――叫んだ!
「つ――“月は、出ているか”ぁ――――ッ!」
「“マイクロウェーブ、来るッ!” ……って、違うわぁあああッ!」
思わず俺はツッコみ、そして叫んだ……正解を。
「それを言うなら、『月がきれいですね』だろうがぁあああああ! ――て……ん?」
俺は、そこまで言うと、目をパチクリさせた。
――『月がきれいですね』
それは、夏目漱石が英語を翻訳する際に使った言い回し――。
そう、
“I Love You”の訳語として……。
…………て、
「えええええええええええぇぇぇぇっ?」




