最高の晩餐
「ただいま~……」
寒風吹き荒ぶ帰路を経て、ようやく家へ辿り着いた俺は、疲れた顔でドアを開けた。
外とは打って変わった暖かい空気が、玄関に入った俺を優しく包み込む。
「あれ? この匂いは……」
同時に漂ってきた美味しそうな匂いを鼻腔に吸い込んだ俺は、訝しげに首を傾げた。
この独特の、甘じょっぱい香りは――、
「あ……そっか。今日は、金曜第四週か……」
「そうよー! 今日は高坂家みんながお待ちかねの『肉の祭典』よ!」
俺の呟きに、そう答えながら、嬉々とした顔をヒョコッと出してきたのは、ハル姉ちゃんだった。
「おかえり、ひーちゃん。ナイスタイミングよ! 丁度すき焼きが出来上がったところなの」
「おぉ、マジでか」
ハル姉ちゃんの言葉に、俺は思わず感嘆の声を上げ――ちょこんと首を傾げた。
「……つか、今日はすき焼きなんだ。『肉の祭典』は、焼き肉がデフォじゃなかったっけ?」
「ふふん、今回は特別よ!」
俺の疑問に対し、エプロン姿のハル姉ちゃんは、エヘンとばかりに胸を張る。
「私の提案で、急遽すき焼きにメニュー変更したのよ! ……しかも今日は、お父さんが買ってきた“産地偽装牛肉”なんかじゃない、正真正銘の黒毛和牛霜降り肉なのです!」
「ファッ?」
ドヤ顔のハル姉ちゃんが発した言葉に、俺は目を丸くした。
「マジすか! ……つか、大丈夫なのかよ、ウチの家計? 本物の和牛……しかも、霜の降った高級そうな肉なんか買っちゃって……」
「まあ……さすがに500グラム5000円のお肉だからね。痛くないといえば噓になるわよねぇ」
そう言いながら苦笑いを浮かべたのは、ハル姉ちゃんの後ろから出てきた母さんだった。
一方、それを聞いた俺は、顔を引き攣らせる。
「ご、5000円んん? おいおい……勘弁してくれよ。牛肉で破産して一家離散とかなったら、シャレんなんねえぞ……」
「……それはさすがに、お父さんの稼ぎを甘く見過ぎだと思うわよ……」
ひとりガクブルする俺に、ふたりはジト目を向けてきた。
ふたりの冷たい視線に晒されて、思わずたじろぐ俺だったが、ふと首を捻る。
「……それにしてもさ。何で……今日に限って、そんなに豪華なん? 何かいい事でもあったの?」
「まあ……そりゃあねぇ」
俺の問いかけに、ハル姉ちゃんと母さんは顔を見合わせて、笑みを浮かべた。
ふたりの思わせぶりな様子が気になった俺は、眉根に皺を寄せながら、更に尋ねる。
「なになに? 父さんが遂に昇進したの? それとも、宝くじでも当たったとか?」
「いやいや……」
「あ! 遂に、ハル姉ちゃんに春が来たとか――」
「樹海に埋めるゾ♪」
「あ、すんません……」
ニッコリ笑いながら、殺人鬼も失禁しそうな程の凄まじい殺気を、全身から迸らせたハル姉ちゃんを前に、俺は震え上がった。
ハル姉ちゃんは、凄惨な微笑を浮かべつつ、低い声で言う。
「私に春が来たかどうかなんて……シュウくんと仲が良いひーちゃんは、良~く知ってるでしょ?」
「ひゃ、ひゃい……」
「……大丈夫。まだ慌てる時間じゃない……ホワイトデーにはきっと……」
「そ……そうっすよ! あ……諦めたら、そこで恋愛終了っすよ、遙佳お姉さま!」
「……」
咄嗟に持ち上げた俺の言葉も、まったく耳に入らない様子のハル姉ちゃんは、さっきまでとは打って変わった、まるでホラーゲームのゾンビのような形相で、無言のままキッチンへと引っ込んでいった……。
――と、
「……もう~。ダメよ、ヒカル。今のあの子に、その話題は」
困り顔の母さんが、俺に顔を寄せて耳打ちしてきた。
顔いっぱいに冷や汗をかいた俺も、コクンと頷く。
「う……うん、迂闊だった」
「毎年毎年『今年のバレンタインこそは!』って、気合いを入れて頑張ってるのに、当のシュウ君が全然気付いてくれないんだものね……。実の娘といえど、傍で見ていて不憫だわ……」
「まあ……」
母さんの嘆きに、引き攣り笑いを浮かべる俺。
――と、更に顔を近付けて、母さんが問いを重ねてきた。
「……で、実際のところ、どうなの? シュウ君……脈あるの、あの子は?」
「う、う~ん……どうだろ?」
母さんの問いに、俺は言葉を濁す。
「そもそも……シュウ君って、好きな女の子とかいるのかしら?」
「え……ええと……そ、それは……」
母さんの疑問に、言葉を詰まらせる俺。
「す……好きな女の子は……昔も今もいないと思うよ、うん」
そう返すのが精一杯だった。……まあ、嘘は言っていない。
シュウが惚れた女の子は、今まで存在していないはずだ。
そう……女の子は、ね。
――とても、本当の事は言えない。
『シュウが好きだったのは、目の前に立ってる、あなたの息子なんです』
……なんてさ。
まあ……今は、もう違うんだけどね――多分。
でも、そんな事を打ち明けでもしたら、母さんはともかく、ハル姉ちゃんや羽海は発狂必至だろうから、当分の間――或いは一生、この事は秘密のままにして、俺とシュウの間だけに止めておくつもりだ。
――と、ここで俺は気付いた。
「そういえば……随分と話が逸れたけどさ……」
「んー?」
「結局、今日の『肉の祭典』が、いつもより豪勢なのは、一体どうした訳なのさ?」
俺は、話を本題に戻す。
と、俺の問いに母さんは、まるで悪戯っ子みたいな表情を浮かべた。
「ああ……それね。……まあ、さっきヒカルが言ってたのも、近いっちゃあ近いわよね」
「へ……?」
意味深な表情を向けてきた母さんに、俺は嫌な予感を覚え、ジリッと半歩後ずさる。
そんな俺に、母さんは満面の笑みを浮かべながら言った。
「春が来たのは、ハルじゃなくてあなたじゃない、ヒカル! 今日のすき焼きは、それを記念してのスペシャルディナーってや・つ・な・の・よ♪」
「ふぁ、ファ――ッ?」
母さんの言葉を聞いた瞬間、俺の顔面から火が噴き出した。




