この素晴らしい正月に祝福を!
「――愚兄、キモい」
突然、食卓の向こうから暴言をぶつけられた俺は、栗きんとんを摘まもうと伸ばした箸を止めた。
俺の斜め前に座った羽海が、数の子をポリポリと頬張りながら、冷たい目で睨んでいる。
「昨日の夜からずっと、事あるごとにニタニタニタニタ、キショい笑いを浮かべててさ……。どっかで頭でも打ったのかよ?」
「えー? いやぁ別に、そんな事無いんだけどさぁ」
俺は、嫌悪感80パーセントと皮肉15パーセント、隠し味で気遣いが5パーセントほどブレンドされた羽海の言葉に対して、軽く首を横に振ると、視線を宙に向けながら言葉を継いだ。
「いやー、何て言うの? 突然、この世界の素晴らしさを実感したっつーかさ。生きる理由を知ったっていうかさ。……とにかく、『世界サイコー! ハレルヤァ!』って叫びながら、踊り出したいような気分なんだよねぇ、今は。――にひひ」
「き、キモっ! マジキモいんですけどぉ!」
締まりのない顔で笑い声を上げた俺に、顔を激しく引き攣らせた羽海が叫んだ。
「んー? キモい? キモいとな?」
俺は、そんな羽海に向けてニコリと満面の笑みを向けると、斜め30度に首を傾げて訊き返してみる。
「このお兄ちゃんのどこら辺がキモ可愛いって? 羽海ちゃん」
「キンッモーッ!」
俺の問いかけに、羽海は部屋の隅でゴキブリを見かけた時のように顔面を引き攣らせ、椅子の上で大袈裟に仰け反った。
「な……何だよ、羽海“ちゃん”って! 幼稚園以来じゃん、ちゃんづけしてアタシの事を呼ぶのって! キモ! キモいわ!」
「あー、そっかそっか。羽海ちゃんは、今までずっと、俺が呼び捨てにしてるのが寂しかったんだねぇ。分かったよ。これからはずっとちゃんづけで――」
「止めろや、クソ愚兄ぃっ!」
顔を真っ赤にしたり真っ青にしてギャーギャー喚きながら、羽海がテーブルの下で、俺の向う脛をガシガシと蹴飛ばしてくる。
ふふん、たかが小学六年生の蹴りなど、いくら食らった所で痛くも痒くも……痛っ!
「つ、つかよ! 何しれっと『キモい』に『可愛い』をブレンドしてやがるんだ! テメーなんて、欠片も可愛くねえんだよ、このクソバカ愚兄ィッ!」
「はっはっはっ! 羽海ちゃんは恥ずかしがり屋さんだなぁ。……でも、『愚兄』に『クソバカ』をブレンドするのは、お兄ちゃん少~し傷つくなぁ。“愚か”も“バカ”も同じような意味だから、二重表現だし――」
「だから、ちゃんづけすんなっつってんだろが! キモっ! マジキモウザい! もう喋んな! いや、もう息すんな、愚兄っ!」
そう叫んで、羽海は傍目でも分かるくらいに身体を震わせると、プイっと顔を背けた。
――と、
「ね、ねえ……? ホントに何かあったの、ヒカル……?」
恐る恐るといった感じで口を挟んできたのは、俺の斜め向かいに座る母さんだった。
「何か……、昨日の夜に帰って来てから、様子がおかしいっていうか、フワフワしてるっていうか……」
「え、そう?」
母さんの言葉に、今度は斜め45度に首を傾けて、俺は答えた。
「別に、俺はいつも通りだよ~。あはは」
「……いや、全然いつも通りじゃないんだけど……」
「まあまあ、母さん。いいじゃないか」
憂い顔の母さんを宥める様に声を掛けたのは、何杯目かのお酒を飲み干し、すっかり赤ら顔になった父さんだった。
父さんは、徳利から透明な日本酒を、手酌でお猪口に注ぐと、頻りに頷きながら言った。
「せっかくの正月なんだから、沈んだ顔をしているよりも、明るい顔をしてた方が良いに決まってる。結構な事じゃないか、いつまでも辛気臭い顔をしていられるよりは」
「……まあ、そうですけど……」
母さんは、父さんの言葉に不承不承といった感じで頷きながら、俺の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「ついこの間までは、世界の終わりみたいな顔をして寝込んでたのに……」
「……そうだよ。結絵さんにフラ……アレされたって、ガチで幽霊みたいだったのに――」
「――ッ!」
羽海の一言――“結絵さん”という名を聞いた瞬間、俺の表情は固まった。――華やかな彩りに満ちた世界が、やにわに色を失い、俺の心臓に氷の矢が深々と突き立ったような錯覚を覚える。
俺の顔を一目見た瞬間、羽海がギョッとした表情を浮かべた。
「あっ……ご、ごめん……」
「……」
オロオロしながら、慌てて謝って来る羽海の声が、ひどく遠い所から聞こえているように感じた……。
「ね、ねえ……大丈夫、ヒカル?」
「おおう……ど、どうした、晄――」
異常を悟った母さんと父さんも、心配顔で俺に尋ねかけてきて、そこでやっと我に返った俺は、強張った笑みを浮かべて小さく頭を振った。
「あ……いや、大丈夫。……うん」
そう、曖昧に答えると、俺は箸を置いて立ち上がった。
そして、空になった茶碗と箸を台所のシンクに置くと、
「じゃ、ご馳走様……。ちょっと、部屋に戻るわ」
そう、みんなに告げて、スタコラサッサとリビングから出ていく。
――まるで、逃げる様に。
◆ ◆ ◆ ◆
「……ふぅ」
自分の部屋に戻った俺は、大きな溜息を吐くと、ベッドに身を投げ出した。安物のベッドは、甲高い軋み音を上げて、俺の体重を受け止める。
「……」
ベッドの上で大の字になったまま、天井の照明をぼんやりと見上げた俺の脳裏に、あの時の光景が再び蘇る。
――爆ぜた花火の光で照らし出された観覧車のゴンドラ。
俺の向かいに座った早瀬の唇が、ゆっくりと動く――。
『……ごめんなさい……』
「ッ! ……くそっ」
俺は小さく毒づくと、脳内の映像を振り払うように髪を掻きむしり、忌々しげにゴロンと寝返りを打つ。
――せっかく、気が紛れかけていたのに、さっきの羽海の一言のせいで、また思い出しちまった……。
クリスマスイブの夜から、繰り返し何度も再生され続けた、あの苦い記憶は、すっかり擦り切れて、今や年代物の白黒映画みたいになっている。
あの日から、まだ十日くらいしか経っていないはずなのに、もう何十年も前の事のように思える……。
そして、どんなに擦り切れても、あの時、早瀬の口が紡いだ『ごめんなさい……』という言葉だけは、一切劣化する事無く脳内に響き渡り、俺の心に深く穿たれた傷口を、更に深く広げるのだ。
――だが、
その次に脳内のスクリーンに映ったシーンで、俺の顔は一気に緩んだ。
『――月が、綺麗ですね』
陽が沈み、人気のない公園の真ん中で、諏訪先輩が告げてくれた『ILove You』――。
月明かりだけで、その表情はハッキリと窺えなかったけど、その頬が真っ赤に染まっていた事は解った、諏訪先輩の顔――。
……つい昨日の事なのに、もう何百回もリバイバル再生している情景を思い返した俺の口元は、だらしなく緩む。
「……ふへへ」
――おっといけない。つい、変態チックな笑い声まで……。
慌てて口元を手で押さえて、緩み切った口元を引き締める俺であった……。