お前がいなければ
今回のサブタイトルは、マンガ『タッチ』のエンディングテーマ『君がいなければ』(歌・岩崎良美さん)です(意味深)。
駅の改札を出た俺は、縺れる両脚を必死で動かし、二段飛ばしで駅の階段を駆け下りる。
自転車を停めている市営駐輪場までは数百メートルの距離がある。俺は、脚を緩める事無く、最短距離で駐輪場に向かって突っ走った。
――脇腹痛え!
いや、脇腹だけではない。日頃、殆ど身体を動かさないツケが回ったのか、アスファルトを蹴る脚にも、交互に振る両腕にも、そして、必死に酸素を取り込もうとフル稼働する肺にも、激痛が走る。
痛みに耐えかね、俺は顔を歪める。が、決して脚は緩めない。
一度足を止めたら最後、蓄積した疲労が全身を一気に巡って、暫くは動けなくなる事が分かりきっていたからだ。
俺は、駐輪場に辿り着くと、走りながらポケットをまさぐり、自転車の鍵を取り出す。自分の青い自転車を見付け、素早く鍵を挿し、ハンドルに手を置いた瞬間、俺は急な目眩を感じ、思わず下を向いた。
「ぜーっ! ぜーっ! ぜーっ! ……ゴホッ! ゴホッ!」
肺が求めるままに、荒い息を吐きながら、俺は激しく咳き込んだ。喉から、ヒューヒューと笛のような高い音が鳴り、半開きになった口の端からは、涎が垂れてしまう。
「ぜー……ぜー……はー……はー……よし!」
数分の間、そのままの体勢のまま、必死で息を整え、やっと落ち着いた俺は、キッと顔を上げた。
「は……早く……早く、行かないと……!」
俺は、そううわごとのように呟くと、一気に自転車を引き出すと、サドルに跨がる。
行き先は、市立大平総合病院。
――シュウが、運び込まれた病院だ。
映画館でハル姉ちゃんからの電話を受けた俺は、事情を話して、その場で早瀬と別れた。
慌てて乗り込んだ、帰りの電車の中で、溜まっていたLANEのメッセージを確認した結果、分かった事は、
『シュウが、部活から帰る途中に、道路に飛び出した子どもを助けようとして、走ってきたトラックと接触し、救急車で病院に運ばれた』
という事だった。
「何だよ……! 子どもを助けてって……!」
自転車のペダルを必死で漕ぎながら、俺は唇を噛みながら呟く。
「野球部でそれって……まるっきり、アレじゃねえかよッ!」
俺の脳裏に、どこぞの双子の兄弟が思い浮かぶ。
確か、アレは、野球部の地方大会の決勝に向かう途中で――だった気がする。
「……それに比べて、お前は練習試合の帰りって――。スケールダウンしすぎだろが!」
俺は、自転車の上でひとり毒づくと、無理矢理笑ってみせた。
が――その嘲笑い顔は、すぐに凍りつく。
撥ねられた双子の弟は、その後……!
「――ふっざけんな!」
俺は、自転車を漕いだまま、天に向かって絶叫した。
そして、ペダルを踏む足に、一層の力を込める。
「ふざけんなよ! そんな……そんなマンガみたいな事になる訳――無えだろうがッ!」
◆ ◆ ◆ ◆
息も絶え絶えになりながら、やっとの思いで病院に辿り着いた俺は、自転車を停める時間も惜しんで、駐輪場の壁に立てかけると、受付に向かって走り始めた。
病院の入り口をくぐった所で、鍵を掛け忘れた事に気付いたが、戻る暇も惜しむ。
「あ――あのっ、スミマセン! シュ、シュウ……工藤秀の病室って、どこですか!」
受付にへばりつくように駈け寄った俺は、ビックリして目を丸くした受付のおばさんに、怒鳴るように尋ねた。
おばさんは、目をパチクリさせながら首を傾げる。
「ええと……クドウ――シュウさん? それって――」
「今日! 多分、ついさっき! 交通事故で運ばれてきた高校生ですッ!」
俺は、肺の息を一気に絞り出して、広いロビーに響き渡るくらいの声量で叫んだ。
おばさんは、俺の形相に気圧されたのか、ヒッと声を上げて身を縮こまらせたが、
「ああ……彼ね。――確か」
おばさんの後ろでパソコンを叩いていた若い看護師さんが、声を上げた。
マウスを操作し、画面を一瞥すると、俺の方を向いて答えた。
「ええと……、工藤さんは506号室ですね。面会希望なら、お名前を――」
「ありがとうございますっ!」
俺は、病室の番号を聞くや否や、クルリと振り返って、足早に階段に向かった。
背後から、「こら! ちょっと待ちなさい――!」という声が聞こえるが、待ってなどいられない。
さすがに、病院内を全力疾走する訳にいかないと配慮する余裕は残っていたので、逸る心を抑えつつ、階段を一段飛ばしで昇る。
途中で、足が攣りそうになりつつ、五階まで昇り、俺はキョロキョロと廊下を見回した。
と――、
「あ、お兄……愚兄ッ! やっと来た!」
向こうから、聞き慣れた声が聞こえた。……俺をその蔑称で呼ぶヤツは、一人しかいない。
「――羽海ッ! しゅ、シュウは――」
「こっち! 早く……!」
「……羽海?」
羽海の顔を見た俺は、背筋が凍りつくのを感じた。
妹の顔が、涙でグジャグジャだったからだ。
やにわに胸の中の心臓が、ドクドクと喧しく騒ぐのを感じた。
……行きたくない。
思わず、このまま右に回れして、階段を降りたい衝動に駆られたが、その心とは裏腹に、俺の脚はゆっくりと羽海の方へと歩みを進めていく。
「な……何だよ、羽海。そ――そんな顔して……なあ?」
「お兄ちゃん……シュウちゃん……シュウちゃんが……ヒック」
「何だよ……! 何で泣いてるんだよ、オイ!」
「ふ……ふええええええええ~っ……」
俺の声に、ビクリと身体を震わせると、羽海は目からポロポロと大粒の涙を零しはじめた。
いつも超強気な妹の、らしくない姿に、俺の胸の不安はますます大きくなっていく。
俺は、羽海の背後のプレートに『506』と部屋番号が刻まれているのを確認すると、そのドアの取っ手に手をかける。
……左胸でドクドクと鳴り響く心臓の音のせいで、周りの音がロクに聞こえない。
取っ手にかけた俺の手が小刻みに震え、ドアが細かく振動しているのを感じつつ、俺はゴクリと唾を飲み込もうとしたが、口の中がカラカラに乾いて、飲み込む唾が無かった。
だが、いつまでもこのままでも居られない。
俺は、激しく頭を振って、頭の中に浮かぶ最悪の光景を振り払うと、苦労して何とか笑顔を拵え、静かに戸を引いた。
「よ――よお、シュウ! と……トラックに撥ねられたなんて、大丈夫かよ? うっかり、異世界転生なんかしてないだ――ろう……な……」
わざとらしく、冗談交じりに茶化そうとした俺の言葉は――中途で消えた。
俺の目に飛び込んできたのは、白いベッドの脇の椅子に座って、ガックリと肩を落としたハル姉ちゃんの背中と、
「しゅ……シュウ――」
頭を包帯でグルグル巻きにされて、固く目を閉じたシュウの顔だった――。
「……!」
「……あ。……やっと、来たのね……ひーちゃん……」
俺の声を聞いたハル姉ちゃんが振り向く。
……その目は、真っ赤に充血していた。
「……嘘……だろ……?」
俺は、呆然としたまま、入り口の前で立ち尽くす。脳の処理が追いつかない。目の前の状況がどういう事なのか、理解が出来なかった。
そんな俺を、ハル姉ちゃんは静かに手招きする。
「ほら……いつまでも、そんな所で立ってないで……。こっちにおいで。――シュウくんも、ずっと待ってたんだから……」
「…………シュウ……嘘……」
俺は、茫然自失のまま、ハル姉ちゃんの招きに応じて、ゆっくりとベッドへと歩み寄る。
「……シュウ……」
俺は、掠れた声でシュウの名を呼ぶが、ベッドの上の親友はピクリとも動かない。
シュウの左頬には、血が滲んだガーゼが貼り付けられていて、痛々しかった。
「おい……シュウ……嘘だろ? なあ……」
「……きれいな顔してるでしょ?」
呆然とする俺の横で、ハル姉ちゃんが静かに言った。
俺は、力無く頭を振った。
「……嫌だ」
「……嘘みたいでしょ?」
「――止めろッ!」
俺は、ハル姉ちゃんの言葉を遮ろうと、声を張り上げた。
同時に、俺の両眼から、さっき映画を観た時にも流れなかった涙が、一筋流れた。
が、ハル姉ちゃんの言葉は止まらず、決定的な一言を紡ぎ出す。
「――死んだフリしてるだけなんだぜ、それで……」
「だから! 止め――って…………え?」
「…………ぷっ」
――『死んだフリしてるだけ』……耳を疑う言葉に、文字通り目を点にした俺の前で、ベッドの膨らみが小刻みに揺れはじめ、
「……ぷ、はははははははッー!」
突然の大爆笑と同時に、シーツが吹き飛んだ。
――そして。
そこには、ベッドの上で腹を抱えて笑い転げるシュウが居た。
「あはははは! ビックリしたかよ、ヒカル! アレだよ、ドッキリだよ!」
「……」
「ふふふふ。ゴメンねぇ、ひーちゃん。シュウくんが、どうしてもやりたいって聞かなくて……。でも、何か面白そうだから、お姉ちゃんもノッちゃって」
「…………」
「……アタシは、止めた方がいいって言ったんだけど……シュウちゃんに協力してって頼まれたから、仕方なく……」
「…………………」
満面の笑顔を見せるシュウとハル姉ちゃん、そして、少し困った顔で苦笑いを浮かべている羽海の顔を、順番に見回しながら、俺はただただ呆然としていた。
――と、
「「「……あ」」」
三人が、ギョッとした顔をした。
「ひ……ヒカル……ひょっとして、泣いてんのか?」
「え……ウソ?」
俺の顔を見た途端、シュウとハル姉ちゃんが目に見えて狼狽えはじめる。
「……」
「あの……ご、ごめん……。そこまでマジに受け止めるとは思わなくって……その――」
「お……オタクなひーちゃんの事だから、て……てっきり、『きれいな顔してるでしょ?』の時点で察するかなぁ――って思ったんだけど……」
「…………て」
慌てて言い訳し始めるハル姉ちゃんとシュウの顔を、俺は涙で霞んだ眼で見回し――、
そして、スーッと大きく息を吸い込んでから、胸の吃水線いっぱいに蓄積した不安と悲嘆と――憤怒をひとまとめにして、一気に吐き出したのだった――!
「てめえら! ふざけんじゃ、ねえええええええええッ!」




