いくつもの誤解をかさねて
「あ、あの……は早瀬さん。こ、こ、こ、コーヒー、どどうぞ」
壊れたCDのように、つっかえつつどもりつつ、俺はパイプ椅子にちょこんと腰掛けた早瀬の前に、湯気を立てるマグカップを置いた。
「ぷっ……」という吹き出し笑いがキーボードを叩く音に混じって聞こえてきたが、取り敢えず聞こえなかったフリを決め込んでやり過ごす。
「あ……ありがとう――高坂くん」
早瀬は、相変わらずの固い表情のまま、小さく頷くと、マグカップを両掌で包むように持ち、ふーふーと息を吹きかけてから、その小さな口を付けた。
「にが……」
「あ……ゴメン! 砂糖とミルク……これどうぞ!」
苦味に思わず顔を顰めた早瀬を見た俺は、慌てて戸棚のシュガースティックとコーヒーミルクを容器ごと差し出した。
「あ……ありがとう。――でも、こんなには要らないかな……」
目の前にドンと置かれた二つの容器を見て、早瀬は目を丸くして――困り笑いを浮かべる。
……やべえ、やっぱ、メッチャ可愛えええ!
困り笑いながら、久しぶりに目の当たりに出来た早瀬の笑みの尊さに、俺は思わず右拳を突き上げて昇天しかける。
我が生涯にぃぃっ、一片の悔い――いや、あるわッッ!
取り敢えず、何故彼女が、こんな建物の端っこにある文芸部の部室にまで、わざわざ俺なんかを訪ねに来たのか――それをハッキリさせねば、アイツの強敵として、最終回の空に顔を並べる事も出来やしない。
……いや、アイツって誰だよ?
「……あ、あの! ……高坂くん……」
「……え? あ、ああっ! な……ナンデスカ、早瀬サンッ?」
脳内の俺がセルフツッコミをかましている最中に、早瀬から声をかけられた俺は、素っ頓狂なハイトーンで返事をしてしまう。
「……ぷぷっ!」
……再び、吹き出した声が耳に届き、さすがに俺はムッとした顔で、声の元を睨む。
いつもは背筋をピンと伸ばしてキーボードを打っている諏訪先輩が、背中を丸めて下を向き、肩を小刻みに震わせていた。
……自分から引き止めておいてなんだけど、やっぱり、帰ってもらおうかな……。
と――、
「あ――あの……」
「あ! は、はい! 聞いてます、ハイッ!」
再び早瀬に声をかけられ、俺は背筋をピンと伸ばして、彼女に向き直った。
――そして、思わず言葉を喪った。
早瀬が、真剣な顔で、俺の事を見つめていたからだ。
「は――早瀬さん……?」
「あ――あの!」
彼女は、ピンと背筋を伸ばすと、
「ごめんなさい!」
そう叫ぶように言って、俺に向かって深々と頭を下げてきた。
は――?
「……は、はいぃっ?」
俺は、呆気に取られて間の抜けた声を上げ――それからワタワタと狼狽える。
「え……えと、早瀬さん? な、何か……流れが全然――見えないんですけど……」
「……高坂くん、十日くらい前から、ずっと怒ってるでしょう――私に……」
「……へ?」
早瀬の言葉に、俺は『鳩が豆鉄砲を食ったよう』という諺を体現するかのような顔をして、呆気に取られた。
……十日くらい前から怒ってる? 俺が? 早瀬に?
「えと……何の話……でしょうか……?」
「……え――?」
キョトンとした顔で聞き直した俺の顔を見ながら、早瀬もキョトンとした顔で首を傾げた。
「え……ウソ……。だって……あの時――」
「いや、ウソじゃなくって……ま、マジで心当たりが無いんですガ……」
「――取り敢えず、早瀬さんが言ってる“あの時”について、ふたりで突き合わせてみたらどうかしら? このままじゃ、いつまで経っても、話が先に進まないわよ」
俺たちを見かねて、“居るだけ”だったはずの諏訪先輩が口を挟んできた。
――確かに、一理ある。
俺は頷くと、おずおずと早瀬に尋ねる。
「あ……あのさ、早瀬さん。――君が言ってる“あの時”って、何時の事……?」
「……え……と。――ほら、日曜日。高坂くんと一緒に、栗立のアニメィトリックスで、やおい本を――」
「! や、やお――?」
「ああああ――っ! そうそう、そうだったねぇえええ! 栗立駅で色々買い物をした日ねぇ! はいはい!」
『やおい本』というキーワードに、ピクリと眉を吊り上げた諏訪先輩の顔を見た俺は、慌てて声を張り上げる。諏訪先輩にまで、妙な誤解をされたらかなわない。
全身から冷や汗を吹き出しながら大袈裟に頷く俺を、ビックリした顔で見ていた早瀬だったが、また俯くと、ポツポツと言葉を紡ぐ。
「……その二日くらい後。学校の廊下で高坂くんを見かけて、私、手を振ったんだけど、高坂くん、怖い顔してそのまま行っちゃったの……。それで私、何か、高坂くんを怒らせるような事をしちゃったのかなぁ――って……。それから、何か気後れしちゃって……LANEとかも送りづらくて……」
「ふぁっ……?」
彼女の言葉に、俺は目をまん丸にして絶句した。
――するってえと、何かぁ?
俺が早瀬を無視したから、彼女は俺が怒っていると勘違いして、俺とのコンタクトを躊躇していた……そういう事なのか?
……まっっっっったく、覚えがない。
「ちょ……ちょっと待って? ――俺、全然早瀬さんに怒ったりなんかしてないよ? 何か、勘違いを――」
「え、でも……」
俺の言葉に、驚いた様に潤んだ目を大きく見開く早瀬。
――と、
「十日前……ああ、成程。――そういう事ね」
「「え?」」
お互いに首を傾げ合う俺と早瀬を尻目に、合点がいったと頷いたのは諏訪先輩だった。
そして彼女は、キーボードを叩く手を止めて俺たちの方へと身体を向けると――こくんと頭を下げた。
「ごめんなさい。君たちふたりの勘違いの原因は……多分、私よ」




