きものフレンズ
そして迎えた、1月6日――。
「……寒ぃっ!」
早瀬との待ち合わせ場所である、栗立駅の駅前広場に四日ぶりに立つ俺は、厳しい寒気に身体の芯まで刺し貫かれ、歯をガチガチと鳴らしながら、ゴシゴシと頻りにコートの上から腕を擦っていた。
上空は、穏やかな晴天だった2日とは打って変わって、今にも雨……いや、下手すれば雪が降ってきそうな曇り空。それもあって、あの日よりも冷え込みはずっと厳しい。
あまりの寒さに、体の震えが治まらなくなった俺は、少しでも動いて身体を温めようと、その場で細かく足踏みしながら、広場に立つ時計台を仰ぎ見た。
「……じゅ、11時……48分か……ぶえっくしゅッ!」
震え声で呟いた後に、盛大なくしゃみをする俺。
道行く通行人たちが、訝しげな表情で俺を一瞥していき、俺は真っ赤になった顔を隠そうと、コートの襟を首元に引き上げる。
「あと12分か……。つか、いくら何でも、早く来すぎたな……」
俺は、恨めし気に独り言ち、左手に下げている大きな紙袋を持ち直す。
「重い……」
茶色の厚手の紙に、様々なメーカーのロゴがデザインとしてあしらわれた、某家電量販店の大きな紙袋は、ずっしりと重い。
重いはずだ。紙袋の中には、BL同人誌が50冊ほども入っているのだから。
もちろん、これは俺の私物ではなく、最初に早瀬と栗立で会った時に、彼女から押し付けられ――貸してもらった物である。
今日――俺は、早瀬から借りていたBL同人誌を返す為に、ここで寒さに震えているのだ。
まあ、こんなに俺が凍え切ってしまっているのは、待ち合わせ時間は12時ジャストなのにも関わらず、例によって予定の30分以上前に着いてしまった俺自身が悪いんだけど……。
「……ぶえっきゅしゅッ!」
またひとつ、大きなくしゃみをし、周囲の人々が送る顰蹙の視線の十字砲火を食らった俺は、さすがに居たたまれなくなって、ひとまずこの場から退避しようと、手に提げたクソ重い紙袋を持ち直す。
――と、その時、
「高坂くん! 見ーっけ!」
「ふ――ふぁっ……?」
背後から、弾んだ声で名を呼ばれ、俺はさっきとは違う意味で身体を震わせた。
その、明るく可愛らしい声色――スマホ越しでない生の肉声は、あのクリスマスイブの夜以来だが、聞き間違えようもない。
「は……」
俺は、やにわに左胸の奥が早鐘のように鳴り始めるのを感じながら、ゆっくりと振り返り――、
「は、早瀬さ――んうぇえっ?」
……いや、過去の経験から、心の準備はしてきた。彼女――早瀬が、どんな突飛な格好をしてきても受け止められるように!
それこそ、臓物柄シャツだろうが、BLキャラの耽美なイラストがプリントされたパーカーだろうがどんとこい! という気概でいたのだが……。振り返って早瀬の姿を見た瞬間、俺は目を真ん丸にして、凍りついた。
「えへへ……。高坂くん、久しぶり……」
そう言いながら、はにかんだ笑みを浮かべる早瀬の顔は、真っ黒に日焼けしていた。
どんよりと曇った日本の冬空の下だと些か不自然ではあるが、彼女は年末年始をハワイで過ごしていたという事だから、まあ、日焼けしていても当然だろう。
というか、日焼けしてても、早瀬はやっぱり可愛いな、うん……。
――それはともかく、俺が仰天したのは、それとは違う、また別のところである。
「は……晴れ着……!」
そう、晴れ着である。
今日、早瀬が着てきたのは、エキセントリックな柄の服ではなく、ピンクの八重桜の柄をあしらった和装だったのだ。
赤い帯が、白地の着物に良く合っている。
「うん……。お正月だからね」
早瀬は小さく頷くと、その場でくるりと回転してみせた。早瀬の小柄で華奢な身体が回るのに合わせて、着物の長い袖がふわりと浮く様は、まるで妖精が踊っているみたいだ……。
「……」
「ど……どうかな? やっぱり……変かなぁ?」
「い? あ、いやいやいやいや!」
その可憐さに、ぼんやりと見惚れていた俺の様子に不安を覚えたのか、心配顔でおずおずと尋ねてくる早瀬。そんな彼女の顔を見た俺は慌てて、千切れんばかりに首を左右に振る。
「ぜ、全然変じゃない! む……むしろ、すごく……めちゃくちゃ似合ってるよ! マジで!」
俺は、興奮を抑え切れずに、早口でまくし立てた。
……本当は、背中に背負っていた、いつものBL缶バッジ盛り盛りリュックサックが、晴れ着との違和感MAXだったんだけど……それは言わぬが花だ。
幸い、早瀬は俺の内心には気付いていないようで、その顔には、安堵の表情が浮かんだ。
「えへへ……良かったぁ。ちょっと日焼けしちゃったから、普段通りの洋服の方が良かったかなぁとも思ったんだけど……」
「あ、いやいや。それは無い」
「……え?」
「あ……いや、何でも無いです、ハイ」
思わず漏れた俺の本音に、怪訝な表情を浮かべる早瀬。俺は慌てて首と手を左右に振り、深々と頭を下げた。
「いや、ホント……ありがとうございます!」
「あ……ええと、うん。何でお礼を言われてるのか分かんないけど……どういたしまして」
俺の最敬礼に困り笑いを浮かべながら、早瀬もちょこんと頭を下げる。
――と、
「あ……」
彼女の口から、微かな音が漏れる。
どうやら、頭を下げた拍子に、俺の足元に置いてあった茶色い紙袋が目に入ったようだ。
「ええと……それ……」
「あ……うん……」
早瀬の問いかけに俺は、今日ここに来た本来の用件を思い出す。
――そうだった。
やにわに、ズキリと胸が痛み始めるのが分かった。
「それは……例の……」
舌が、まるで鉛の塊に変わったかのように重く感じる。
――この先の言葉は、言いたくない。
早瀬に用件を告げて、この紙袋を渡してしまえば、今日ここに来た用事は済む――済んでしまう。
用事が済んでしまえば……あとは解散するだけ。……うん、当たり前だ。
そして、彼女から借りていたBL同人誌を返してしまえば、あの日、学校のA階段から始まった早瀬との繋がりは、完全に切れる事となる。
明日からの俺と早瀬は、陰キャと学年のアイドルという、およそ交わる事の無い存在に戻る事になる……。
“だから――せめて、もう少しだけ、早瀬と一緒の時間を過ごしたい”
クリスマスイブの夜以来、久しぶりに早瀬の顔を見れて、彼女の声を直に聞けたんだ。もう少し、この幸せな時間を過ごしていたい……それが、今の俺の偽らざる気持ちだった。
でも……言わないと……!
「早瀬さんッ! あの……その……」
俺は、早瀬に用件を切り出したくない願望と、用件を伝えなければならないという義務感で、まるで嵐の海に漂う小舟のように心を揺さぶられながらも、夢中で言葉を紡ごうとする。
――と、その時、
たて笛の高い“ド”のような音を立てながら、俺たちの間に一陣の北風が吹き抜けた。
冷たい北風にくすぐられた俺の鼻がムズムズし始め、そして――、
「ぶ……ぶぇっくしゅっ!」
「きゃっ!」
俺が思わずしてしまったくしゃみの音にビックリした早瀬が、小さな悲鳴を上げる。
俺は、袖口で鼻を押さえ、垂れそうになる鼻水を啜り上げながら、驚いている早瀬に謝った。
「あ……ごめん、早瀬さん……。ちょっと、身体が冷えちゃって」
「……大丈夫、高坂くん? 風邪ひいたの?」
心配顔で、俺の身体を気遣う早瀬。俺は、苦笑いを浮かべながら、小さく頭を振る。
「あ……いや。確かに年末は風邪で寝込んではいたけど、今はもう治ってるから――」
「大変、高坂くん!」
俺の言葉を遮って、目を見開いた早瀬は、大声を上げた。
「ダメだよ、風邪を引いたばっかりなのに無理しちゃ! またぶり返しちゃうじゃない!」
「え……? い、いや……大丈夫だよ……」
「大丈夫じゃないよー! すぐに身体を温めないと……」
と、大げさに言いながら、早瀬は時計台にチラリと目を遣る。
そして、目を輝かせると、時計台を指さしつつ、俺に有無を言わせぬ勢いで言った。
「ほら! ちょうど12時だから、ご飯食べていこうよ! ご飯食べたら、身体が温まるから、ねっ!」