俺の妹がこんなに大人しいはすがない
「うっぷ……。も、もう動けない……」
晩飯を食った俺は、自分の部屋に帰りつくなり、腹を抱えてベッドに転がった。
仰向けに寝転がっているだけなのに、腹の圧迫感が凄い……。
赤ずきんちゃんとおばあさんを丸呑みにした狼も、ちょうどこんな感じだったんだろうな……などとぼんやりと考えた。
「……ちょ、調子に乗って、食い過ぎた……な」
俺は、ひっひっふーと息を吐きながら、ぼんやり天井を見上げた。
――でも、仕方がないだろう。今夜の夕食――『肉の祭典』は特別豪華だったのだから。
国産黒毛和牛の霜降り肉のすき焼きの味は……ヤバかった。もう、語彙がチンパンジー並みになるくらい、とにかくヤバいとしか言えなかった……。
っつーか、グルメマンガとかテレビ番組とかで良く言われる『肉が溶ける』という現象が、リアルで存在する事に感動した。
こんな美味い肉にありつける機会なんて、当分――下手すりゃ一生無い。そう思いながら、ひたすら肉を口に運ぶ作業を夢中で続けた結果が……この有様である。
もっとも、それは俺だけではない。
父さんも母さんもハル姉ちゃんも、俺に負けず劣らずの勢いで、一心不乱に肉を食らっていた。今頃、リビングのホットカーペットの上で、枕を並べて伸びている事だろう……。
と、
「……それにしても――」
俺はふと、先ほどの食卓の場で気にかかった事があったのを思い出した。
「どうしたんだろうな、アイツ……」
そう、俺が呟いて眉をひそませたのと同じタイミングで、
――コンコン
という、控えめなノックが、ドアから聞こえてきた。
「ん? はーい?」
(誰だろう?)と思いつつ、ドアの方に顔を向けて、ノックに応えると、
「あ……あのさ! ちょ……ちょっと、入ってもいい?」
正に今、俺が気にかけていた者の少し上ずった声が聞こえてきた。
「……羽海?」
(いつもなら、ノックした瞬間に、こちらの返事も一切聞かずに、まるでデルタフォースの強襲のような勢いで勝手に乱入してくるのに……)と訝しみながらも、俺はベッドから身を起こして、ドアの向こうに向かって声をかけた。
「お、おう。別にいいぞ」
「……ん」
俺が答えると、ドアがゆっくりと開き、どこか浮かない顔の羽海が、おずおずと顔を覗かせた。
いつもと違う妹の様子に違和感を覚えながら、俺は手招きする。
「……何してんだよ。早く入って来いよ。つか、廊下の冷気が入ってきて寒い」
「あ、うん……」
俺の言葉に、羽海は慌てた様子で、後ろ手でドアを閉めた。
だが、それ以上動こうとはせずに、ドアの前で突っ立っている。
いよいよいつもと違う妹の様子に、俺は首を傾げながら尋ねてみた。
「どうしたんだよ、羽海。何かここ最近、元気が無いぞ」
「……」
「体調でも悪いのか? 風邪でもひいた?」
「……風邪じゃないんだけど、その……」
羽海は何故か、ずっとモジモジしている。……いよいよもって、本格的におかしいと感じた俺は、心配顔で更に訊く。
「……さっきも、全然肉食ってなかっただろ。あんなに美味い肉、もう二度と食えないかもしれないってのに。食欲も無いのか?」
「……うん、まあ」
「ホントに大丈夫かよ、お前?」
相変わらず元気のない様子に、俺はいよいよ心配を募らせたが、羽海が手で腹を押さえている事に気付いた俺は、ピンときた。
「――あ! お前……もしかして――」
「え? う……うん、実は……」
「何か変なモン食って、ずっと腹を壊してるんだろ!」
「……はぁ?」
目を丸くする羽海を前に、疑問が溶けた俺は、スッキリした顔でウンウンと頷いた。
「そーかそーか! だから、最近妙に機嫌が悪かったんだな! ダメだぞ、何でもかんでも無尽蔵に食ってたら。そのうちブクブク太って、“羽の海”とか呼ばれるようになっちゃブベシィッ!」
「違うわ、クソボケアホ愚兄ィッ!」
怒声と共に、全力で投げつけられたマンガ本の角を鼻柱に食らった俺は、仰向けにひっくり返る。
そして、ジンジンする鼻を押さえながら、涙目で羽海を見上げた。
「ちょ、痛ぇよ! 本で顔面ストラックアウトは止めて! 当たるとマジで痛いんだから……。投げるなら、クッションとかそういうので――」
「うっさい! 百遍死んで来い! クソゴミ鈍感ヤローが!」
さっきまでのしおらしい様子が嘘のような、鬼神も道を譲るレベルのすさまじい形相で、俺の事を睨みつける羽海。
「今日のご飯が、白飯じゃなくて赤飯だった時点で察しろよ、クソ愚兄!」
「え……それって、俺が早瀬と付き合う事になった事のお祝いなんじゃないの? まあ……ちょっと大袈裟過ぎだとは思――」
「くたばれ!」
「ひでぶっ!」
今度は、クッションを全力で頭に叩きつけられた。
羽海は、肩で息を吐きながら、頬を膨らませて怒鳴る。
「もうっ! そんな鈍感じゃ、すぐに愛想を尽かされちゃうよ!」
「うぐぅ……」
「……もぅ」
と、羽海は、手に持っていたクッションを放り投げると、大きな溜息を吐いた。
「ていうか……本当に、付き合う事になったんだね、結絵さんと……」
「え? あ……ああ、まあ、うん」
「ハッキリしろよ!」
「あ、ハイ! そうであります!」
羽海に怒鳴りつけられ、俺は慌てて背筋をピンと伸ばしながら答える。
そんな俺を見た俺の姿を一瞥した羽海は、大袈裟に溜息を吐いた。
「……お正月前から、この世の終わりみたいな顔をしながら落ち込んでたから、心配で色々と協力してあげてたけど、まさか本当に付き合えちゃうなんてね……」
「あ……その節は、大変お世話になりました」
俺は深々と頭を下げる。
「ていうか……あの時アンタに貸した、栗立までの電車賃、まだ返してもらってないんだけど?」
「大変申し訳ございません……。さ……三月のお小遣いが入ったら、必ずや全額お返しいたしますので、どうか今月はご猶予を……」
俺は、さらに深く、床にめり込むような勢いで頭を下げた。
顔を伏せながらも、羽海のジト目の視線が、俺の後頭部にグサグサと突き刺さるのが分かる。
「……まあ、いいけどさ。明日のデ……デートでお金が無くなっちゃったら大変だからね……」
「ありがとうごぜえます、神様仏様羽海様……」
「拝むな愚兄。キモい」
大袈裟に手を合わせる俺に、冷たい視線を向けた羽海。だったが、
「……そ、それで、さ」
つと視線を逸らすと、僅かに口を尖らせ、何やら口ごもる。
「ちょ……ちょっと、言いそびれてた事が……あってさ。そ……それを言おうと思って、来たんだ……うん」
「へ? 言いそびれた事? 俺に?」
羽海の言葉に、俺は首を傾げた。
「う……うん。その……さ」
また、さっきのようにモジモジし出す羽海。
と、意を決したように唇を噛みしめると、俺の目をじっと見つめて、口を開く。
「こ……これからさ……結絵さんと付き合い始めても、その……あ、アタ……アタシの事……」
「……うん」
「――い、いや、やっぱ何でもない!」
羽海は、何故か顔を真っ赤にしながら後ずさると、くるりと俺に背を向けた。
そして、ぞんざいにドアを開け、部屋から出て行こうとして――俺の方に振り向いた。
「えと……」
「何だよお前……やっぱり、何か変だぞ」
「……うっさい!」
気遣ってやった俺の言葉に、口をタコの様に尖らせて言い放つ羽海だった――が、つと目を逸らすと、辛うじて聞き取れるくらいの声で、ポツリと言った。
「……良かったね」
「……え?」
「おめでと……お兄ちゃん」
「へ?」
思わず耳を疑う俺を尻目に、更に頬を赤く染めた羽海は、
「じゃね! お休みッ!」
と言い捨てるように叫び、勢いよくドアを閉めた。
「……何だよ、アイツ」
羽海が去った後、一人残された形になった俺は、唖然としながら首を傾げる。
そして、ゴロンとベッドの上に仰向けに横たわった。
「…………ふ、ふふ……」
その口元が、思わず緩む。
「ふふ……“お兄ちゃん”かぁ。久々に言われたなぁ……“お兄ちゃん”って。うふふふ……」
それから俺は、ベッドに寝転んだまま、しばらくの間ずっとニヤニヤとしているのだった。




