白目
「……ごめんなさい。もう、大丈夫です」
余り気味の袖で目元を拭いながらはにかみ笑いを浮かべて、早瀬が諏訪先輩から離れたのは、子供のように泣きじゃくり始めてから10分程経ってからだった。
「……落ち着いた?」
そんな彼女に、スカートのポケットから取り出したハンカチを手渡しながら、諏訪先輩は優しい声で訊いた。
早瀬は、「はい」と答えてニコリと微笑むと、俺の方を振り返った。
「高坂くんも、ごめんね。いきなり泣き出しちゃったりして……ドン引きでしょ?」
「へ? あ、いやいやいやいや! ドン引きなんてとんでもないッ! 寧ろ、眼福でした……」
「……ガンプク?」
「あ! い、いやいや、コッチの話! アハハハ……」
キョトンとした顔で首を傾げる早瀬を前に、慌てて笑って誤魔化す俺。彼女の後ろから、諏訪先輩がジト目で睨んでいるのが垣間見えたが、全力で見ていないフリを決め込む。
「でも……ドン引きはしなかったけど、まあ、ビックリはしたかな。ど、どうして泣いちゃったの? 早瀬さん……」
「うーん……何でだろうね。正直、自分でもよく分からないけど……多分、安心したのかな、私」
「安心……?」
「――うん」
早瀬はちょこんと頷くと、ポツポツと話し始める。
「私、ずっと怖くて、哀しくて……。『高坂くんが怒ってる。嫌われちゃったかも』……って。気にしてたんだけど、自分から話しかけるのが怖くて、ずっとモヤモヤしたまんまで。――昨日も、せっかく高坂くんがLANEを送ってきてくれたのに、気付くのが遅れて、返せずじまいだったし……」
「あ、そういえば……」
そうだった。俺の送った――正確にはシュウが俺のフリをして――LANEが未読スルーされてたんだった……。
てっきり、俺の方が嫌われて、無視されてるんだと思い込んでたけど――、
「あれは、単に気付いてなかっただけなんだ……?」
「うん……」
早瀬は、しおれた花のように項垂れると、小さな声で答える。
「……私のLANEって、色んな人からどんどんメッセージが届くから……。高坂くんからのメッセージのすぐ後に、他の子からのメッセージが入っちゃって、それで新着通知が埋もれちゃったみたい。――結局、今朝になって、ようやく高坂くんからのメッセージに気が付いて、慌てて返信しようとしたんだけど、時間が過ぎちゃったなぁ……って思ったら、それも出来なくって……」
「そういう事かぁ……」
早瀬の言葉に、俺は納得して、うんうんと頷いた。『他の人からの新着通知に流されて、メッセージを見逃す』なんて、メッセージ自体が殆ど届かない俺じゃ絶対に起こらない事だけど、交流範囲バリ広の早瀬だったら、いかにもあり得そうな事だった。
と、早瀬がまた泣きそうな顔になったので、俺は慌てて笑顔を拵える。
「あ! そ、そういう事だったら、全然大丈夫! お、俺は全然気にしてないからさっ、早瀬さんも元気出して――」
「……『俺は全然気にしてない』ねえ……」
早瀬の後ろから、ボソリと声が聞こえてくる。
「……さっきまで、この世の終わりみたいな顔してたのは、どこのどなただったかしらね……」
「ゴホッ! ゴホ、ゴホォッッ!」
ちょっとぉ! 余計な事を言わないでほしいんですけどぉ、諏訪先輩ッ!
俺は、わざとらしい咳払いで、外野の雑音を必死に掻き消す。
だが幸い、早瀬の耳には、諏訪先輩の呟きは届かなかったようで、彼女は穏やかな表情で言った。
「……だから、そこら辺が私の勘違いだって分かって……本当にホッとしちゃって。そしたら、ずっと押し込めてた何かが噴き出ちゃった感じ……なのかな、多分。――やっぱり変だよね、私。えへへ……」
そう言うと、彼女はまさに天使の様な微笑みを俺に向ける。
「でも、本当に良かったぁ。 高坂くんが怒ってないって事が分かって。……勇気を出して、高坂くんに会いに部室まで来て良かった!」
「フェッ? あ――、うん、そそそうだねぇ!」
お日様の様に朗らかな表情を浮かべる早瀬を前に、俺はドギマギしながら、水差し鳥のようにコクコクと首を振った。
そして脳内で、(あれ、何だこの流れ?)と、頻りに首を傾げていた。
――何で早瀬は、そんなに俺との事を気にしているのかな?
――もしかして、これはアレじゃね? ……ラブコメで良くある、フラグってヤツ!
――乗るしか無くね? このビッグウェーブに!
――いやいや! こんなに可愛い早瀬が、俺みたいな、何の取り柄も無い十把一絡げのモブ相手に、そんな感情を……。
――いや、でも、この流れは、そういう事なんじゃね……!
――いやいや、あんまり調子に乗るなよ、俺!
――そうそう! ちょっとトイレに行って、鏡を見てこいよ。ついでに顔を洗って目を醒ましてこい!
――ちょ、おま! いくら俺だからって、俺の事をそこまで悪し様に言う事ぁねえだろう! 俺のクセにッ!
――これもう分かんねえな……。
……やにわに脳内で開催された『第372回・俺連合臨時会議』に、大いに心を乱される俺。
と、
「……あ! もうこんな時間! 私、もう帰らなくちゃ!」
早瀬が慌てた声を出して、上の空の俺の横をすり抜けて、部室の扉を開けた。
そして、くるりと振り向くと、俺と諏訪先輩に向けて、ペコリと頭を下げると言った。
「あ――あの! お邪魔しました! それと……ありがとうございました、センパイ! ハンカチは、洗ってから返すんで!」
「あ、うん。いつでもいいわよ」
そう言って、早瀬に微笑み返す諏訪先輩。
「――高坂くん!」
「……え? あ、はいぃっ! ななな何でしょうっ?」
急に声をかけられて、俺はビックリして目を丸くする俺に、早瀬は満面の笑顔を向けた。
「またLANEするね! あの話も進めないとだからねっ!」
「あ……う、うん」
俺は、引きつり笑いを浮かべながら頷いた。また、早瀬とLANEでやり取りが出来るのは、文句無しに嬉しいんだけど……“あの話”って、あの話だよなあ……。
「……“あの話”?」
あーっ! 諏訪先輩! その辺りには食いつかなくていいですッ!
「……あ、ごめんなさい。それは、高坂くんのプライベートに関わる事なんで……」
「ふうん……、まあ、いいけど」
諏訪先輩は、興味無さげに鼻を鳴らしたが、
「……それよりも、少し気になったのだけど――」
と、俺と早瀬の顔を見回しながら、眼鏡のレンズをキラリと光らせる。
「あなたと高坂くんって、その……どういう関係なのかしら? ひょ……ひょっとして、その――」
「ファッ! せ、先輩ぃっ?」
な……何をいきなりぃ! ――と、突然ぶっ込んできた諏訪先輩の言葉に俺は仰天して、思わず素っ頓狂な声を上げた。
……だが、心のどこかで、俺の一部は喝采を上げた。――よくぞ、俺が訊きたくても訊けない事を、ズバリ訊いて下さった! ――と。
俺はゴクリと固唾を呑みながら、恐る恐る、早瀬の方を見る。
「えと……私と、高坂くんの、関係ですか……?」
早瀬は戸惑うかのように、その大きな目をパチクリさせていたが――ニッコリと笑って答えた。
「――はい! もちろん、共通の趣味を持つ、いいお友達です!」
「――ですよねえええええええ!」
早瀬の答えに、俺は叫びながら、大きく頷いた。
――白目を剥きながら……。
『白目』です。
『はくじつ』じゃなくて『しろめ』(笑)。




