朝は短し出かけよ少年
――そして、土曜日。
遂にこの日が来た。
「じゃ……いってきます」
玄関で、おろしたてのスニーカーに足を通しながら、俺は家の奥に向かって声をかける。
「あ、はーい」
俺の声に応える声が返ってきた――と思ったら、家族のみんなが雁首揃えて、わらわらと玄関まで顔を出してきた。
「ヒカル、気を付けてね」
と、エプロンで手を拭きながら、母さんが声をかけてきて、俺は小さく頷く。
「あ、うん」
「本当に気を付けるのよ。交差点とか曲がり角とかで、車が突っ込んできたりするかもだからね。あと、ポケットに手を突っ込んでチラチラと周りを気にしているような、サングラスをかけた男とかには近付かないように」
「……いや、そんな、明らかに『これから一犯罪犯します』みたいな挙動してる怪しい奴なんかには、普通に近付かねえよ。――つか、何だよ、その妙に具体的な注意喚起は」
「いや、だって……」
眉を顰めながらの俺の問いかけに、母さんは言い淀む。
と、
「そりゃあね……」
ニヤニヤ笑いを浮かべ、パジャマ姿で寝ぐせのついた髪の毛を撫でつけながら、俺と母さんの話に割り込んできたのはハル姉ちゃんだった。
「明らかに死亡フラグがビンビン立ってるからよ、ひーちゃんが」
「し……死亡フラグぅ?」
不吉極まる単語に、俺は顔を引き攣らせる。
そんな俺の反応を面白がるように、ハル姉ちゃんは、その顔をますますニヤつかせる。
「だってそうじゃない? 年齢=彼女無しだったひーちゃんに、彼女が……それも、ゆっちゃんみたいなとびきり可愛らしい彼女が出来たのよ。ひーちゃん、かなーりの運を使い果たしちゃったんじゃない? もしかして、一生分くらいの」
「うっ……」
「だったら、その反動で、とんでもない不幸に見舞われちゃうかも? ――っていう事。だから、気を付けるに越した事は無いって話よ」
「ぐ、グムゥ……。た……確かに……」
「あ、納得するんだ……」
ハル姉ちゃんの、妙に説得力のある話に思わず頷いた俺を見て、母さんの横に立った羽海が呆れ声を出した。
羽海は、俺の事を頭からつま先までジロリと一瞥すると、口をへの字に曲げて首を傾げた。
「……な~んか、地味だなぁ」
「え? そ……そう?」
ボソリと呟いた羽海の言葉に内心ドキリとしながら、俺は自分の身体を見回す。
――白のVネックセーターの上に黒のハーフコートを羽織り、ボトムは濃紺のスキニージーンズ。靴は新品の焦茶色のレザースニーカーという出で立ち。
ネットを血眼で検索しまくり、俺なりに『デート服の最適解』を突き詰めた末に行きついたコーディネートである。
「そ……そんなに変か? 確かに、色合いはシックかなと思うけどさ……」
「うーん、何て言うか……面白味が無い」
「いや、要るか、面白味?」
いかにもつまらなさそうな顔をしながら言った羽海に、俺は思わずツッコんだ。
と、ハル姉ちゃんが、頻りにウンウンと頷きながら言う。
「確かに……何か、もう少し彩りが欲しいわよねぇ。光り物的な」
「光り物……アクセ系かぁ。まあ、そう言われれば……」
「トゲとか、鋲とか」
「いやいやいや!」
俺は、したり顔でとんでもない例を言い放ったハル姉ちゃんに、渾身のツッコミを入れる。
「普通、そこは指輪とかネックレスじゃねぇ? 何で、そんなパンクロッカーみたいな装飾品が出てくるんだよ!」
「いやぁ、インパクト狙うんだったら、そのくらい尖ってた方が……。トゲと鋲だけに」
「……あの結絵さんの、独特なファッションセンスに対抗するんだったら、そのくらいしないと」
「い……いやいや! 尖る必要も、早瀬に対抗する必要も無いからね!」
ハル姉ちゃんと羽海の意見にちょっとだけ論破されそうになりつつも、俺はブンブンと頭を振った。
そして、そそくさと三和土に置いたボディバッグを取り上げ、肩にかける。
「じゃ、じゃあ、行ってくる! ゆ……夕飯までには帰ってくるから!」
「あぁ、ハイハイ。行ってらっしゃ~い」
「……結絵さんに恥かかせるなよ、愚兄」
「別に、夕ご飯までに帰ってこなくてもいいからね~♪ ひーちゃん、ゆっちゃんと“存分に”楽しんでらっしゃいね~」
ドアを開けた俺の背中に、三人が三者三様の声をかけてきた。
……つか、健全な高校一年生男子の姉として、その発言はいかがなものだろうか、ハル姉ちゃん……。
俺は顔を引き攣らせながら、ドアを閉めようとした。――その時、
「――晄!」
父さんが俺を呼ぶ声がした。
「ん……?」
いつも、土日は昼前ぐらいまで寝ている父さんが、こんな早い時間に起きてきた事に驚き、俺が思わず振り返ると、
「……」
腕組みして壁に寄りかかった父さんが、無言で俺に流し目を向けながら、そっと指を二本立てていた。
そ、そのポーズは……!
「「「……何やってんの、お父さん?」」」
「……」
――だが、女性陣三人には、父さんのジェスチャーの意味が通じなかったようだ。
三人の冷たい視線を一身に浴びた父さんは、顔を真っ赤にしながら、
「あ……あーっ、トイレトイレ!」
と、大袈裟な声を上げ、頭をポリポリと掻きながら、逃げるように家の奥へと入っていった。
「……」
俺は、そんな父さんの後ろ姿に、そっと親指を立てる。
……大丈夫。俺にはちゃんと伝わったぜ。
ありがとう、ベジー……父さん。
◆ ◆ ◆ ◆
俺は、ガレージに停めた自転車に跨り、家の門を出た。目の前の道路を左に曲がり、最寄りの駅へと向かおうとする。
――と、その時、
「よぉ、ヒカル! おはよ」
不意に、背後から声をかけられた。
この溌溂とした大きな声……間違いない。
俺は、ペダルを漕ごうとしていた足を止めると、ゆっくりと後ろを振り返る。
そして、爽やかな笑顔を浮かべながら、こちらに近付いてくるひとりの男に向かって、手を挙げて答えてみせた。
「おう、おはよう――シュウ!」




