クレープを分けた日
俺と早瀬は、全力疾走でオトナの宿通りを脱出し、肩を激しく上下させながら、ようやく脚を緩めた。
どうやら、怪しい界隈は抜けたらしい。今いる通りには、オシャレなブティック店や服屋さんがズラリと軒を列ねていた。
――何とか、北丈寺のメイン通りに戻って来られたらしい。
「ぜえ……ぜえ……は、早瀬……ぜえ……さん、だ、大丈夫?」
「……うん……何とか……」
息も絶え絶えでお互いの顔を見合わせる俺と早瀬。――と、早瀬が突然笑いはじめた。
「ぷ……あははは! ビックリしたねぇ。いつの間に、あんな所に出ちゃって――。超恥ずかしかったぁ~!」
早瀬の屈託の無い笑顔に、俺の顔も綻んだ。
「……は、ハハハハハッ! 俺もビビったよ~。にしても、雰囲気ヤバかった……」
「うふふ……ホントにねぇ」
俺と早瀬は、ひとしきり笑い合う。
すると、突然、早瀬が道端の小さな店を指さした。
「ねえ……高坂くん。私、走ったら、お腹が空いちゃったんだけど……あそこのクレープ、食べてみない?」
「へ……ク、クレープ……?」
俺はビックリして、早瀬の指の先に目を凝らした。
……なるほど。確かに、ショーウインドウに三角形の何かが展示されている、ピンク色の派手派手しい看板を掲げた店がある。
そういえば、甘い匂いが鼻をくすぐっている。その発生源は、あの店だったようだ。
「ね? 一緒に食べよ?」
「ファッ! い――一緒に……っ?」
早瀬が、小さく頷きながら上目遣いで見てくるので、俺は思わず声を上ずらせ、カクカクと、まるで壊れかけの旧式ロボットの様に首を縦に何度も振った。
「も……もももちおん! たたた食べよう、ウン!」
「やったぁ~!」
俺の答えに、早瀬は無邪気にガッツポーズをして、軽快な足取りでクレープ屋に向かって一直線に駈けていく。俺も慌ててその後を追う。
俺が追いつくと、早瀬はサンプルの展示されたガラスケースに張り付いていた。
「うーん、どれも美味しそうだなぁ……迷っちゃう……」
早瀬は、頬に手を当てながら、難しい顔をして唸っている。
「やっぱり、甘い系がいいかな……でも、お昼前だから、しょっぱいおかず系も捨てがたいんだよねぇ……そうだっ!」
彼女は、神の啓示を受けた預言者のような表情を浮かべると、後ろに立っていた俺の方に振り返った。
「ねえ、高坂くんッ!」
「へっ? あ、ハイ! 何でしょう、早瀬さんッ!」
彼女の勢いに面食らって、俺は思わず背筋を伸ばして答える。
そんな俺に、早瀬は真剣な表情で言った。
「ねえ……私が甘いクレープを頼むから、高坂くんはおかず系のを選んでくれない? ――で、途中で交換するの! そうすれば、甘いのとしょっぱいのを両方食べられていいと思うんだけど……どうかな?」
「は――ハイ! 素晴らしい考えであります、サーッ!」
俺は、真顔の彼女に詰め寄られて、反射的に了解し、最敬礼した。
……ん? 今、何て言った、この子?
「決まり! じゃあ、私、バナナチョコクリーム! ――高坂くんは、何がいい?」
「へ……え、えーと……」
俺は、彼女に促されるままに、ショーウインドウとにらめっこし、レタスとシーチキンとコーンがトッピングされたものを頼んだ。
十分程経って、出来上がった熱々のクレープを受け取り、俺たちは、店の前の長椅子に腰掛ける。
「うわぁ、美味しそ~!」
「……う、うん」
無邪気にはしゃぐ早瀬とは対照的に、俺はガチガチに緊張していた。……当然だろう? 俺のすぐ隣に、学年一の美少女が座ってるんだぜ……格好はかなり奇抜だけれど。
電車の座席以外で、家族以外の女の子と、ここまで接近した経験が無い俺は、すっかり舞い上がりながら、半ば機械的に、手にした三角形に畳まれたクレープを口に運んでいた。
「ん~、美味しい! クリームがフワフワだよぉ。高坂くんのも美味しい?」
と、早瀬が満面の笑みで俺に訊いてくるが、正直、緊張し過ぎてて、味など感じる余裕が無い。
俺は、ぎこちなく頷くだけだった。
――すると、
「はい!」
突然、早瀬が俺の目の前に自分のクレープを差し出してきた。
俺はビックリして、目をパチクリさせる。
「……え? な、何……?」
「ほらぁ、さっき言ったじゃん! 『途中で交換しよ』って。だから、交換!」
「……ここここ交換んんん?」
俺は、飛び出さんばかりに目を見開いた。
交換? 俺の食べかけと早瀬の食べかけを――こここここ交換んッ?
そ――それって……!
「ああああああの、ははは早瀬さ――!」
「はい、交換~」
盛大にキョドる俺の手元からクレープを取り上げた早瀬は、俺の空いた手に、自分の持っていたクレープを持たせる。
「いやいや、ちょ、ちょっと待って! これじゃ……かかか間接キ……キ……!」
「んー、こっちも美味しいね!」
「あ……!」
何の抵抗も躊躇も無く、俺の食べかけのクレープを口に運んだ早瀬は、至福の笑みを浮かべた。
「高坂くんも、それ食べてみて。ホントにクリームがフワフワしてて、チョコと良く合うの。美味しいよ~!」
「あ……うん……いや……いいの?」
「もちろん! 全部食べちゃっていいよ~」
……いや、早瀬さん。俺が言った『いいの?』は、それに対する『いいの?』じゃないんですけど――。
「……」
俺は、手にしたクレープを凝視して、ゴクリと生唾を呑み込んだ。
クレープの上から三分の一ほどが、半円状に切り取られている。――そりゃそうだ。食べかけなんだもん……早瀬の!
即ち――このクレープは、早瀬の唇に触れている。それに俺が口をつけるという事は……もしかしなくても、
か、か、間接キッスぅぅぅぅ!
俺は、目を血走らせて早瀬の方を見た。彼女は相変わらずニコニコしながら、俺から受け取ったクレープをはむはむと頬張っている。
……よし! 俺は決意した。
(ウオオオオオオオオオオオオッ! 食ってやる! 食ってやるぜええええッ!)
そう、心の中で絶叫しつつ、ワニのように口を大きく広げ、甘い香りを放つクレープに齧り付こう――とした瞬間!
へにょっ
――突然、クレープがお辞儀した。冷めた生地がふやけて、まっすぐな姿勢を保てなかったのだ。
そして、折れた勢いで、クレープは俺の手の中からするりと抜け出し……
べちゃり
と音を立てて、歩道のアスファルトの上に落っこちた……。
「あ……」
突然の事に、俺の口からはそれしか出なかったが、心の中では、
(ああああああああああああっァァあぁぁぁっ!)
と、地獄の釜の底から漏れ出るような嘆きの絶叫を上げていた。
「あ! 高坂くん、大丈夫? クレープ、落ちちゃった!」
隣で、早瀬の慌てた声が微かに聴こえる。
が、俺はまるで死闘を繰り広げた後、コーナーポストで真っ白に燃え尽きたボクサーの如く、俺の手からアイキャンフライしやがったクレープのなれの果てを見つめるだけだった……。
……さよなら、俺のファースト間接キス――。
今回のサブタイトルの元ネタは、CHAGE and ASKAのアルバム『TREE』収録の曲『クルミを割れた日』です。
分かっかなぁ…分っかんねぇだろうなぁ……。




