チョコレイト・DEATHコ
「ふわぁああ……」
寝起きの俺は、あくびをしながら大きく伸びをする。
――と、大きく息を吸い込んだ瞬間、甘ったるくもビターな香りが、俺の鼻腔へと流れ込んできた。
「……ん?」
俺は鼻を動かし、その香りを吸い込みながら、こたつから立ち上がり、匂いの元へと足を運ぶ。
香りが漂ってきているのは、台所からだった。
「あーっ! ちょっと愚兄ッ! 何勝手に入って来てんのよ!」
「ひーちゃん、今日のキッチンは男子禁制よ~」
台所に一歩足を踏み入れた瞬間、ハル姉ちゃんと羽海が俺を咎めた。
滅多に台所に立たないふたりが、並んで何やら作業しているという珍しい光景に、俺は興味を覚えて、ふたりの制止もお構いなしで中に入る。
「どうしたの、ふたりとも? 何か作ってんの? こりゃあ、明日は雪か隕石が降ってく――ブッ!」
「うっさい、愚兄! 入ってくんなっつってんだろ!」
何気なく尋ねただけの俺の顔面に、台布巾の石直球を投げつけながら、羽海が怒鳴った。
「何作ってるって……。2月13日に女の子が台所に立つ理由なんて、ひとつしか無いでしょ?」
「あぁ……」
ハル姉ちゃんに、抱えたボウルの中身を見せられ、俺は納得した。
「チョコレートね……」
「そうよ! 明日は、バレンタイン! 女の子の決戦の日なのよ~」
そう言うと、ハル姉ちゃんは気合十分といった様子で、ふふんと鼻を鳴らす。
「なるほどねぇ……。で、今年は誰に……って、訊くまでもないか」
「へへーん! 今年こそは、シュウちゃんが感動する出来のチョコクッキーを作って、ラブラブになってやるんだもーんっ!」
と言いながら、羽海は、頬っぺたにチョコをつけた顔を綻ばせた。
その言葉に一瞬、ハル姉ちゃんの顔が引き攣る。
だが、すぐに薄い笑みを浮かべると、勝ち誇ったように言い放つ。
「ごめんね~、うーちゃん。残念だけど、あなたのチョコは、タダの前座に成り下がるのよ。シュウくんは、私の作ったチョコマカロンでイチコロになっちゃう予定なんだから……♪」
「な……何よ、お姉ちゃん!」
ハル姉ちゃんの挑発に、羽海は顔を般若の様に歪めた。
「そ……そんな事ないもん! シュウちゃんがアタシの特製チョコクッキーを食べたら最後、他のチョコなんて、ただの泥団子と同じに感じるようになっちゃうんだから! 何せ、チョコの中に……」
「……おいおい、中に変なモン混ぜるんじゃねえぞ。去年の事、忘れたのかよ?」
興奮して捲し立てる羽海に対し、俺は慌てて口を挟んだ。
「去年のバレンタインで、お前がシュウにあげた生チョコタルト……中に漢方薬だか何だかを混ぜられたせいで、全部食ったシュウが三時間くらいトイレで缶詰めになってたの、覚えてるだろ?」
「あ……あれは!」
俺の言葉に、羽海は目を頻りに泳がせながら反論する。
「あれは……何か、イモリの黒焼きが惚れ薬になるってネットに載ってたから……。さすがにイモリを捕まえて黒焼きにするのは無理だったから、代わりにイモリの黒焼きが入ってる漢方薬を入れてみただけだもん……」
「あー、あったわねぇ、そんな事も~」
しどろもどろになる羽海を見て、ハル姉ちゃんがにんまりする。
「あれは災難だったわね~、シュウくん。あの時の事で懲りて、今年はうーちゃんのチョコを受け取ってくれないかもしれないわね~」
「え……? そ……そんなぁ……」
ハル姉ちゃんの指摘に、羽海は目を潤ませながら、ブンブンと激しく首を横に振った。
「そ、そんな事ないもん! 去年、ちゃんと謝ったら、シュウちゃん許してくれたもん! 『来年も楽しみにしてるよ』って言ってくれたもん!」
「ふふん、それはタダのリップサービスなんじゃないかしら~?」
「……いやいや。それを言ったら、ハル姉ちゃんも同じじゃん」
半べそをかく羽海を前に勝ち誇るハル姉ちゃんにも、俺は釘を刺してやる。
「え……何で?」
俺の言葉に、ハル姉ちゃんはキョトンとした表情を浮かべ、首を傾げた。
あの事をすっかり忘れているらしいハル姉ちゃんに、俺は溜息を吐き、思い出させてやる為に言葉を継ぐ。
「忘れたのかよ……。一昨年のバレンタインで、ハル姉ちゃんがシュウにあげた“焼きチョコ”という名の暗黒物質の事――」
「う……っ!」
俺に言われて、ようやく思い出したらしい。ハル姉ちゃんの顔が引き攣った。
ハル姉ちゃんは、さっきの羽海と同じように目を激しく泳がせる。
「あ……あれは……オーブンの設定温度と時間を少~しだけしくじっちゃった……だけで……」
「“少しだけ”で、あんな消し炭になるかよ。……しかも、それをシュウにあげて食わせるし」
「そ……それは、チョコって元々黒いから気付かなかっただけで……。た、確かに『少し焦げ臭いかな~』って思ったけど、焼きチョコっていうくらいだから、こんなものなのかな~って思って……」
「……その理論でいくと、焼き肉もタダの炭に成り下がるんですが」
「……ごめんなさい」
さっきまでの威勢はどこかへ消し飛び、しゅんとしてしまうふたり。
……しまった。少し言い過ぎたかも。
そう思った俺は、場を繕う為に、慌てて声を張り上げた。
「ま、まあ、いいんじゃないか? 当のシュウは気にしないって言ってくれたみたいだし、実際気にしてないっぽいからさ」
「そ……そう?」
「あ……や、やっぱり?」
俺の言葉に、ふたりの表情が輝きを取り戻す。
ふたりは顔を見合わせると、互いに頭を下げた。
「……うーちゃん。ごめんねぇ。お姉ちゃん、ひどい事言っちゃって……」
「う……ううん。ホントの事だし……」
「今年は……シュウくんに、ちゃんと美味しいチョコを食べてもらえる様に、一緒に頑張ろ!」
「うん、お姉ちゃん! ……って、どうすれば、美味しいチョコが作れるのかな……?」
「それが問題よねぇ……」
「……いやいや。取り敢えずレシピ通りに作っとけばいいんじゃないの?」
真剣な顔で首を傾げるふたりを見かねて、俺は声を上げる。
「レシピに載ってる通りの材料を使って、レシピに載ってる通りの時間と分量を守って作ればいいだけだと思うけど……」
「でも……それじゃ、オリジナリティが――」
「オリジナリティに拘った結果、どうなりましたか、羽海さん?」
「うっ……」
俺の正論に、羽海は返す言葉に窮して押し黙――
「っるさい! 愚兄のクセに生意気だぁッ!」
「痛ぁっ!」
――らず、逆ギレのタイキックを、俺のふくらはぎに食らわせてきた!
「痛ってえな……。せ、せっかく、俺が忠告してやったのに……」
「さ、お姉ちゃん! 部外者は放っておいて、チョコ作りの続きしよっ!」
「あ、そだねー。チョコが固まっちゃう前にねー」
と、ふたりは、足を抱えながら抗議の声を上げる俺を平然と無視して、再び台所に向かい、ボウルの中のチョコを湯煎で溶かす作業に没頭し始める。
「……」
俺は、そんなふたりの背中をぼーっと見つめながら、ふと考えた。
――今頃、諏訪先輩や……早瀬も、チョコ作りしてるのかなぁ……?
諏訪先輩は、甘いチョコレートを、多分俺の為に……。
早瀬は……誰の為に作ってるんだろう……?
「……」
そう考えると、胸の奥がチクチクと痛む。
――と、その時、
「……あ」
ふと、俺の頭の中に、ひとつのアイディアが唐突に浮かんだ。
「あ! は、ハル姉ちゃん! 羽海!」
気付いたら、俺はふたりの背中に向かって声をかけていた。
「あのさ! ちょっと、お願いがあるんだけど――!」
――脳裏に浮かんだアイディアを、実行に移す為に。