あんはっぴいえんど
カタ……カタカタ……カタッ……カタタ……
冬の日差しが窓から弱く射し込む文芸部の部室に、キーボードを叩く音が響き渡る。
それは、部室にいると何時も聞こえるお馴染みの音なのだが、それを傍らで聞く俺の心は、いつもとは全然違っていた。
「……」
俺は、手にした『愛と呼ぶには辛すぎる』の最終プロットをパラパラと捲るが、その内容はほとんど頭に入ってこない。
「……」
俺は目だけを動かし、こっそりと横を見る。
俺の左側のパイプ椅子には――スタンドで立てたタブレットに目を落とし、手元のワイヤレスキーボードで軽快に文字を打ち込む諏訪先輩が座っていた。
キーボードの上を目まぐるしく跳ね回る指先とは正反対に、先輩の横顔は、ほとんど動かない。ただ、眼鏡の奥の黒い瞳を左右に動かしながら、時折思い出したように瞬きをするだけだ。
「……あ」
俺は、改めて諏訪先輩の横顔を見て、彼女の睫毛が思っていたよりも長い事に、今更ながらに気が付いた。――それは即ち、もう10か月近くもこんな間近で先輩の横に座っていたというのに、今日まで碌に彼女の顔も見ていなかったって事だ。
そして、化粧っ気の無い先輩の白い頬の肌理が、まるで白磁のように綺麗だった事にも気付く。
その事に、俺は思わず自嘲の苦笑いを浮かべる。
――と、正面に向かっていた先輩の黒い瞳が、突然俺の方に向いた。
「……さっきから、私の顔を見て、どうしたの? 気が散るんだけど」
「ふぁ、ふぁいっ?」
急に問い質され、俺は頭のてっぺんから変な声を出し、慌てて目を逸らした。
そして、手にした最終プロットをペラペラペラペラと目まぐるしく捲る怪しいムーブをかましつつ、裏返った声で答える。
「い……いえ! べ……別に、そ、そんな深い意味は……す、す、スミマセン、ハイッ!」
「……別に、謝るような事でも無いんだけど」
挙動不審な俺の言葉に、諏訪先輩はそう言って首を傾げた気配がした。そして、「フッ」と息を吐く音が俺の鼓膜を揺らした後、再びキーボードが軽快なリズムを奏で始める。
……今の「フッ」は、呆れた溜息なのかな? ――それとも、含み笑い……?
俺は、どっちが正解なのか気になったが、さっきの今で、また先輩の横顔を覗き見る訳にもいかないので、そぞろな気分を無理やり集中させ、プロットの内容を読み取る作業に没頭しようとする。
――が、そんな集中は、直ぐに途切れる。
……つうか、先輩は平気なのかな? 初詣の時、あんな事があったっていうのに……。
今まで見る限り、諏訪先輩の様子は、冬休み前と全く変化が無かった。――1月2日に、「月が綺麗ですね」と告白してきてくれたのにも関わらず、である。
何か……マジであの時の出来事が、全部俺の妄想だったような気がしてきた……。
「……どうかしら? そのプロット……」
「……へ?」
上の空だった俺は、不意に声をかけられ、キョトンとした顔で声の方向に顔を向ける。
目をタブレットに向け、キーボードを叩き続けながら、諏訪先輩は言葉を続けた。
「あの日、高坂くんに言われた事を元にして、終盤を少し書き直したんだけど――そんな感じで、どう?」
「え……あ、ああ~! はいはい!」
初詣の日、栗立駅のミックで、諏訪先輩の書いてきたプロット案に意見した事を思い出し、俺は大きく頷きながら、慌てて束ねられた原稿用紙の後ろのページを開く。
「……ふむ……ほう……なるほど……」
原稿用紙に並ぶ、諏訪先輩の綺麗な手書きの文字を目で追いながら、俺は思わず感嘆の声を漏らした。
前回のプロット案では、主人公のアカリが、瑞樹への想いを胸にしまい込んだままで、幸せそうな彼の姿を陰から見ながら哀しみの涙を流す――というラストだった。
――それが、この最終プロットでは、アカリは瑞樹に想いを告げ、結局恋は実らなかったが、心のつかえが下りた彼女は、心からの笑顔で瑞樹たちを祝福し、自らも新しい恋に踏み出す――という結末に変わっている。
「――うん、いいと思います」
俺は、プロットを読み終えると、大きく頷いた。
「結末は、どちらも失恋エンドですけど、こっちの方が、アカリのこれからに希望の持てるラストになっていると思います。瑞樹への想いに縛られたままだった前の結末に比べると、こっちの方が断然好きです、俺は!」
「……そっか」
俺の言葉を聞いた諏訪先輩は、キーボードの上を走らせていた手を止めて、小さく頷いた。心なしか、先輩の頬は、さっきよりも赤みを帯びている……気がする。
「……ありがと。そう言ってもらえて、安心したわ。――じゃあ、『恋辛』のストーリーラインは、これでいくわね」
「あ、はい。大丈夫です」
諏訪先輩の言葉に、大きく頷く俺。――どうやら、この分なら、“星鳴ソラ”の作品リストに、2作目の『完結作』が出来るのも時間の問題だろう。
“読泣ソラ”などという、ネット上でのふざけた仇名を完全に返上する日も近いだろう……。
――と、俺が感傷に浸っていると、
「……高坂くん」
突然、諏訪先輩に名前を呼ばれた。
「……え? あ、ハイ。何でしょう?」
「……」
我に返った俺が慌てて返事をすると、諏訪先輩は無言で、自分が座っているパイプ椅子を後ろにずらし、そのまま身体を回転させてこちらに向けてきた。
「え? ど……どうかしました、先輩?」
先輩の謎の行動に、俺は戸惑いながらも、取り敢えず同じように身体を回し、諏訪先輩と向き合う様に座り直す。
そして、何気なく視線を下に落とし、
「……んんっ?」
思わず変な声を出した。
ちょうど俺が目線を落とした先に、諏訪先輩の、タイツを履いた膝頭があったからだ。
黒いタイツの生地が伸ばされて、その下にある諏訪先輩の脚の肌色が僅かに透けて見える――!
た――タイツ、エッロ……っ!
「――ッ!」
それを見た瞬間、俺の左胸がマグネチュード6.5くらいの地震並みに波打ち、俺は弾かれたように目線と顔を上げる。
「……どうしたの?」
そんな俺の奇行を見て、訝しげに首を傾げる諏訪先輩に、俺はブルブルと激しく首を横に振る。
「な――なんでもないっス! あははハハッ!」
「そ、そう? 何か様子がへ――」
「なんでもないっス!」
俺は重ねて声を張り上げ、眉を顰める諏訪先輩の言葉を遮ると、追及の鉾先を逸らそうと、逆に問いをぶつけた。
「そ……そんな事より、ど、どうしたんですか、改まって――?」
「あ……」
ぶつけられた質問に、今度は諏訪先輩が狼狽える様子を見せた。
彼女は、頻りに目をパチクリさせながら、太ももの上で重ねた両手をもじもじと動かす。
――が、先輩がそんな仕草を垣間見せたのは一瞬だった。
諏訪先輩は大きく息を吸い込むと、今度は「ふぅ~……」と、溜めた息を細く長く吐いた。
そして、息を吐き切ると、真っ直ぐな目で俺の目を見据える。
「……!」
眼鏡の奥から覗く黒い瞳。その瞳に宿る真剣な光に、俺も思わず居ずまいを正す。
そして、諏訪先輩は、静かに口を開いた。
「あの……あの時の――初詣に行った日の……公園での事なんだけど……」
と――。