たったひとつの冴えた返し方
『そっか……良かった……』
エヘラエヘラと、だらしなく笑う俺が耳に当てているスマホから、早瀬の声が響いてくる。
その声が少し震えているで、俺は少し気になったが、スマホの電波が不安定だからだろう、と考え、気にしない事にする。
と、その時。
押し入れの方をチラリと見た俺は、ふと思いついた。
――せっかく、早瀬と電話が繋がっているんだから、ついでにあの事も決めてしまおう。
俺は、自然さを意識しつつ、さりげなく彼女に向けて切り出す。
「ええと、ところで……、早瀬さんの親戚の人が迎えが来るのって、まだかかるの?」
『あ……そういえば……』
そこで彼女の声が一瞬途絶える。電話口の向こうで、早瀬が誰かに時間を聞いている声が聴こえた。
早瀬と話している誰か――多分、お父さんかお母さん――の声は、さすがにこちらには届かない。だが俺は、早瀬の声を一言余さず聴き取ろうと、一心不乱に聞き耳を立てる。
『……ねえ、おじさんが迎えに来るのって、あとどのくらい~? ……あ、そうなんだ……え? 違うよ~。友達だよー……いや、違うってぇ……』
「……」
うーん、やっぱり、早瀬の声しか聴き取れない。だが、何を話しているのかは、早瀬の声だけでも大体把握できた。
とりあえず、早瀬は俺の事を、まだ“友達”と呼んでくれている。
それだけの事なのに、俺は何とも言えない嬉しい、満たされた気持ちになった。
――と、スマホから聞こえる早瀬の声が大きくなった。
『――あ、おまたせ~!』
「あ……いや、全然待ってないっス!」
こっそり、早瀬の会話を盗み聞ぎしようとしていた後ろめたさで、俺は声を裏返しながらペコペコと頭を下げる。
だが、早瀬は全然気にも留めない様子で、言葉を続けた。
『ええと、大体あと10分くらいで着くみたいだって』
「あ……そうなんだ」
早瀬の答えを聞いた俺は、もう一度押し入れの方を見る。
時間はあまり無いようだ。このチャンスを逃さぬよう、手早く用件を伝えよう。
――早瀬に借りたっきりになっている大量のBL同人誌を、どうやって彼女に返すかという件を。
「……それでさ、メッセージにあった件なんだけど……どうしようか?」、
『え……? ああ、あれね……』
何故か、電話口の向こうで、早瀬が一瞬躊躇ったような気配がした。
『……そうだね。もう、高坂くんには要らないものだもんね……。いや――初めっからか……』
「あ……いやいや! そんな事は無いって!」
沈んだ口調になった早瀬に、俺は慌てて声を掛ける。
「た……確かに、俺はそういう性癖じゃなかったけど……。それでも、読んでて面白い作品ばっかりだったよ! どれも絵がキレイだったし、普通に感動するストーリーもあったし……。まあ……“本番”シーンはちょっと苦手だったけど……。でも、借りて良かったよ、マジで!」
『……そっか。それなら……良かったよ』
――心なしか、早瀬の声に元気が戻ったように感じて、俺は胸を撫で下ろす。
俺はゴホンと咳払いをすると、話を戻す。
「ええと、それで……どうやって返そうかな……という話なんですが」
『うーん……そうだねぇ……』
「……もし宜しければ、ご自宅に郵送しようかとも考えておりまして。――あ! もちろん、本人限定受け取りにして、ご家族にはバレないようにして――」
『あはは、いいよぉ、そこまでしなくても』
俺の提案を、早瀬は笑いながら却下した。
『だって……郵送じゃ、余計なお金がかかっちゃうじゃん。もったいないよー』
「あ、もちろん、元払いで送るから、早瀬さんが送料を払う事は――」
『でも、それじゃ、高坂くんがお金払う事になっちゃうじゃん』
「え? あ、まあ、そうなるけど……そこは気にしないでいいよ――」
『気にするよ』
「え……?」
俺の言葉に対し、即座に答えた早瀬の声に、頑としたものを感じて、俺は思わず息を呑む。
『気にするよ。だって……、高坂くんの家にそれがあるのって、私の勘違いが原因だもん……。それなのに、これ以上、高坂くんに迷惑をかける訳にはいかないよ』
「迷惑って……そんな事は――」
きっぱりと言い切る早瀬の言葉に、俺は言葉を詰まらせる。
あの、A階段以来の一連の件に関して、早瀬が責任を感じてしまっている事に心を痛めつつ、別のどこかでは確かに喜んでいる俺が居るのを感じる。
早瀬が、俺の事を気にかけてくれている……。その事実は、やっぱり嬉しい……自分でも最低だと思うけど。
「……」
そんな事を思いながらも、早瀬にかける言葉が見つからなくて、俺は黙り込んでしまう。
……何か喋らないと、早瀬の親戚が空港に着いてしまう。そう考えて焦るが、そう思えば思うほど、俺の口と舌は、ますます重くなる。
『……ねえ、高坂くん』
その時、重い沈黙を破ったのは早瀬の方だった。
ハッとした俺は、慌てて「――あ! ハイ! 何でしょう?」と答える。
すると、早瀬の弾んだ声が、俺の耳に飛び込んできた。
『じゃあさ! 貸した時みたいに、直接会って――っていうのはどうかな?』
「――へ?」
俺は、突然の早瀬の提案に、呆気に取られて目を丸くした。
「ちょ……直接会って……っすか?」
『そう! それだったら、送料がどうとか、本人限定がどうのとか考えなくていいじゃない?』
「ま……まあ、それは確かに……」
『じゃ、それで!』
「あ! ちょ、待って……」
すっかり話がまとまった感を出している早瀬に、俺はストップをかけようとするが……、
『あ、ごめん! おじさんが来ちゃったっぽいから切るね! 詳しい時間とか場所とかは、後でLANEで打ち合わせしよ! じゃあ、また後で!』
「ふぇっ? あ、あの――!」
“プツッ”
制止する間もなく、電話は唐突に切れた。スマホの画面を見ると、『通話終了』の文字が光っている。
「……何だよ、勝手に……」
俺は、当惑の表情を浮かべたまま、暫くの間スマホとにらめっこしていたが、大きな溜息を吐いてスマホを枕元に放り投げ、ゴロンとベッドに横たわる。
仰向けになって、ぼんやりと天井の照明の白い光を眺める俺の口元は、
「……うへへ……」
――だらしなく緩んでいた。