Moon Light Loser
……気まずい。
「……」
「……」
公園のベンチに、微妙な間隔を空けて座った俺と諏訪先輩だったが、ふたりの間には、重たい沈黙が澱のように積もりつつある。
俺は、目だけを動かして、右側に座る諏訪先輩を盗み見るが、彼女は顔をやや俯かせ、虚ろな目を前に向けているばかりで、まるで石像にでもなったかのように動かない。
ひゅ~……
高い笛のような音を立てて、一陣の冬風が俺たちの間を横切る。
「う……さ、寒っ!」
冷風――いや、もはや“凍風”と言った方が相応しい――によって物理的にも凍りついた、この場の空気に居たたまれなくなった俺は、掌中にある缶コーヒーの存在を思い出し、すっかり悴んで感覚の失せた指先に苦労させられながら、やっとの思いでプルタブを上げる。
――カシュッ
乾いた音を立てて、缶の口が開き、仄かな湯気と、コーヒーの香ばしい香りが漂う。
熱い飲み物は苦手な俺だったが、厳しい寒気に晒された缶の中身は、ちょうどいい感じに冷めていた。これなら、息を吹きかけて冷ます必要も無いと判断した俺は、缶の縁に口をつけ、ぐびりと一口呷る。
冷え切った口の中に温かいコーヒーが満ち、その苦みとミルクのまろやかさ、そして甘味料の甘さが、舌の上に広がった。
「……ふぅ」
缶から唇を離し、小さく息を吐いた俺の耳に、カシュッという音が届く。
ちらりと横を見ると、諏訪先輩が俺と同じように、コーヒー缶に口をつけていた。
「……ふぅ」
「……」
「……どうしたの?」
「あ……いや。――何でもないっす……」
俺の視線に気付いた諏訪先輩に尋ねられ、無意識に彼女の横顔をぼーっと見つめていた俺は、慌てて目を逸らす。
そして、何とか間を保たせる為、もう一口コーヒーを啜ろうと、缶を口元に付けた――その時、
「――高坂くん」
「ふぁ、ふぁぃいっ!」
突然諏訪先輩に声を掛けられ、思わず半ば口に含んだコーヒーを噴き出した。
「な? な……何でしょう?」
手の甲で口元を拭いながら聞き返した俺は、顔を先輩の方に向けた。
諏訪先輩は、相変わらず白い顔をして、じっと前を向いたまま、数メートル前の地面に目を落としている。
と、その唇がゆっくりと動いた。
「――あれから、まだ連絡は来ないの? ……早瀬さんから」
「……っ」
諏訪先輩の口から出たその名は、俺の心臓を一瞬止めた。
「……」
俺は、先輩の問いかけにすぐには答えず、気を取り直すようにコーヒーを啜ると、小さく息を吐く。
そして、表情筋を叱咤して顔面に微笑みを貼りつけると、静かに首を縦に振った。
「……はい。結局、あれからも、早瀬から返信は来てないですね……はは」
「そう……」
俺の答えを聞いた諏訪先輩は、何とも言えない表情を浮かべながら、小さく頷いた。
そして、自分もコーヒーに口をつけて、ふと顔を上げ、空に向けた。
「……」
諏訪先輩の仕草につられて、俺も空を仰いだ。
――1月の透き通った夜空と、そのあちこちで瞬く無数の星。そして、その中でひときわ大きく黄色い光を放つ月が、何も言わずに俺たちを見下ろしている。
「――で、どうするの?」
「……え?」
星と月に目を奪われた俺だったが、諏訪先輩の言葉を耳にして、驚いて視線を戻した。
相変わらず空を見上げたままの先輩の横顔に、俺は訊き返す。
「えと……ど、『どうするの?』って、どういう――」
「――早瀬さんの事、諦めるの? それとも……まだ、頑張る?」
「……」
俺は先輩の問いに息を呑むと、無言のまま、もう一度夜空に目を向ける。
……別に、夜空を見たかった訳じゃない。そのままだったら、目尻から何かが滴り落ちそうだったからだ。
と、俺の脳裏に、早瀬と過ごした時の様々な記憶が、まるで走馬灯のようにリバイバル上映される。
――学校のA階段で、早瀬と初めて言葉を交わした日の事。
――学校裏手の駐輪場で、更なる勘違いをされてしまった時の事。
――アニメィトリックス栗立店で、生き生きとしてBL誌を物色する早瀬の顔。
――文芸部の部室で泣きじゃくる早瀬の泣き顔。
――映画館で、スクリーンの光に照らし出された早瀬の横顔。
――お化け屋敷で、怖がって俺の手をギュッと握りしめた時の早瀬の怯え顔。
――そして、観覧車のゴンドラで、打ち上がる花火に照らし出された早瀬の――、
『……ごめんなさい……』
「――くッ……!」
あの時、彼女の口から紡がれたあの声が脳内に響いた瞬間、俺の涙腺はバグる。
「……ッ」
だが、歯を食いしばり、目尻から涙が零れるのを、必死に堪える。
その懸命の努力は実を結び、どうやら不様な泣き顔を晒す事は免れた。
何とか感情の峠を越えたが、油断したら何かが溢れてしまう……。
そう考えた俺は、そのまま上を向いたまま、しきりに目を瞬かせつつ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……本音は、頑張り――たいですけど……。あれだけハッキリと断られたら……諦めるしか……ないっすよね……」
「……」
俺の言葉に対して、諏訪先輩からの返事や相槌は聞こえてこなかったが、彼女が聞いていようがいまいが、もう関係なかった。
俺は、もう一口コーヒーを口に含むと、まるで独白するかのように、頭に浮かんだ言葉を舌に乗せていく。
「……そうですよね。『ごめんなさい』って言われたら、どうしようもないですもんね! こんな俺みたいな陰キャがこれ以上足掻いたって、もうどうしようもないし、早瀬も迷惑でしょうしね!」
「……」
「もう、スッパリと諦めて、彼女には近付かないようにしますよ! 下手したら、根暗なストーカー扱いされそうですしね、ははは……」
……ああ、駄目だ。
さっきは何とか耐え切ったけど、また、俺の目尻のダムが決壊しちまいそうだ。
俺は、目を頻りに瞬かせて、何とか涙を目の奥に仕舞いこもうとしながら、更に言葉を吐き散らし続ける。
「……そもそも、身の程知らずだったんですよね。俺みたいな地味で暗くて人付き合いの苦手な、何の取り柄も無い奴なんかが、学年のアイドル的存在な早瀬と付き合いたいだなんて……。ホント、烏滸がましいっていうレベルじゃない――」
「……そんな事、ないわよ!」
「……え?」
突然、言葉を遮るように耳元で響いてきた諏訪先輩の声に、俺は驚いて横を向いた。
「わ――っ?」
そして、驚くほどの近さに、諏訪先輩の白い顔があって、思わず仰け反る。
「ちょ! い……いつの間に? ――っていうか、ち、近いっ――」
「高坂くん」
ビックリして声を裏返し、咄嗟に彼女から距離を取ろうとした俺だったが、諏訪先輩の真剣な声色を聞いて、その動きを止めた。
彼女は、眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせながら、じっと俺の顔を覗き込んでくる。
「せ……先輩……?」
「高坂くん。あなたに、何の取り柄も無いなんて事……無いわよ!」
「……っ」
その真っ直ぐな眼差しを前に、俺はたじろぐ。
――気が付いたら、俺の手の上に、先輩の手が重ねられていた。
こんな寒空の下にずっと居たにも関わらず……、
先輩の手は、熱かった。