夜に帰る
「あの……もう、大丈夫っすよ、先輩?」
駅へと向かう、街灯でぼんやりと照らし出された夜道を歩きながら、俺は隣を歩く諏訪先輩に、おずおずと言った。
すると、諏訪先輩は、黒縁眼鏡の奥の目だけを俺に向けて、
「そんな訳にはいかないわよ。……せっかく、私の為にここまで来てくれた高坂くんを、一人で帰したとか言ったら、リュウに怒られちゃうもの」
と、無表情に言った。
それを聞いた俺は、思わず口元を緩めた。
「あぁ……リュウガ君にですか……。確かに、そんな感じですね……」
「……」
◆ ◆ ◆ ◆
――あの後、地味な風呂上がりのラフなパジャマ姿から、地味な普段着に着替えた諏訪先輩に、ようやく『Sラン勇者と幼子魔王』に、のべらぶ大賞エントリータグが付いていない事を伝える事が出来た。
先輩は、何故か気乗りしない様子だったが、俺の言葉にしぶしぶ頷いて自室に戻り、タブレットでタグを付けた。
俺は、自分のスマホからのべらぶにログインし、『Sラン勇者と幼子魔王』に『第8回ノベルライブラリ小説大賞』タグがちゃんとついた事を確認し、胸を撫で下ろしながら、速やかに諏訪家を去ろうとした。
何故なら……たいがくんの「ねえちゃんとおにいちゃんって、いつけっこんするのー?」発言以降、俺を見る先輩のお父さんの目が、明らかに剣呑さを増していたからだ。
某特攻マンガのように、『ビキ、ビキィ』という効果音が聞こえてきそうな、お父さんのメンチ切りを前に、俺はすっかり縮み上がり、目的を達成した以上は一刻も早くこの場から退散しようと玄関で靴を履き、お別れの挨拶をしようとした……のだが、
「姉ちゃん、せっかく大事な事を報せに、わざわざウチまで来てくれたんだから、駅まで送っていってあげなよ」
という、リュウガくんの余計過ぎる一言で、空気が変わった。
リュウガくんがそう言った瞬間、彼の後ろに立っていたお父さんの眉間に、マリアナ海溝よりも深い皺が刻まれるのを見た俺は、途端に背筋に冷や汗が噴き出すのを感じた。
「あ……いや、大丈夫っす! お、お構いなく! もう遅いし……大晦日だし……俺、男だから!」
と、慌てて両手と頭を激しく振って、震える声を張り上げ、懸命に断ろうとする俺だったが、
「……そうね。じゃあ、是非とも駅まで送らせてもらうわ、高坂くん」
明らかにムッとした顔をした諏訪先輩が、玄関脇にかけられていた茶色いコートに袖を通し始める。
その後ろで、飛び出さんばかりに目を剥いているお父さんの形相に、内心で震え上がりながら、俺は激しく頭を振り、
「い……いや、いいですって! ほ、ほら、外寒いし! 先輩は風呂上がりですし……風邪ひいちゃいますから、ど……どうぞ、お気遣いなく!」
と、何とかもっともらしい理由を付けて、断固として断ろうとする。
俺の言葉に、お父さんもパッと顔を輝かせた。
「そ……そうだぞ香澄! ここは、高坂くんの言う通り、ここで見送りする事にして――」
「……じゃ、行きましょ、高坂くん」
だが、諏訪先輩は、俺の言葉もお父さんの言葉も、まるで聞こえていないかのようにあっさりと無視すると、俺の横をすり抜けて、ドアの外に出て行ってしまった。
「あ……! ちょ、ちょっと! す、諏訪先輩? ま……待って――」
置いてかれた格好の俺は、先輩の背中に叫ぶが、先輩は振り返りもせずに、颯爽とマンションの廊下を歩いていく。
……あぁ、コレはアカンやつだ。こうなった諏訪先輩は、何を言っても聞く耳を持たなくなる……。
俺は諦めの溜息を吐くと、玄関に向かって深々とお辞儀をする。
「……あ、ご、ごちそうさまでした! よ……よいお年を!」
「ばいばーい、おにいちゃん! またきてねぇ!」
「…………良いお年を……」
俺の挨拶に、朗らかに手を振る無邪気なたいがくんと、スキンヘッドに青筋を走らせたお父さん。
――そして、ふたりの横で、
「おやすみなさい。――姉ちゃんをよろしく」
そう言って、意味ありげに片目を瞑ってみせたリュウガくんの表情に、俺は奇妙な既視感を感じつつ、そっとドアを閉めたのだった……。
◆ ◆ ◆ ◆
「……つうか、何だよ、『よろしく』って? 何をよろしくしろっつうんだよ……?」
「え……何か言った?」
「あ……い、いえ……ひ、ひとりごとです……」
俺の呟きを聞き咎めて、怪訝そうに声をかけてきた諏訪先輩に向けて、慌てて頭を振る。
と、
「……ごめんね」
「――え?」
突然の謝罪の言葉に、俺は驚いて隣を見る。
顔はまっすぐ前を向けたまま、諏訪先輩はぽつりぽつりと言葉を零した。
「ごめんね、高坂くん……。私なんかの小説の為に、わざわざウチまで来てくれて……」
「い、いやぁ……」
「――さっき、のべらぶにログインした時に気付いたけど、高坂くん、わざわざメッセージまで送ってくれてたのね。……気付かなくって、ごめんね」
「あ……い、いえ……れ、礼を言われるほどでは……」
諏訪先輩が口にしたお礼の言葉に、俺は戸惑いながら首を横に振る。
「その……の、のべらぶ大賞の話は、俺も関わってますし……。『Sラン勇者』は、のべらぶ大賞に出せば、絶対に賞を取れる作品だと確信してるんで、タグを付け忘れてエントリーできないとか、ホントにもったいないなぁ、って思ったんで……」
「……ありがと」
俺の言葉に、先輩はコクンと小さく頷いた。
「……」
「……」
しまった。話が途切れた……。
街灯の白い光が、スポットライトのように行く先を照らす道で、俺は途方に暮れる。
このまま駅まで無言で歩くのは気まずい……。何とか場を繋ぐような話題を――。
と、俺の灰色の脳細胞に、稲妻が閃いた。
「そ、そういえば!」
気が付いたら、俺は声を上げていた。その勢いのまま、先輩の家を訪れてから一番気になっていた事を舌に乗せる。
「せ……先輩のお父さん、すごい迫力っすよね! ……どこの組の方なんですかッ?」
「……え?」
「……あ」
一瞬の間の後、自分が何を口走ったのかに気が付いた俺は、顔面からサーっと血の気が引いていくのが分かった。
と……咄嗟とはいえ、なんて事を口走っちまったんだ、俺は――!
諏訪先輩は、キョトンとした顔を俺に向けている。
そんな彼女に向け、俺は慌てて言い繕おうと、口を動かす。
「あ――え、ええと……! い、今のはナシ! き……聞かなかった事にして下さい! くれぐれも……組長……じゃなくて、お、お父さんにはご内密に――」
「……どこの組……」
慌てふためく俺をよそに、諏訪先輩は顎に手を当て、視線を宙に舞わせながら考え込んでいた。
そして、小首を傾げると、自信無さげに口を開く。
「ええと……確か――」
「あ! だ、だから、それはもういいですって――」
「確か……1年A組だったかしら……?」
「…………はい?」




