雪が降る学校
今日の空は、二月にしては珍しく、どんよりとした白い雲に覆い尽くされていた。
朝からずっと続く曇り空は、午後の授業が始まっても相変わらずだった。
陽が照らないので、気温も上がらない。窓際の席の俺は、頬杖をついてうっすらと目を閉じながら、窓ガラス越しに伝わる冷気にブルブルと震えていた。
「えー……ここに載っている『比翼連理』という四字熟語だが――」
いつもなら、昼休みの直後という事もあって、ヒュプノスの子守歌よりも強力な眠気に誘われる、五時限目の現国の時間なのだが、今日は身体が冷え切ってしまっているからなのか、全く眠くならない。
……いや、そうじゃないな。
いよいよ、あと二時間後に迫った“決断の刻”に向けて、神経が昂っているからだ。
「……ふぅ」
俺は、小さく息を吐くと、昼寝を諦めて頬杖をついたまま、何気なく窓の外に視線を移し――、
「……あ」
思わず声を上げる。
「――雪だ」
「――え! マジで?」
「雪? あ、ホントだ!」
思わず口の端から漏れてしまった、俺の呟きを耳にしたクラスメイト達が、一斉に窓に目を遣り、同時に驚きの声を上げた。
「うおお、どおりでクソ寒ぃはずだわ! 勘弁してくれよ!」
「きゃー、マジで雪降ってるしぃ! バレンタインデーに雪とか、マジロマンチックなんですけど~!」
「これは……神様がアタシを応援してくれてる……?」
「いや、ただでさえ精神的にキッツい日に、追い打ちかけんなよ、最悪……」
「あーあ。この分じゃ、今日の部活は校内で筋トレだなぁ……」
「結構な勢いで降ってんじゃん……。電車止まらねえよな……?」
教室は、黄色い歓声と血の色の嘆声が錯綜し、やにわに騒然とする。
「おおい、お前ら! 授業中だぞ! 雪にはしゃぐとか、子どもかぁっ!」
授業を中断された先生の怒鳴り声が響く中、図らずも授業妨害の端緒を開いてしまった格好の俺は、先生に見咎められぬ様に首を竦めつつ、横目で窓の外を見た。
分厚い雲に覆われた空から、無数の大きな白い粒が、音を立てる事無く、次々と落ちてくる。
(――ホワイトバレンタイン、か)
と、心の中でひそりと呟き、俺は小さな溜息を吐いた。
そして、灰色の空の向こうを睨みつける。
(……まったく、神様も意地が悪いよ。律儀にムード作りなんかしやがってさ……)
◆ ◆ ◆ ◆
そして、放課後、
「うーッ、寒ぃ~ッ!」
「凍る! マジで凍るぅ!」
俺とシュウは小走りで部活棟の玄関に飛び込むと、大袈裟に身体を震わせながら、頭と肩に降り積もった雪粒を払い落とす。
そして、くるりと振り返り、今しがた通ってきた道と、そこに容赦なく降り注ぐ牡丹雪に目を遣る。
「これ、下手すりゃ結構積もりそうだな……」
「うん……っていうか、もう既に、うっすら地面が白くなり始めてるんですけど……」
シュウの呟きに、俺も引き攣り笑いを浮かべて頷いた。
「天気予報じゃ、今日は一日曇りの予報だったんだけどなぁ……」
「チャリで帰るのは無理かな? まあ、オレ達は家が近いから、最悪でも歩いて帰れるけど、他の奴らは大変だろうな……」
「だよなぁ……。遠い所からチャリ通してる奴とか、電車通学の奴とかもいるからな……」
そう言って頷こうとして、ふと、ある事が頭を過ぎった。
「……ちょっと急いだ方がいいか」
俺はそう呟くと、ずり落ちかけたカバンのベルトを肩に掛け直し、シュウに向かって告げる。
「――じゃあ、シュウ。俺、ちょっと行ってくる」
「あ、ああ……もう行くのか?」
多分、俺が覚悟を固めるまでに、もう少し時間がかかると踏んでいたのだろう。シュウは、少し驚いた表情を浮かべた。
そんな親友に、俺は強張った笑みを向けながら頷く。
「……うん。雪があんまり強くならないうちにしないと、さ」
「あ……そっか。――うん、確かにそうだな」
俺の言葉を聞いたシュウは、ハッとした表情を浮かべ、そして小さく頷き返した。
「――分かった」
静かな声でそう言うと、シュウは握り拳で俺の胸を軽く小突いた。
「……頑張れよ」
「……おう」
シュウの短い激励の言葉の中に、複雑な感情が混ざっているのを察した俺は、短く答える。
俺とシュウの間なら、それだけで事足りた。
「じゃ……オレも部活に行くわ。今日は校内で筋トレだろうけどな」
「おう、頑張れよ」
「おう、頑張るよ」
俺の激励にオウム返しで答えたシュウは、にんまりと笑った。そして、片手を軽く挙げながら、部活棟の廊下を奥へと進んでいく。
シュウが、野球部の部室の中に消えたのを見届けた俺は、
「……よし」
と、気合を入れると、二階へ上がる階段に足をかけた。
「……」
階段を一段上がるごとに、俺の心臓の鼓動が早まる。
二階に上がり、軋む廊下を進むごとに、呼吸が荒くなる。
「……」
あれだけガチガチに固めた決意が、油断するとしおしおに萎んでしまいそうだ。すぐにでも回れ右をして、このまま帰ってしまいたい衝動に駆られる。
だが、その度、俺は自分を叱咤し、萎れかける決意に一生懸命息を吹き込んで膨らませ続ける。
そうして、一歩ずつ歩みを進め――、
遂に、行き慣れた二階の一番奥の部室へと辿り着いた。
いつもの様に剥がれかけている『文芸部』の張り紙を、いつもの様に(今度こそテープを貼り替えよう)と考えながら手で直し、俺は引き戸の取っ手に手をかける。
カタカタ…… カタッ カタタ……
「……ッ」
引き戸の向こうから、いつもと同じキーボードのタイピング音が聞こえてきた瞬間、俺の身体はビクリと跳ねた。
ほんの一瞬、このまま180度回頭してフェードアウトしようかという考えが頭を過ぎる。
が、
――いやいや! ここまで来てヘタレるなよ! シュウにも『行ってくる』って言っちゃったんだから、今更もう戻れねえんだよ!
と、すぐに頭をブンブンと振り、気弱な思考を振り払った。
そして、三回ほど大きく深呼吸をして、気持ちと心臓を落ち着けると、
「……ヨシ!」
右脚を上げ、右手で引き戸を指さす『現〇猫』のポーズを取って、自分の気持ちに勢いをつける。
そして、引き戸の取っ手にかけた指先に力を込めて、戸を引こうとした瞬間――ガラガラという耳障りな音を立てながら、引き戸が勝手に開いた。
「あ……れ?」
「……どうかしたの、高坂くん? いつまでも扉の外で」
「あ……」
扉を開けたのは言うまでもなく、怪訝な表情を浮かべた諏訪先輩だった。
まさか、自分が扉を開ける前に開けられてしまうとは思っていなかった俺は、口を半開きにしたまま、身体を硬直させたまま、口だけをパクパクと動かそうとする。
「え……ええと、あ、あの……その……この……どの……」
「……本当に大丈夫?」
いつもと変わらぬ様子の諏訪先輩は、狼狽える俺の姿を見て、眼鏡の奥の目をジト目に変えた。
「そんな……とんちきな格好で固まっちゃって……」
「と……とんちき? ――て、あ……」
諏訪先輩の言葉で、自分が“現〇猫”の『ヨシ!』ポーズのまま固まっている事にようやく気付いた俺は、顔を真っ赤にして、いそいそと姿勢を戻す。
「……?」
そんな俺の様子を見ていた諏訪先輩は、胡乱げに首を傾げながらも、俺の事を手招きした。
「……まあ、もういいから、早く入って。いつまでもそんな所で突っ立ってたら、風邪ひいちゃうわよ」




