オタクに意思疎通は難しい
「ふあああ……」
俺は大きく口を開けて、生欠伸をし、目尻に湧いた涙を拭った。
完全に寝不足だ。
昨夜はあの後、結局まんじりとも出来ずに朝日を拝み、フラフラで自転車を漕ぎながら、やっとの事で登校してきた。……正直、自転車に乗っている途中で、何度か意識が飛んだ。一度などは、ダンプカーのけたたましいクラクションで我に返った。もう少しタイミングが遅かったら……今頃真っ白な場所で、女神様からチート能力を付与されて、新しい世界のチュートリアルを受けている頃だっただろう。
――まあ、いい。幸い、今日の一時限目は、古文の松尾の授業だ。あのおっさんは、ひたすら黒板に向かって教科書を朗読するばかりだから、その目を盗んで惰眠を貪る事は簡単だろう。
俺は、睡眠を少し先延ばしする事にして、おもむろに席を立ち、廊下側の席の一番後ろに向かった。
取り敢えず、朝のホームルームが始まるまでの時間に――。
「……や、やあ、おはよう……えと、オタクラくん……」
俺は、机の上に文庫本を山程載せ、その中に埋もれるようになりながらラノベを読み漁る、小太りの男子生徒に声をかけた。日頃、シュウ以外には、自分から声をかける事をしないので、緊張してしまう。
彼は俺の声に反応して、一心不乱に文庫本の文字を追っていた目を上げる。そして、薄汚れた眼鏡のレンズの奥で、小さな目で胡乱げに俺を睨み、への字に曲げた口を開いた。
「……オダワラ」
「……へ?」
「――オタクラじゃなくて、小田原。……小田原翔真」
「へ……あ、ああ! ご、ゴメン、オダワラくんッ!」
彼の静かな抗議の声に、俺は慌てて頭を下げた。
俺の謝罪にも、彼の仏頂面は変わらなかった。もう一度俺を睨みつけると、わざとらしい溜息を吐いて、目を文庫本の上に戻した。それっきり、傍らに立っている俺を完全に無視して、読書に没頭しはじめる。
「……」
ファーストコンタクトの感触は最悪――だが、ここでスゴスゴと引き下がる訳にもいかない。彼には訊きたい事がある。
「……あ、あの! 小田原くん!」
「……何?」
彼の口元で、チッという小さな音がして、彼は再び顔を上げた。……舌打ちしやがった、この野郎。
内心で俺はムッとしたが、表情にはおくびにも出さずに、微笑みすら浮かべてみせる。
「あのさ……ちょっと、教えてもらいたい事が……あるんだけど……」
「……教えてもらいたい事……て、何さ」
小田原は、あからさまな警戒を露わにしながら、その小さな目で、舐めるように俺の全身を観察する。
「このボクなんかに、何を訊きたいって言うんだい、コサカくん?」
「……コウサカです」
「…………スミマセン」
……まだ十月にも関わらず、ふたりの間に寒風が吹き荒んだ。
俺は、コホンと咳払いをすると、そそくさと本題に入る。
「――お……小田原くんって、良くラノベ読んでるよね」
「……うん。悪い?」
「いや……別に、悪いとは……」
小田原の、取りつく島もない返しに、俺はタジタジとなる。
「そ……その、小田原くんの豊富なラノベの知識を見込んで、是非ともお知恵を拝借したいんだけどさ……」
「ほ――豊富? ぼ、ボクのち……知識が?」
俺のヨイショを聞いた瞬間、小田原の小さな瞳が輝き、鼻の穴が広がる。……よしよし、予想通りだ。
小田原のような陰キャは、褒められる事に慣れていない為、こんなあからさまなお追従でも、テキメンに効果があるのだ。――同じ陰キャな俺にはよく解る。
俺は、顔に微笑みを貼り付けると、彼の机の上に堆く積まれたラノベの山を指さした。
「もちろんだよ! 毎日毎日、休み時間の度に、こんなに沢山のラノベを読み漁ってるんだから、マジで凄いよ! さぞや、ラノベに詳しいんでしょ?」
「ま……まあ、うん。じ――自慢じゃあないけど、結構沢山読んでるよ。大抵の人気シリーズには目を通してるかな、うん」
小田原は、先程までの仏頂面が嘘のように、その弛んだ顔を更にダルダルにさせながら、ニタニタといやらしい笑いを浮かべた。
そんな彼を前に、俺は内心の嫌悪感を押し潰して、本命の話題を切り出す。
「――じゃ、じゃあさ。小田原くんは、ウェブ小説の方も、読んだりするの?」
「ウェブ……“のべらぶ”とか?」
「そ――そうそう!」
“のべらぶ”とは、ノベルライブラリの略称である。敢えてひらがな表記にするのがミソらしい……知らんけど。
小田原は、自慢げに鼻を鳴らしながら言葉を継いだ。
「まあね……。ボクは、ママからスマホを持つ事を許されてないから、学校では読めないけど。のべらぶ作品は、家のパソコンで嗜んでるよ」
「……へぇ〜」
……“嗜んでる”って、何だ?
「自慢じゃないけど、ボクは、『転スレ』がのべらぶで連載し始めた頃からリアルで追ってたし、『縦の従者』のポテンシャルを見通して、最初のレビューを書いたのもボクさ。――それだけじゃないよ。この前コミカライズされた『トラ轢か』も――」
「あ、そうなんだーすごいねーウンウン!」
俺は、舌が調子に乗りはじめた小田原を慌てて遮った。一度ゾーンに入ってしまった拗らせ系陰キャは、放っておくと際限なく囀り続ける。
目の前で、小田原が物足りなさそうな表情を浮かべる。
が、俺はそれを華麗に無視して、遂に訊きたい事の核心を、彼に向けて投げかけた。
「――じゃ、じゃあさ。……“星鳴ソラ”って名前の作家の作品も、読んだ事ある?」
「! ――星鳴……ソラ……!」
……何故だろう。“星鳴ソラ”の名を聞いた瞬間、小田原の顔が露骨に曇った。
そして、彼は再び口をへの字に曲げると、吐き捨てるように言った。
「ああ……“読泣ソラ”ね。……前は、読んでたよ」
「……? よ――ヨミナキ……ソラ?」
微妙に違う名前に、思わず首を傾げた俺に、「ああ……知らないのか、キミは」と呟いた小田原は、ニヤリとゲスい薄笑みを浮かべて言葉を続けた。
「読泣ソラ――連載している作品を必ずエタらせて、読む者を泣かせる事から付いた、星鳴ソラの蔑称だよ」




