未練レストラン
「ふぅ……ごちそうさま」
最後に残ったハンバーグの一切れを飲み込むと、俺はフォークとナイフを皿の上に並べて置いて、紙ナプキンで口を拭った。
「ええと……おまたせしました」
「あ、全然大丈夫だよー」
俺が食べている間、頬杖をついて窓の外を眺めていた早瀬が、俺の方を向いてにっこりと笑った。
「美味しかったねぇ。サラダも……ハンバーグも!」
「う、うん、そうだね……」
俺は、彼女の言葉に小さい声で答えながら、チラリと傍らに目を遣った。
俺の隣――ソファの上に、茶色い紙袋が壁に立てかけて置いてある。
もちろん――中に入っているのは、早瀬から借りていたBL同人誌である。
あとは……この紙袋を彼女に返せば、今日の用事――そして、彼女との縁は終わりだ……。
「……」
だが、俺は紙袋から目を逸らすと、無言のまま、取り敢えずテーブルのコーヒーカップに手を伸ばし、温くなったカフェオレを口に含んだ。
――嫌だな……。
それが、偽らざる正直な気持ちだ。
出来る事なら、もっと彼女と一緒の時間を過ごしていたい。
早瀬と一緒にいると、やっぱり楽しいんだ。……まあ、緊張でとんでもなく疲れるのは確かだけど……。
出来れば、この時間を終わらせたくない……そう、切実に思った。
――が、
『……ごめんなさい……』
あの時の――クリスマスイブの夜、観覧車のゴンドラの中で聞いた早瀬の声が、俺の脳内で甦る。
「……フ」
あの時の事を思い出した俺の口元が、カップの縁を唇に乗せたまま、皮肉気に歪んだ。
……何を考えてるんだろうな、俺。
終わらせたくないも何も、とっくに終わってるんじゃないか。
どうやら、店員のお兄さんに意味深な事を吹き込まれたせいで、妙な未練が生まれてしまっていたようだ。俺が早瀬とどうにかなる可能性なんて、あの日に彼女自身によって摘まれているっていうのに。
……そうだよ。この気持ちは、ただの未練だよ。何も生み出さない……!
「……よし」
俺は、一気にコーヒーカップを傾け、残ったカフェオレを全部飲み干すと、静かにソーサーにカップを置いた。
そして、正面に座る早瀬の顔を見て、静かに呼びかける。
「……早瀬さん」
「え? 何? どうした……の……?」
急に声をかけられた早瀬は、驚いた様子で声を上げたが、俺の態度を前に、何かを察したように目を丸くした。
俺は、傍らに置いた紙袋の持ち手を軽く握りながら、静かに口を開く。
「早瀬さん……借りてたコレ……返すね」
「……うん」
早瀬は、俺の言葉に小さくコクンと頷く。
「あの……ありがとう……」
「……ううん。むしろ、ごめんね……」
「え……?」
突然早瀬の口から出た謝罪の言葉に、俺は戸惑いの声を上げた。
すると早瀬は、僅かに目を伏せながら、小さな声で言う。
「だって……。全然そういう事に興味が無い高坂くんに、私が勝手に勘違いして、無理矢理そんなものを押し付けちゃって……正直迷惑だったでしょ?」
「あ……い、いや! 迷惑だなんて……そ、そんな事無いよ!」
早瀬の言葉に、俺は慌てて首を左右に振った。
「こ……この前の電話でも言ったけど……読んだら面白かったし、色々勉強にもなったというか何というか……」
「……勉強?」
俺の言葉尻を捉えて、早瀬が目を上げた。……心なしか、目がキラキラ輝いている様な気がするんですけど……?
その表情にピンときた俺は、慌てて両手をブンブンと振った。
「あ、いや、違うからね! そ……ソッチ方面の勉強じゃなくて……人と人との触れ合いっていうか――」
「ふ! 触れ合い……っ!」
「あー、だから違うって! 心的な意味だからね、コ・コ・ロ! け、決して、今早瀬さんが思い浮かべている様な、カラダ的な意味合いじゃなく――」
ざわ……
「……あ」
更に目の色を変えた早瀬を前に、取り乱して腰を浮かしかけた俺だったが、その途端に周りの席から、微かなざわめきが聴こえてきた事で、ハッと我に返った。
「え、エヘンゴホン……!」
俺は、わざとらしい咳払いをしながら席に座り直すと、ヒソヒソ声で早瀬に言う。
「と……とにかく! 早瀬さんから本を借りたおかげで、俺は色々と成長する事が出来た……って言いたかったんだよ」
「うん……」
「だから、全然迷惑じゃなかったから。早瀬さんが気に病む必要なんか無いからね。……それだけは、忘れないで」
「……うん」
「だから……ありがとうね」
「…………うん」
俺の言葉に、早瀬はやや俯きながら、コクンコクンと首を縦に振った。
そんな彼女に、俺も大きく頷き返しながら、紙袋の持ち手を握り、持ち上げ……け、結構重たいな、やっぱり……。
紙袋の重さに、内心で悲鳴を上げつつ、右腕に力を込めて持ち上げる。そして、袋の底を左手で押さえながらテーブルの上に乗せ、早瀬の方へと滑らせた。
「……ありがとう」
「うん……こちらこそ、ありがとう」
互いに感謝の言葉をかけつつ、BL同人誌の返却は済んだ。
……そうなったら、もうここに留まる必要は無い。
なるべく早くここを退散して、駅で彼女とサヨナラしよう。――せっかく吹っ切った“未練”がぶり返さない内に……。
最後に細く息を吐いてから、俺はテーブルの端に乗っていたレシートバインダーを取り上げると、席から立ち上がる。
そして、
「じゃあ……そろそろ行こうか……」
と、早瀬の事を促した。
彼女は、俺の言葉に躊躇う様に目を瞬かせたが、
「うん……」
と、消え入りそうな声で頷いた。
そして、立ち上がってリュックを肩にかけてから、テーブルの上の紙袋を持ち上げようとする。
……が、
「う……ん……うーん……フンっ! ……う」
ぎっしりと中身が詰まって、男の俺でも持ち運ぶのに苦労した紙袋だ。小柄な女の子――更に、今日はただでさえ動きづらい晴れ着姿の早瀬の力では、持ち上げるのも一苦労のようだ。
「よいしょ――っとと……っ!」
「あ……は、早瀬さん……!」
やっとの事で紙袋を持ち上げたと同時に、大きくよろけた早瀬に、俺は慌てて両手を伸ばした。
と……バランスを崩した彼女の身体が、俺の広げた両手の間――つまり、胸の中に飛び込んできた。
軽い衝撃と共に、何やら柔らかい感触と温もり――そして、仄かなシャンプーの香りが、俺を包み込む。
「……え?」
「あ……」
思わず顔を下げた俺の視線と、俺の胸に凭れかかった早瀬の視線が、僅か10センチほどの距離でぶつかった。
「な……な――ッ?」
「……っ!」
図らずも、息のかかる距離で早瀬と見つめ合ってしまった俺と早瀬は、慌てて飛び退って、互いに距離を取る。
「あ……あの……ご、ごめん!」
「う……ううん! わ、私こそ……ごめんなさい」
お互いに謝り合う俺と早瀬。
顔が熱い。心臓がバクバクいってて、今にも破裂しちゃいそうだ。
そして、俯いて髪をいじっている早瀬の顔も、何だか赤くなっている様な気がする……。
「あ……あのさ!」
気が付いたら、俺は声を上げていた。
俺の声を耳にして、「え?」と言いながら顔を上げた早瀬が怪訝な表情を浮かべるのにも構わず、俺は頭の中に浮かんだ言葉を、無我夢中で吐き出していた。
「あのさ、早瀬さん! も……もし、良ければ……さ――」