一杯の年越しそば
……狭いリビングの角に置かれたテレビから、ベテラン演歌歌手のこぶしの効いた歌声が聴こえてくる。
「……」
「……」
……き、気まずい。
俺は、正に針の筵の上に座らされたような気分で、温かいこたつに足を突っ込みつつ、冷たいものを背中に感じながら、ただただ身体を硬直させていた。
「……」
その原因である、スキンヘッドの強面オッサン――こんな見た目で諏訪先輩のお父さん――は、こたつの上の網籠から取ったミカンの皮を無表情で剥きながら、無言のままテレビ画面を眺めている。
「……」
「……」
……息が詰まる。
お父さんの勧めに応じて、諏訪先輩の家に上がり込んだ俺だったが、頼みの綱だった諏訪先輩の弟ふたりは、俺に年越しそばを振る舞う為に、さっさと台所の方に行ってしまった。
それから10分以上、俺はお父さんと二人きりにされたまま放置され、その間ずっと、息苦しい沈黙が続いている……。
「……」
「……」
人付き合いが苦手な陰キャである俺は、こういう時にどういう話題を切り出して時間を繋げればいいのか分からない。
招き入れたのはお父さんの方なんだから、向こうの方から気を使って、「もう今年も終わりだねぇ」とか「寒いねえ」とか「このアイドル、歌が下手クソだねえ」とか切り出してくれればいいものを、さっきからお父さんはずっとこの調子で、一心不乱にミカンを剥き続けている……。
「……」
さっきまで、身体の芯まで冷えていたのに、今では脇の下がぐっしょりと、嫌な汗で濡れているのを感じる……。
――と、
「おまちどおさま~」
台所に繋がるドアが開き、丼を載せたお盆を抱えるように持ったたいがくんが現れた。
たいがくんは、慎重にお盆を運び、こたつに座る俺の前に置く。
「あー、おもかったぁ!」
と、手をぷらぷらと振りながら、たいがくんは屈託のない笑顔を見せる。――うわ何この子超可愛い。
ウチのクソ生意気な妹とは段違い……いや、羽海も昔はこの位可愛かったんだよなぁ。何で今はあんな風になっちゃったんだ……。
と、些か感慨に浸ってしまった俺に向け、たいがくんが元気に言った。
「どうぞ、おにいちゃん! めんがのびちゃうから、早く食べて~」
「あ……は、はい……ありがとうね」
俺が、たいがくんにお礼を述べると、彼は「えへへ~」とはにかみ笑いを浮かべる。いや、マジで何なの、この可愛いを体現せし天使。
「――あ、七味もありますけど、要ります?」
たいがくんの後に続いて、布巾で手を拭いながら、先輩の上の弟が顔を出した。
俺は慌てて首を横に振る。
「あ、だ、大丈夫……です。俺、七味使わないんで……」
「そっすか」
「……訊いてくれてありがとうね。――ええと……」
「あ、僕は龍我です。ええと……」
「あ……お、俺は、高坂晄です。あ、あの――リュウガくん」
「……ども」
リュウガくんは、俺に軽く会釈すると、またすぐ台所に引っ込んでいった。
「……」
素っ気ない態度に、俺は少し呆気に取られたが、すぐに気を取り直し、お盆の上に置かれた箸を取り、黒いめんつゆに浸かったソバを数本摘まみ上げる。
めんつゆの香りが鼻腔をくすぐり、俺はやにわに空腹感を覚えた。
……そういえば、諏訪先輩の住所を確認してから、すぐに家を飛び出してここに来たから、まだ晩飯を食べてなかったんだっけ……俺。
「あ、あの……それじゃ、いただきます」
俺は、お父さんとたいがくんに向かってペコリと頭を下げると、摘まみ上げたソバに息を吹きかけ、一気に啜り上げ――、
「……美味しい!」
思わず感嘆の声を上げた。
ソバの一本一本にめんつゆが程よく絡み、ソバの風味を殺さない程度に、だしの味を主張している。
俺が上げた声に、たいがくんが嬉しそうな表情を浮かべた。
「おいしいでしょー? このおそば、ねえちゃんが作ったんだよ!」
「あ……そうなんだ。――うん、普通に美味い……」
「……『普通に美味い』――だって?」
ソバの美味しさに、俺が思わず漏らした感想を聞いたお父さんの太い眉が、ピクリと上がった。
そして、テレビを見ていた目を、ぎろりと俺に向ける。
こ――怖えっ!
「……んがぐぐっ!」
俺は、思わずソバを喉に詰まらせ、激しく噎せる。
――そんな俺に向けられたお父さんの目は血走り、ギラギラと輝いていた。
――や、殺られる――ッ!
その目に睨み据えられた俺は、死を覚悟した。
と、誇張無しで震え上がる俺に目を据えたまま、お父さんは静かに口を開いた。
「君……高坂くんと言ったかな?」
「ひゃ、ひゃいぃっ! こ……高坂晄15歳! た、誕生日は3月3日の魚座でふっ!」
「……別に、誕生日までは聞いてないんだが……」
「ひゃ、ひゃいぃ! 誠に大変申し訳御座候であります!」
俺は、背筋をピンと伸ばして、半泣き顔で叫んだ。
お父さんは、怪訝な表情を浮かべながらも、剥いたミカンを一房、口に放り込み、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「……その年越しそばはね。香澄がイチから出汁を取って味付けをしたつゆを使っているんだよ。――それだけじゃない、上に乗っているかき揚げも、出来合いのものではなくて、全部香澄が揚げたものなんだよ」
「あ……そ、そうなんですか? へ、へえ~……」
お父さんが、何を言わんとしているのか掴めず、俺は頭の上にクエスチョンマークを浮かせながらも、取り敢えず頷いてみた。
――と、お父さんが、俺の前で湯気を立てている年越しそばを指さして言った。
「で……君は、香澄が丹精込めて作ったこのソバを、『普通に美味い』と評価したのだね? ……香澄がイチから手作りした、このソバを――」
「あ――!」
俺は、ようやくお父さんが言わんとしている事を理解して、思わず声を上げた。
そして、慌てて口を開く。
「あ……いえ! や、やっぱり――普通に美味いどころじゃなかったっす! め……メチャクチャう……美味いっす! ほ……ホントに美味しい! お店のソバぐら……い、いえ! お店のソバよりもずっと……心が籠もっていて――美味しいですッ!」
「……本当に、そう思うかね?」
お父さんが、探るような目で俺を見つめながら、念を押してくる。
俺は、パンクバンドのドラマーも斯くやという高速ヘッドバンギングをしながら、必死で声を張り上げた。
「は――ハイッ! ほ、ホントマジで最ッ高に美味いっす! お……大平市民、嘘ツカナーイ!」
「おお! そうだろうそうだろう!」
俺が、怪しげなハイテンションでソバを絶賛した途端、お父さんの顔が綻ぶ。
と、突然腕を伸ばし、怯える俺の肩をバンバンと乱暴にぶっ叩いた。
「美味いだろぉ、ウチの娘の作るソバは! いや、ソバだけじゃないぞぉ! 香澄の作るモンは何でも美味いんだ!」
「は、はぁ……」
肩の痛みに顔を顰めながら、俺は戸惑いがちに頷く。
お父さんは、さっきまでの無表情とは打って変わった満面の笑顔で、俺に頷き返しながら言った。
「いやぁ~、香澄の料理の味が分かるとは、君はなかなか見所のある男じゃないか! さあ! そばが延びてしまうから、早く食べなさい! おかわりもあるぞ!」
「あ……は、はい……!」
俺は、お父さんのキャラの変貌ぶりに若干引きつつも、引き攣り笑いを浮かべながら頷き、ソバを箸で掬って、一口啜った。
「――どうかい? 美味いかい?」
「あ……は、ハイ! う……美味いっす!」
「そうか、美味いかぁっ! ほら、高坂クン、このかき揚げも食べてみなさい! 揚げたてではないが、少しつゆに浸けたら美味しいぞ!」
「あ……は、はい」
さっきまでの無言っぷりが嘘のように捲し立てるお父さんに辟易しつつ、俺は言われるままにかき揚げをつゆに沈めてみる。――つか、お父さん、さっきから顔が近いんですけどぉ! その893フェイスでグイグイ来るの……ちょっとキツ――!
――ガタン
「……ん?」
その時、リビングのドアが音を立てた。
その音に、俺は思わず振り向き――、
「……え? う……ウソ……? な……何で、高坂くんが……ウチに?」
半開きになったドアの前で、呆然として立ち尽くしている諏訪先輩と目が合ったのだった――。