静かなるオトン
「う……ぉ……!」
てっきり、インターホンの向こうで聞こえた声から、元気な小さい男の子が出てくるものだと思い込んでいた俺は、それとは全く想定外の、恰幅のいい強面の男が出てきた事に混乱して、思わず呻き声を上げる。
「……どなた?」
そんな俺を前に、男は眉間に皺を寄せて誰何した。
「ひ――!」
その鋭い視線に射竦められ、俺の色んな所が縮み上がる。
――ヤバい……! とにかく、俺が怪しい者じゃないって事を説明しないと――!
混乱する頭でそう考えた俺は、縺れる舌を懸命に動かそうと苦労する。
「あ……あの……! あ、アナタ、どど、どちらさんですか!」
「……は?」
俺のトンチンカンな問いかけに、ドスの効いたような低い男の声のトーンが、訝しげに上がる。
っていうか、いきなり何を訊いているんだ、俺は?
家の中から出てきた人なんだから、家の人に決まっている。
そんな、当たり前の事を改まって訊かれた男が、俺の事を不審に思わないはずがない。
「……何言ってんだ、君……?」
「あ……いえ……そ、その……」
明らかに、俺に対する不審感を増したと解る相手の態度の変化に、俺は更に震え上がり、目をキョロキョロさせながら、声を裏返らせながら言葉を継いだ。
「あ! す、スミマセン! ちょ、ちょっと、インターホン越しの声とのギャップにビックリしちゃって……。せ、先輩――香澄さんの弟さんにしては、随分老けた……あ、いや……立派なお顔をしてるなぁ……って」
「……はぁっ?」
あ、ヤバい。男の眉の皺が、より一層深くなった。
「おれが……香澄の――弟だと?」
「あ……ち、違……違いますよね、やっぱり……」
「……当たり前だろが」
男の、静かな中にも苛立ちがありありと感じ取れる声に、俺は更に縮み上がる。
「じゃ、じゃあ……」
「おれは、香澄の父親だよ。……他の何に見えるって言うんだ、君?」
「あわわ……で、ですよねえ~」
「……」
これ以上無い顰め面で、俺を見下ろす男――諏訪先輩のお父さん。俺は、サーッと顔が青ざめるのを感じながら、コッソリと諏訪先輩の父親を名乗るオッサンの顔を盗み見た。
――蛍光灯の白光を反射して、眩しく光るスキンヘッドに、黒々とした顎髭。人の二・三人は山奥に埋めたり、コンクリ抱かせて海に沈めてそうな鋭い目に、恰幅の良い体つきで、少し着古した灰色のトレーナーを着た外見――。
……どこからどう見ても、そういう筋――俗に言う“道を極めた”系のヒトにしか見えない。
――ああ、やっちまった。オワタわ、俺……。
俺は今更ながらに、後先考えずに諏訪先輩の家を訪問するという真似をしてしまった自分の軽薄さを呪った。
まさか……諏訪先輩が、ソッチ系の生業のお家の方だとは、予想だにしなかったよ……。
……だが、ここまで来て、引き返す訳にもいかない。
俺は、ゴクリと唾を呑み込むと、意を決して口を開いた。
「あ……あの! お……僕は、高坂って言います! 諏訪先輩――か、香澄さんの後輩でして……、ちょっと、伝えたい事があって、き――来ました!」
「……」
「お、大晦日に押しかけて、ホントスミマセン! で、でも……先輩――香澄さんにとって大切な事でして……! つ……伝えたら、すぐに帰りますので、先輩がいらっしゃったら、出てきて頂ければ……と」
「……お――」
「ねえちゃんですかー?」
先輩のお父さんが、何か言おうと口を開きかけた時、その背後から無邪気な声が聞こえた。
と、小学二年生くらいの男の子が、お父さんの後ろからひょこっと顔を出した。――多分、さっきインターホン越しに声を交わした、二人の弟のうちのひとりだろう。
男の子は、ニコリと笑うと、俺に向かってペコリと頭を下げた。
「こんばんはー! ボク、たいがって言います!」
「あ……こ、こんばんは……たいがくん」
屈託のない笑顔に、俺は意表を衝かれて、赤べこのようにヘコヘコと頭を下げ返す。
すると――たいがくんは、クリクリした目を輝かせて、俺に尋ねてきた。
「ねえねえ、おにーさん、ねえちゃんに会いに来たのー?」
「あ……う、うん。そうなんだ」
たいがくんの問いかけに、俺は戸惑いつつ、大きく頷く。
と、たいがくんはちょこんと首を傾げながら言った。
「ごめんねー。ねえちゃん、今お風呂に入ってるから、すぐに出れないのー」
「お――お風呂――だってッ?」
たいがくんの言葉に、思わず俺の心臓は跳ね上がった。
反射的に、耳を澄ませる。
部屋の奥から、それらしい水音が聴こえたような、聴こえないような……。
でも、
すぐ近くで、自分のよく知る女の人が一糸纏わぬ姿で居る――その事実を意識し、思わず想像してしまった瞬間から、俺の心臓は軽快な8ビートを刻み始める。
「……」
――あ、やべぇ。目の前で、お父さんが鬼のような形相で俺の事を睨んでいる。……俺が何を思い浮かべているのか、完全にバレてる顔だ、コレ……。
「あ……そ、そうなんだぁ……」
俺は、お父さんの殺気が籠もった視線から目を背けつつ、顔を引き攣らせた。
さて、困った……。諏訪先輩が風呂から出るまで、ここで突っ立ってる訳にもいかないし――。
――と、その時、部屋の奥から三人目の声が聞こえてきた。
「……もし良かったら、姉ちゃんが風呂から上がるまで、居間で待ってます? そこじゃ寒いし」
そう言いながら、部屋の奥から顔を出してきたのは、小学校高学年くらいの男の子だった。
「姉ちゃん、そんなに長風呂じゃないから、すぐに上がってくると思いますけど……」
「え? あ……ええと、それはちょっと……」
しっかりとした口調で喋る少年の提案に、俺は戸惑いの表情を浮かべて口ごもった。
さすがに、先輩の家に上がり込んで、その風呂上がりを待つというのには抵抗を覚えた。――というか、素直そうな先輩の弟さん達はともかく、この893ヅラのお父さんといっしょの部屋に居なければいけない事が、かなり……。
と、俺が躊躇するのを見た男の子が、更に言葉を重ねてくる。
「じゃあ……、伝えたい事っていうのを、姉ちゃんに言っときますよ。――何を伝えればいいんです?」
「あ……え、ええと……」
男の子の言葉に、俺は更に躊躇った。
俺が伝えたいのは、「『Sラン勇者と幼子魔王』に、“のべらぶ大賞”のタグを付けて下さい」だけである。伝言で済む内容といえば済む内容なのだが、先輩が、のべらぶに小説を投稿しているという事を家族に隠している可能性もあり、迂闊に伝えるのも憚られた。
どうすれば正解なのか……迷う。
「ど……どうしようかな……ええと……」
俺は、頬に手を当て、頻りに考え込んでいたが、
「……ぶ、ぶえっきゅしゅっ!」
真冬のマンションの廊下に長時間立っていた為に、すっかり身体が冷えてしまい、思わず大きなくしゃみをしてしまった。
俺は、思い切り鼻を啜り、正面に目を戻し――
「……あ」
お父さんのスキンヘッドが、俺の吹きかけた唾と鼻水でテラテラと光っているのを目にして……死を確信した。
――ああ、アム○、刻が見える――!
「あ……ご、ごめんなさい! スミマセン! アイムソーリーッ!」
俺は、顔面蒼白で、くしゃっと顔を顰めたお父さんに向かって、土下座せんばかりに平謝りする。
――と、そんな俺を前に、相変わらず黙ったままのお父さんだったが、バァン! と大きな音を立てて、玄関のドアを全開にした。
その音と勢いに、すっかりビビった俺は、
「ご! ごめんなさい! わざとじゃないんです! お願いだから、東京湾は止めてぇっ!」
迷わず膝をついてDOGEZAしようとするが――、
「……東京湾? 何を言ってるんだ、君は」
キョトンとした顔をしたお父さんは、全開にしたドアを片手で押さえて、俺を手招きしながら言葉を継いだ。
「……まあいい。君、風邪をひくから、早く入りなさい」
「……へ?」
状況が掴めず、呆けた顔をする俺に、お父さんは無表情のまま、部屋の中を指さした。
「だから……香澄が風呂から上がるまで、家の中で待っていなさい。ついでに、年越しそばも食べていけばいいよ。――さあ、どうぞ」
「……」
その、穏やかな中にも有無を言わせぬ響きを持った言葉に、俺は頷くしかなかった――。