(女ふたりに挟まれた)男はつらいよ
「何か……ホントにゴメンな……」
シュウが、でかい図体を小さくして、何十回目かの謝罪の言葉を述べる。
「……いや、だから、もういいって」
それに対する俺のこの答えも、もう何十回と繰り返した。……いい加減疲れる。
あの時、シュウに毒霧ならぬコーラ霧を顔面に喰らわされた俺は、ミックのトイレで顔と髪とワイシャツを拭き、そそくさとミックを出た。さすがに、あそこまで周囲を騒がせて、なお居座り続ける度胸は、俺には無かった。
俺とシュウは、自転車を手で押しながら、家に向かって夜道を歩いている。
十月の夜だ。吹く風はどことなくひんやりとしていた。水道水で濡れた髪とワイシャツが冷えて、少し寒い。
「……つーか、寧ろ、俺の方こそゴメンな。変な事言って、お前を驚かせちゃってさ」
俺は気恥ずかしくて、前を向いたままボソリと言った。
「……え? 何でだよ?」
後ろを歩いているシュウが、俺の言った事に心底驚いた様な気配が、背中越しにも伝わってきた。
「ヒカルが謝るような事じゃないじゃん。元々は早瀬の言葉なんだし、無理矢理お前に喋らせたのは、オレの方だし」
「……でも、正直引いただろ、シュウ……」
俺は、恐る恐る訊いた。ミックではああ言ってくれたが、一抹の不安は拭えない。
シュウは、時々無神経で、時々鬱陶しくて、大体馬鹿なヤツだが――良いヤツなんだ。正直、人付き合いが苦手な俺は、コイツが傍にいて、色々と引っ張り回してくれたおかげで、大分救われてきた。
もし、シュウが居なかったら、俺は友達の一人も作れずに、学校内で孤立……下手をすりゃ不登校コースまっしぐらだったかもしれないんだ。
……今日の事のせいで、その距離が離れてしまう事は、本当に避けたい。
「……引く? いや、別に?」
が、あっけらかんとしたシュウの言葉が、そんな俺の心配を、アッサリと吹き飛ばす。
「オレは別に気にしてないよ。……あー、端から見たら、そういう風に見えるのか~――そう思うくらいだな」
「……そっか」
俺は、シュウに悟られまいとして、必要以上に素っ気なく呟いたが、心の底から安堵していた。同時に、シュウに対して、本当に申し訳ない気持ちが満ちてくる。
「明日にでも、早瀬にハッキリと言うよ。――今日の放課後にも言ってたかもしれないけど、記憶が曖昧だからな。……『俺とシュウの間には、そういう……れ、恋愛感情的なモノはありません。ただの親友です』――ってさ」
「…………ああ」
――何だか、妙な間があったような気がしたが、何か考え事でもしていたのかな?
◆ ◆ ◆ ◆
俺とシュウの家は、住宅街の隣り合った区画にあった。殆ど変わらないが、学校からの道のりでは、俺の家の方が僅かに近い。
「――じゃあな、ヒカル。また明日――」
「あ、ちょっと寄ってけよ、ウチに」
俺の家の玄関前で別れて、自分の家へと向かおうとしたシュウを、俺は呼び止めた。
「せっかくだから、お茶でも飲んでけ。おばさん、今日も遅いんだろ?」
「――いやあ、悪いからいいよ。迷惑だろ? こんな遅くに……」
と、柄にも無く遠慮するシュウに、俺は力強く頭を振った。
「迷惑な訳無いだろ? 寧ろ大歓迎だよ、ウチの女性陣は……」
そう言って、シュウを手招きしつつ、俺は家のドアを開けて、玄関に足を踏み入れる。
「ただいま~……」
「……あ! やっと帰ってきた!」
廊下の向こうから、そんな声が聞こえてきたと思ったら、リビングの扉が勢いよく開き、弾丸の様な速さで小柄な影がこちらに突っ込んできて、
「遅っせえよ、この愚兄ッ!」
「ぐふぉおっ!」
真っ直ぐ、俺の鳩尾にヘッドバットをかましてきやがった。まともに食らった俺は、身体をくの字に折り曲げ、玄関の三和土の上へ頽れる。
そんな俺を前に、一丁前に仁王立ちしているのは、妹の羽海だ。
来年は中学に上がるというのに、背はまだ140㎝そこそこしか無い。その上、ピンクでフリフリの付いたファンシーなパジャマを着ているから、ヘタをすると、ぱっと見小学四年生くらいにしか見えない。
――が、それを言うと、すかさずラーメ〇マンばりのキャメルクラッチで俺の背骨を折りに来るので、決してそれを口に出す事は出来ない……。
羽海は、目を吊り上げ、その童顔 (もちろん、この単語も禁句である)を朱に染めながら、俺に言った。
「今何時だと思ってるんだ、このフリョー! 一体、どこに行ってたんだよ! フラフラフラフラほっつき歩きやがって!」
「ぐうう……い、いや……。れ、LANE送っただろ……。『飯食ってから帰る』――って……」
鳩尾の痛みに悶絶しつつ、俺は釈明の声を上げる。
「あー、そういえば、そんなメッセージを見た覚えがあったわぁ、忘れてた」
そう言いながら、風呂場から出てきたのは、パジャマ代わりのヨレヨレの部屋着を着て、濡れた髪をバスタオルで拭く、姉の遙佳だ。
花の大学二年生。俺や羽海と同じ遺伝子を、両親から受け継いでいるとはとても信じられない、スラリとした長身で、スタイルも良い。
決して弟の贔屓目では無く、顔立ちも整ったクール系美女――なのだが、不思議と男の影が過ぎる事は皆無。この外見だったら、大学の男達が放っておくはずがないと思うんだけどなぁ……。
そんなハル姉ちゃんが、艶のある黒髪をバスタオルで撫でつけながら、俺に向かって言う。
「まあ、良いわぁ。ひーちゃん、そんなトコで丸まってないで、さっさと靴脱いで上がりなさいな。ご飯は要らないんでしょ?」
「あ――ああ、食べてきたよ。ミックで」
「はああ? ミックぅ?」
俺の答えに、羽海が大袈裟に仰け反った。
「ウチの今日の夕飯は、すき焼きだったんだよ~! なのに、愚兄はミック! あらららら、勿体な~い!」
「……マジでか」
俺は、羽海の言葉に愕然とした。ウチですき焼きなんて高級料理が出るのは、数ヶ月に一遍のレアイベントだ。よりによって、それが今日だったとは……!
俺は、大きな溜息を吐いた。
「すき焼きだったのかぁ……しくった」
「……ふ、ふん! そう言うと思って、ちょっとだけ残しておいてあげたわよ! さあ、このアタシに感謝なさい、お兄……愚兄ッ!」
「私と父さん母さんは、ひーちゃんの分なんか残さないで、四人で食べ切っちゃおうって言ったんだけど。うーちゃんが、『お兄ちゃんが可哀相じゃん!』って涙目で言うから、しょうがなく残してあげたのよねぇ」
「お――お姉ちゃんッ! な……何を言ってんのよぉッ! アタシは、涙目なんか――ッ」
ハル姉ちゃんの暴露に、覿面に狼狽える羽海。
俺は、苦笑を浮かべながら、羽海に言う。
「羽海、ありがとな」
「は――はああっ? な……何を勘違いしてんのよ、この愚兄!」
顔を真っ赤にして、俺に向けて拳を振り回してくる羽海の頭を伸ばした手で押さえつつ、俺はハル姉ちゃんに訊いた。
「……そのすき焼きって、結構残ってる?」
「まあ、一人分くらいは。……どうして?」
俺の問いに答えつつ、怪訝な表情を浮かべるハル姉ちゃんに、俺はおずおずと言った。
「いや……実は、玄関で待たせてるんだけどさ。――一緒に食べられるだけの量があるかなって思って」
「待たせてる……誰を?」
訝しげに首を傾げるハル姉ちゃんと羽海だったが、
「こんばんは~」
と、玄関のドアを開けて、シュウが入ってきた瞬間、ふたりの目がまん丸になり、数瞬後、
「「えええええええええええっ?」」
二人のあげた驚愕の叫びが、見事にハモった。
「しゅ、しゅしゅしゅ……シュウちゃんんん?」
「しゅ――シュウくんが、どうしてここに……?」
信じられないという顔で、シュウを見るふたりに、俺は簡潔に説明する。
「いやあ、色々あって、今日はシュウとミックで飯食ったんだよ。ついでにウチで茶でもどうかって誘ったんだけど――」
「こ――このバカ愚兄ッ! 何で、それを早く言わないのよッ!」
「ひ、ひーちゃん! もう! LANE使うんだったら、そういう大事な事を伝えてよぉ!」
「……あ、す、スンマセン」
血相を変えた二人の女に、物凄い勢いで責められ、俺は辟易しながら、取り敢えず頭を下げる。――こういう時は、下手に反論するより、素直に謝った方が良い。――姉妹持ちあるあるである。
一方、女ふたりは、アワアワしながら自分の着衣を見ると、大いに狼狽えた。
「きゃ、キャアッ! アタシったら、シュウちゃんが来たのに、パジャマのままだなんて……。早く着替えないとッ!」
「キャッ! 私もこんな部屋着の上に、お風呂入ってメイク落としちゃったじゃないの! も……もう一度、顔を作らないとぉ!」
すっかり色気づいたふたりは、両手で身体を覆い隠しながら、階段を駆け上って、自室へと一目散に戻っていく。
――そして、玄関には、俺とシュウだけが残された。
「……」
「……」
「……何か、悪いな。――やっぱり、帰った方が良かったかな、オレ……」
「い……いや、引き止めたのは俺だし。――気にすんな」
俺は、シュウにそう答えながら引き攣った笑みを浮かべて、ふたりが上がっていった階段を茫然と眺めるだけだった……。