バレンタイン・キッツぃ
――2月14日。
今更言うまでもないが、今日はバレンタインデーである。
この日は、古代ローマ帝国に実在した聖人・ヴァレンティヌスが処刑された日と言われている。
皇帝によって、結婚する事を禁じられていたローマ兵の為、秘かに結婚式を執り行っていたのがバレて処刑された事から、その処刑日を『恋人たちの日』としたのが、バレンタインデーの始まりと言われている。
だが、日本では、少し事情が違う。
毎年2月に売り上げが落ちる事に悩んでいた、とある菓子店主が、『恋人たちの日』に目をつけたのが、この忌々しい悪習の始まりだったらしい。
どこをどう理屈づけたのかは知らないが、『女性が男性にチョコレートを渡し、愛の告白とする』という、あからさまな菓子業界のダイレクトマーケティングに紐づけられた『バレンタインデー』は、何故か日本の国民性に広く受け入れられたようで、いつしか日本の国民的行事となった。
今や、バレンタインデーの経済効果はン千億円にも及ぶらしい……。恐ろしや。
自分の名を冠したイベントが、本来のそれとは似ても似つかぬ姿と成り果てて、故郷から遠く離れた島国でこれほどまでに盛り上がっている事を知ったら、天上の聖ヴァレンティヌスはどう思うのだろうか……。
今日は、そういう感じの、日本国民の多くが敬虔なクリスチャンへとクラスチェンジする日である。
テレビや漫画やアニメやネットでは、如何に今日が素晴らしい日なのかを、これでもかとばかりに主張するのだが、異性との縁が皆無な陰キャにとっては、ただの365分の1日 (閏年なら366分の1日)に過ぎない。
――否。
この日は、あっちこっちでさんざんピンク色のハートが飛び交っているので、陰キャにとってはクリスマスと並ぶ最悪の1日に他ならない……。
もし仮に、神様に「一年が365日じゃ少し多いから、少し減らしたいんだけど、いつがいい?」と訊かれたら、陰キャは迷わず「2月14日でオナシャス!」と答える事であろう……。
「バレンタインとクリスマスは敵だ!」
これが、陰キャの共通認識なのである。
俺もそのひとりだった。――去年までは。
(ついひと月半前には、大挙して神社に押し寄せて、賽銭箱に小銭を投げ込んでいたというのに……。まったく、日本人の宗教観ってヤツは、柔軟というか何というか……)
――と、例年なら、この日は一日中机の上に突っ伏しながら、日本人の節操の無さを嘆くばかりの俺なのだが……、今年は違う。
「……どうした、ヒカル? 顔が引き攣ってんぞ」
と、朝一番からシュウに心配されるくらい、俺はガチガチに緊張していた。
シュウに話しかけられた俺は、まるで壊れかけのロボットの様なぎこちない動きで首を巡らせると、ニッコリと笑って答える。
「か顔なんて、ひ引き攣ってなななんか、いないいんだなあ」
「バグってるバグってる。裸の太陽みたいな口調になってるぞ、お前」
「……それ、裸の大将?」
「それな」
俺のツッコミに、シュウはニヤリと微笑んだ。
と、俺は、シュウが左手に提げている大きなコンビニ袋に目を留めた。何か、いやにゴツゴツしている。
「――ん? それ、何? 何か、箱みたいのがたくさん入った……」
「あー、これ?」
俺の問いかけに、シュウは左腕を持ち上げて袋を掲げてみせ、それから俺の机の上に中身をぶちまけて広げてみせた。
それを見た俺は、頭を抱えて嘆息する。
「……聞かなきゃよかった」
俺の机に山と積まれたのは、カラフルなラッピングや可愛いリボンで飾り付けられた、様々な形の箱たちだった。
……中に入っているのがどんなものなのかは、訊くまでもない。
「まだ始業のチャイムも鳴ってないんですけど……。もうこんなに貰ったの、お前?」
「うん、まあ」
尋ねた俺にしれっと頷いたシュウは、思い出そうとするように、目を天井に向けながら、指を折りはじめる。
「えーと……、校門の前で待ち伏せされて渡されたのが2個、下駄箱の中に入ってたのが5個。朝練の前と後で2個ずつ。部室棟から教室に来るまでに3個……かな?」
「はへ~……」
思わず間の抜けた声を上げる俺。もはや、嫉妬とかする以前の問題だ。むしろ、その凄まじいモテっぷりを前に、素直に感嘆する。
「さっすが、シュウさんっすねぇ。この調子じゃ、家に帰る頃には、2トントラックでもチャーターしないといけないくらいになっちゃうんじゃないの?」
「いやぁ、さすがにそこまでは無理でしょう。せいぜいリヤカーが必要になるくらいかなぁ」
「……このリア充が! 天誅を下してやる!」
まったく謙遜になっていない謙遜を言うシュウの胸倉を掴む。と言っても、もちろん本気ではない。
「わあ、ゴメンゴメン!」
シュウも、笑いながら大袈裟に両手を挙げてみせる。
と――、
「……つかさ、お前だって、貰えるの確定じゃん」
ふと、真顔に戻って、俺に言った。
「……」
その言葉を聞いて、俺は身体を固まらせる。
そして、無言でシュウの襟首から手を放し、いそいそと椅子に座り直すと、窓から見えるどんよりとした曇り空に目を遣りながら、こくんと頷いた。
「まあ……そうなんだけど。――諏訪先輩からは確約出てるからな……」
「……でも、早瀬の事が引っ掛かって、複雑な心境ってヤツか。――確かに、一ヶ月以上も、ずーっと悩んでたもんな、ヒカル」
「……ま、な」
シュウの言葉に、俺はもう一度頷く。
そんな俺に、シュウがオズオズと尋ねかける。
「で……決めたのか? どうするのか……」
「……うん」
俺は、三度首を縦に振った。
「――そっか」
シュウは、「どっちなんだ?」とは聞かない。そこら辺は、ちゃんと弁えてくれる……気の利く奴なんだ。
俺も、その事は知っているから、これ以上言うつもりは無い。
――と、シュウがおもむろに制服のポケットに手を突っ込むと、何かを取り出して、俺の目の前に差し出した。
「え……?」
それは、青いリボンと包装紙で包まれた、直方体の箱だった。
俺は怪訝な表情を浮かべて、シュウの顔を見上げる。
「……何だよ。お前がもらったチョコレートなら、もうさんざん見たよ。これ以上見せつけられても――」
「違うよ」
「……!」
俺の言葉を遮ったシュウの声が微かに震えている事に気が付いた俺は、彼の頬が仄かに赤く染まっているのを見て、思わず息を呑んだ。
……ひょっとして、このチョコは――。
「これ……ひょっとして、俺への……?」
「――あ、ああ」
俺の問いに、シュウはコクンと頷きかけて――慌てて手と首を大げさに横に振る。
「あ! え、ええと! こ、これは……本命チョコ……とかじゃなくて……! 義理チョ……でもなくて――そ、そう! 友チョコ!」
今度は、首を大きく縦に振りながら言葉を継ぐ。
「こ、これは、あくまで、今まで友達として接してくれた事と、これからもヨロシク的な挨拶を兼ねた――友チョコってヤツだ、ウン! ほ、本命とか……そういうのじゃもう無いんで、ご、誤解しないように――!」
「……プッ!」
俺は、シュウのあまりの慌てっぷりに、思わず吹き出した。
「何だよ、シュウ。何か、恋愛ゲームのツンデレキャラみたいな事になってんぞ、お前」
「……だって」
「あ、いやいや。別にからかってる訳じゃないよ」
俺はそう言うと、シュウの手から箱を受け取った。
そして、シュウに向かって微笑んで見せる。
「――ありがとうな、シュウ。嬉しいよ、マジで」
「……お、おお」
「……ひょっとして、手作り?」
「あ……いや」
シュウは、俺の問いかけに、やや表情を曇らせて、かぶりを振った。
「昨日は、おふくろが家に居たから、台所を使えなくて……しょうがないから、買ってきた」
「そっか」
「……ゴメン」
「いや、全然謝るような事じゃないし」
俺はそう言って、申し訳なさそうな顔をしてしょげるシュウに苦笑いを向けた。
そして、おもむろに自分の制服のポケットに手を入れる。
「……でも、まあ――」
そう言いながら、俺はポケットから取り出したものをシュウに差し出した。
「だったら、俺の勝ちだな。――これ、俺の手作りだから」
「ふぇ、へっ……?」
シュウは、突然俺に突きつけられた小さな包みを見て、目を白黒させる。
そして、恐る恐るといった体で手を伸ばし、俺の手から包みを受け取り、俺に尋ねた。
「こ……これってもしかして、ば、バレンタインのチョコ――?」
「まあ……うん」
今更恥ずかしくなった俺は、頭をポリポリと掻きながら頷き、言葉を継ぐ。
「お前がくれたのと同じ……友チョコってヤツ。――本命じゃなくて悪いんだけど……」
「あ……いや!」
俺の言葉に、シュウは一瞬表情を翳らせたが、すぐに満面の笑みになった。
「友チョコで全然オッケーだよ! うわー、マジか! ヒカルが、俺の為に手作りのチョコを――! やべ、めっさ嬉しい! マジかこれ? 夢見てんじゃね、オレ? いやーどうしよー!」
「あ……あの、シュウさん?」
大声ではしゃぎまくるシュウに、俺は慌てて声をかける。
「そ、そんなに喜んでくれると、俺も嬉しいんだけど……、もう少し、その……落ち着いて……!」
「あ……お、おお」
俺に窘められて、シュウはハッと我に返り、慌てて俺に頭を下げた。
「ゴメン……。まさか、ヒカルからチョコをもらえるなんて思ってもいなかったから、嬉しくてつい……」
「あ……う、うん、大丈夫……」
……そんな、目に涙を浮かべてまで喜ばれると、何も言えなくなるじゃねえかよ。……まったく。