The Great Surrender
「……ごめんなさい……」
そう口にしたきり、俺は深々と頭を下げ、自分の爪先とにらめっこし続けたまま、微動だに出来なかった。
「……」
聞こえるのは、細く短い自分の呼吸の音と、静かに刻み続ける心臓の鼓動の音、――そして、小さなファンヒーターの駆動音だけ。
俺の前に立つ諏訪先輩も、しばらくの間、黙ったままだった。
――が、
「――そう……」
という、先輩の微かな呟きが、俺の耳に届く。
その淡々とした声を聞いた瞬間、俺の胸に鈍い痛みが走り、息が乱れた。
「……高坂くん」
「……」
「――ありがとう」
「あ……」
先輩の穏やかな声に、俺は思わず顔を上げる。――先輩の柔らかな微笑みが、俺の視界に飛び込んできた。
彼女は、困ったような微笑みを湛えたまま、ちょこんと首を傾げると、小さく息を吐きながら、パイプ椅子に腰を下ろす。
そして、手に持っていたピンク色の包みを机の上に置くと、穏やかな目で真っ直ぐ俺を見つめながら、静かに尋ねかける。
「それが……あなたの出した結論なのね?」
「……はい。すみま――」
「謝る必要は無いわ」
諏訪先輩は、俺の言葉を途中で遮ると、テーブルの上で微かな湯気を立てているマグカップを手に取り、口をつけた。
「ふぅ……」
マグカップの縁から唇を離した先輩は、小さく息を吐き、俺の目をじっと見つめると、静かに言葉を紡ぐ。
「まだ、好きなのね。……早瀬さんの事が」
「――」
諏訪先輩の問いかけに、俺は一瞬沈黙し、軽く目を閉じた。
『――高坂くん』
――暗い瞼の裏に、昨日見た夢の中で、俺の名を呼び、微笑みかけてきた早瀬の顔が浮かび上がった。同時に、その時に感じた、胸のときめきも。
「……」
俺は静かに目を開くと、先輩の黒い瞳を真っ直ぐに見返し、ハッキリと頷く。
「はい」
「……そっか」
俺の答えに、諏訪先輩は目を細めた。
その顔に、胸をズキリと痛めながら、俺は口を開く。
「……あれから、一ヶ月以上も考え続けて、やっと昨日分かったんです。――やっぱり、俺は早瀬が好きなんだって……どうしようもなく」
「……」
「正直……その気持ちを押し殺して、先輩の想いを受け入れてもいいんじゃないか――そういう考えも過ぎったのは確かです。……でも、そんな半端な気持ちでは、先輩に対して、非常に失礼だと思いましたし……」
そこで言葉を切り、俺は目を伏せた。
目の裏に、ある情景が浮かぶ。
――早瀬と最後に会った日。別れの間際に見た、北八玉子駅のホームでしゃがみ込み、顔を両手で覆う早瀬の姿――。
……あれは、ひょっとして――。
――『君は充分に、人に好意を向けられるに足る人っすよ』
その回想に、サイデッカア栗立店で糟賀さんに言われた一言が重なる。
そして、俺は僅かに乱れた息を整え、閉じていた瞼を開くと、静かに言葉を継いだ。
「……今までの俺は、自分が陰キャだ非モテだと卑屈に見るあまりに、自分が感じ取った事や、自分に寄せられる他人の気持ちに対して懐疑的過ぎたんだと思います。……だから、一回くらいは、自分の直感を素直に信じてみようかなって思いまして――」
「……そうね」
俺の言葉に、諏訪先輩は小さく頷いた。
「陰キャはともかく、非モテは汚名返上すべきね。だって……ここに、あなたの事が好きだった人間がいるんだから」
「……はい、そうですね」
“好きだった”――敢えて過去形にした諏訪先輩の意図を察した俺は、また胸を痛めつつ、こくんと頷く。
すると、
「――じゃ」
そう呟くと、諏訪先輩は机の上に置かれていたチョコの包みを手に取り、俺に差し出した。
「え……? あ、いや……」
目の前に差し出されたピンク色の包みを前に、俺は戸惑いの声を上げる。
「あの……だから、さっき言ったように、そのチョコ――先輩の想いは受け取れないって……」
「……だから、今度は、本命チョコじゃなくて、“友チョコ”として受け取って」
「え……? と、友チョコ……?」
目をパチクリさせる俺に、はにかみ笑いを浮かべながら先輩は言った。
「このまま、無駄にしちゃうのも勿体無いし。……これ、昨日半日かけて作った、自信作なのよ」
「あ……あぁ~」
「……今朝、リュウやタイガにも同じチョコをあげたけど、『甘くて美味しい』って言ってたから、高坂くんの味覚にも合うと思うわ」
「あ、そうすね、ハイ」
何だか、俺の味覚が小学生並みだと言われた気がして、若干モヤモヤしつつ答える俺。
まあ……確かに、チョコもコーヒーも甘い方が好きだけどさ。
……って、そんな事を考えている場合じゃない。
俺は一瞬戸惑ったが、結局手を伸ばして、諏訪先輩の手から包みを受け取った。何だか、お椀型にした掌の上で、小さな袋がずっしりと重く感じる。
俺は、チョコの包みを捧げ持つようにしながら、諏訪先輩に頭を下げた。
「あ、ありがたく頂戴致します。家宝にします、ハイ」
「ふふ……、大袈裟ね。そんなにありがたがらなくていいから、早めに食べてね。――その方が、私も嬉しいから」
諏訪先輩はそう答えると、おもむろに机上のタブレットの液晶画面をスワイプする。
そして、手早くスリープモードにすると、タブレットとキーボードをカバンに仕舞い始めた。
「――これ以上、雪が酷くなったら大変だから、今日の部活動はもうお開きにしましょう」
「え……? あ、確かに……了解です」
俺は先輩の言葉に頷き、自分のマグカップを持ち上げると、すっかり温くなってしまったホットココアを一気に飲み干した。
そして、マグカップを洗おうと、諏訪先輩のマグカップに手を出した時、
「……あとの片付けや鍵閉めは、私がやっておくから、高坂くんは先に出ちゃって」
諏訪先輩の手が、俺のマグカップをかすめ取った。
「あ……でも、俺も片付けくらい――」
「あなたには、まだやるべき事があるんでしょう?」
手伝おうと手を伸ばした俺を制した諏訪先輩は、俺の目を見据えて、静かに言った。
「……はい」
「――だったら、早く行きなさい。もたもたしていると、帰っちゃうわよ、彼女」
「でも――」
「私の事は気にしないで。……大丈夫だから」
「……」
「だから、早く行って。……お願い」
「……はい」
先輩の懇願の言葉が微かに揺れている事に気付いた俺は、コクンと頷くと、貰ったチョコの包みをカバンにそっとしまい、静かに席を立った。
そして、もう一度深々と頭を下げる。
「諏訪先輩……本当に、ありがとうございます。こんな俺なんかを、好きになってくれて」
「……うん」
俺の感謝の言葉に、諏訪先輩は何かを堪えるように一瞬唇を噛み、それからニッコリと微笑んだ。
そして、右手の指を眼鏡のツルにかけながら、左手で部室の引き戸を指さす。
「――行ってらっしゃい、高坂くん。……頑張って」
「はい」
先輩の激励の言葉に、俺は大きく頷いてから、引き戸を開けた。
そして、部室を出る間際、首だけで振り返り、小さく会釈する。
「――行ってきます」
「……うん」
眼鏡を外しながら、左手をひらひらと振る諏訪先輩を最後に一度見て、俺は静かに引き戸を閉めた。
「……」
そして、固く目を閉じ、顔を上に向ける。
何かが零れないように。
……カタン
背後の扉の向こうで、ちいさな音が聞こえた。――先輩が、眼鏡を机に置いた音だろう。
そして、
『……ッ。…………ぅ。……うぅ~っ……』
圧し殺した嗚咽の声が、微かに漏れ聞こえてきた。
その声を聴きながら、俺は俯く。
「……すみません」
扉の向こうに諏訪先輩に向けて、決して彼女には届かない大きさの声で謝った俺は、
「……よし!」
自分に鞭を当てる様に気合の声を上げると、薄暗い廊下を大股で歩き出す。
そして、歩きながらコートのポケットをまさぐり、スマホを取り出すと、LANEのアイコンをタッチした。
お馴染みの緑の画面が現れ、すぐに『トーク一覧』が開く。
俺は画面をスワイプし、目当てのアカウントを見つけると、そっとタッチした。
そして――、
「……」
俺は無言のままで、開いた“YUE♪”のトーク画面に目を落とすと、液晶画面に置いた指を忙しなく動かし始めた――。




