月が美しければ少しはましだろう
――熱い。
俺の右側に座っている諏訪先輩が、俺の顔に向けてくる視線も、俺の手の甲に軽く載せた手の平も、肩越しに感じる体温も、至近に近付いた先輩の口から、俺の頬にかかる吐息も――何もかもが熱かった。
俺は、突然近付いてきた先輩にドギマギしながら、引き攣った笑みを浮かべつつ、お道化た調子で訊いた。
「せ……先輩? ど……どうしたんですか、急に――?」
「高坂くんに、取り柄が無いなんて事……無いわよ」
先輩は、その黒い瞳で俺をジッと見つめながら、さっき口にした言葉を、もう一度繰り返した。
良く見たら、彼女の瞳は心なしか潤んでいるようにも見える……。
「わ……分かりました、先輩! と……とにかく、落ち着きま――」
「私は、冷静よ」
鬼気迫る先輩の様子に、咄嗟に間を取ろうとした俺だったが、その言葉を途中で遮って、先輩が静かに言った。
「あ……、ガ〇マ・ザビですね分かります」
「……は?」
「あ……し、失礼しました……」
咄嗟に軽口を叩いて、どう考えても緊迫しているこの場を和ませようとした俺だったが、その企ては見事に裏目った……。
眉根に深い皺を寄せる諏訪先輩の剣幕に、やにわに俺は、気温的なものとは違った寒気を背中に感じ、ブルリと身体を震わせる。
と、
「……ふぅ」
俺の顔を、液体窒素よりもずっと冷たいジト目で睨みつけていた諏訪先輩は、大きな溜息を吐いた。
「話の腰を折らないでよ。……大事なところなんだから」
「……すみません」
先輩の言葉にぐうの音も出せずに、俺は恐縮しつつペコリと頭を下げた。そんな俺を、仏頂面で睨んでいた諏訪先輩だったが、つとその表情を緩める。
「……まあ、いいわ。おかげで何だか、緊張が吹き飛んだみたいだから」
「あ……はぁ」
諏訪先輩の言葉に、俺は首を傾げながらも、取り敢えず頷いてみせた。
……緊張? 何を緊張してるんだ、諏訪先輩は……?
と――、諏訪先輩がおずおずと尋ねてきた。
「ところで……何を言いかけてたのかしら、私……」
「ええ……忘れちゃったんですか、諏訪先輩……」
「あなたが、くだらない事言うからでしょ」
「スミマセン……」
先輩の至極ごもっともな指摘を前にして、返す言葉があろうはずも無く、俺は再びペコリと頭を下げた。
そして、一生懸命、さっきのやり取りを思い出そうと脳みそを回転させる。
「ええと……、俺に取り柄が無いなんて事は無い――って」
「――そうだったわね」
俺の答えに、諏訪先輩は軽く頷いた。
そして、再び俺の目を見据えて、静かに言葉を紡ぐ。
「……といっても、この前にも同じ事を言った覚えがあるけど」
「あ……そういえば……ハイ」
先輩にそう言われて、俺は思い出した。
クリスマスイブの北武園遊園地。確かに、フードコートで――。
『あんまり自分で自分の事を悪く言わないで』
諏訪先輩に言われた言葉が、脳裏を過った。
「あ……そっか……」
俺は、ハッと気づいた。
あの時、先輩に言われたにも関わらず、ついさっき、同じ事をしてしまっていた事に……。
「……やっぱり、忘れてたのね」
「……すみません」
「ま……しょうがないわよね」
意外な事に、つい十日ほど前に、俺が自分の忠告をあっさりと忘れていた事を、諏訪先輩は怒らなかった。
「好きな人に、きちんと正面から向き合って、しっかりと想いを伝えて……それが報われなかったんだから、頭の中がグシャグシャになっちゃうわよね……」
「……すみません」
俺は、諏訪先輩の優しい言葉に、思わずこみ上げてくるものを感じて、歯を食い縛る。だから、そう答えるのが精一杯だった。
「でも……私は、高坂くんのそういう所も、取り柄のひとつだと思うわ」
「え……?」
「――そこまで、他人の事を真っ直ぐに好きになれて、それに逃げないでぶつかれる勇気を持っている事よ」
「……取り柄、なんですかねぇ? それって……」
俺は、思わず苦笑いを浮かべた。
だが、諏訪先輩は真剣な表情で力強く頷いた。
「取り柄よ。……人を好きになる事はあっても、その気持ちを誤魔化したり蓋をして、正面からぶつかれない人も多いのよ。――みたいに……」
「え……?」
諏訪先輩の言葉の語尾は、急に声が小さくなったせいで聞き取れなかった。
――と、俺の声には応えず、突然先輩は立ち上がった。そして、満天の夜空を振り仰ぐと、俺に背を向けたまま、言葉を継ぐ。
「……高坂くん、言ってたわよね? 気持ちを封印してしまったら、いつまでもそこで囚われ続ける事になって、地縛霊みたいになっちゃう――って」
「え? あ、ああ……さっきの、プロットの話ですか」
俺は、数時間前に、ミックジャガルドで先輩と交わした会話を思い出した。そして、キョトンとして首を捻る。
「まあ……確かに言いましたけど、何で今、その話――」
「それって……自分の事も踏まえての意見よね?」
「あ……ま、まあ……そうっすね……」
話の筋が見えずに、戸惑いながらもとりあえず頷く俺。
すると、背中越しに、諏訪先輩も首を縦に振るのが見えた。
「……私も、地縛霊にはなりたくないな……」
「……え?」
「……見て」
諏訪先輩は、俺が訊き返した声には応えず、夜空に向かって指を伸ばした。
「――綺麗ね」
「え……?」
先輩の声に促され、俺は彼女の指の先に目を遣る。
そこには、煌々と冴えた光を放つ月が、ぽっかりと浮かんでいた。
二転三転する話の流れに戸惑いながらも、俺は取り敢えず頷いてみる。
「え、ええ……冬だから空気も澄んでて……キレイですね、月」
「……」
「……え、えと、それが……?」
「……高坂くん」
背を向けたまま、俺の名を呼ぶ先輩の声色に、どことなく冷たいものを感じた俺は、思わず背筋を伸ばし、身体を硬直させて、そして、恐る恐る返事をする。
「あ……、ハイ……」
「あなた、何部だったかしら?」
「……へ?」
奇妙な質問に、俺は呆気にとられる。
――何を言ってるんだ、先輩は……?
「ええと……そりゃもちろん、せ、先輩と同じ文芸部……ですけど……」
「……そうよね」
背中越しに、先輩が大きな溜息を吐いたのが分かった。……何でか分からないけど、あからさまにガッカリされたっぽい……?
――すると、先輩がクルリと振り返った。
「……じゃあ」
先輩は、いつもと同じような無表情で、静かに言葉を紡ぐ。
「……夏目漱石って知ってるよね?」
「え……? ええ……そりゃ、まあ……」
『もちろん知ってますよ』――そう口に出しかけて、俺は妙なデジャヴを感じ、口ごもった。
あれ? そういえば……何か、前にも似たような事があったような……。
月……。
キレイ……。
夏目漱石……っ!
「えッ――?」
「……遅いわよ、バカ」
連想の結果、とある事に思い到った俺は、目を飛び出さんばかりに見開き、驚きの表情を浮かべた。
そんな俺の顔を、諏訪先輩はジト目で睨みつける。
が、フッと表情を和らげると、俺の目をジッと見つめた。
そして、顔を真っ赤にしながら、その言葉を口にする。
――噛みしめる様に、ゆっくりと。
「――月が、綺麗ですね」