BLue~こんな夜には眠れない
――その後の事は、よく覚えていない。
ただ、俺と早瀬は、地上に着くまでゴンドラの中で一言も発することが無かった事と、ゴンドラを降りた俺を出迎えたシュウと諏訪先輩の、事情を察して曇った顔だけは、何となく覚えている。
結局、“遠足”はその場でお開きとなり、諏訪先輩と早瀬とは、北武園ゆうえんち駅で別れた。
俺は、シュウと一緒に電車で揺られて帰路についたが、その電車の中で、シュウは俺に何も言わず、何も訊かなかった。
塞ぎ込んだ俺を気遣ってくれて、ただ黙ったまま、家に帰るまで俺の横に居てくれた。
……本当にいい奴だ。
門の前でシュウと別れて玄関のドアを開けると、三和土の上で、頬を膨らませたハル姉ちゃんと羽海が、仁王立ちして俺を待ち構えていた。
「ひーちゃん! あなた、どうしてLANE見ないの……よ……」
「おい、愚兄ッ! よくもクリスマスイブに、シュウちゃんと遊びに行きやがって! お前の分のクリスマスケーキ、もう無ぇ……から……」
怒髪天を衝く勢いで、俺を詰問しようとしたふたりの声が、何故か消え入るように途中で途切れた。
俺は、無言になったふたりの前で靴を脱ぐと、
「……ああ、俺食欲無いから、ケーキとか別にいいや。……疲れたから、もう寝るわ」
と言い残して、重い足を引きずるようにして、階段を昇る。
「ちょ……ちょっと……何かあったの、ひーちゃん……?」
「ね、ねえ愚け――お兄ちゃん……?」
――何か、背後で心配げに俺を呼ぶ声がしたような気がしたけど……もう、振り返る気力も無かった。
◆ ◆ ◆ ◆
……ゴンドラの窓の外から、遠雷のような花火の音が聴こえてくる。
向かいに座った早瀬は、潤んだ眼を俺に向けて、ゆっくりと、その林檎色した唇を開こうとする。
――止めて。それ以上……言わないでくれ……。
俺は、必死に彼女に懇願するが、喉に何かが詰まったようで、言葉を音声にすることができない。
そうこうしている間に、彼女の口はゆっくりと――まるでスローモーションになったかのように動き、何度も……何十回も聴いた言葉が、俺の鼓膜を打ち据える。
『……ごめんなさい』
「う……うわああああっ!」
俺は絶叫しながら、分厚い布団を跳ねのけた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からず、俺は荒い息を整えながら、キョロキョロと周りを見回す。
そしてようやく、自分が北武園遊園地の大観覧車のゴンドラではなく、自分の部屋のベッドの上に居る事を理解する。
「……夢か」
俺は、大きく溜息を吐くと、すっかり寝ぐせのついた髪の毛を、両掌でガシガシと掻き毟った。
「――つうか、何度目だよ……。あの時の事を夢に見るのは……」
俺は、うんざりとした声で呟く。――何せ、眠りに落ちる度に、あの時の場面が繰り返し、夢としてフラッシュバックされるのだ。その度に跳ね起きるので、いくら寝ても、全く寝た気がしない……。
クリスマスイブの翌日から、俺は高熱を出して寝込んでいた。
前々日から睡眠不足だったのと、殺人的に冷え込んだ早朝の北武園ゆうえんち駅の前を、みんなが来るまでぐるぐると歩きまくっていた事が祟って、タチの悪い風邪ウイルスにやられてしまったらしい。
だから、ここ数日は、ずっとベッドに潜り込んで、高熱にうなされ続けているのだった。
――と、
「――だ、大丈夫? ぐ……お兄……愚兄……?」
ベッドの脇からかけられた小さな声に、俺はハッとして、その声の方に首を向けた。
「あれ……いたのか、羽海……」
そこに居たのは、怯えた顔で縮こまっている羽海だった。
その小さな手に、青い冷却ジェルシートが握られているのを見て、俺は驚きの声を上げる。
「あ……ひょっとして……俺の看病を――?」
「え……いや……そ、そんなんじゃねーし!」
羽海は、そう叫んで顔を真っ赤にしたかと思うと、手に持っていた冷却ジェルシートを、俺の顔面に投げつけた。
至近距離で投げつけられた冷却ジェルシートは、見開いた俺の目にジャストミートする。
「ぐ……ぐわぁああああああっ! 目が……目がああああああぁっ!」
キンッキンッに冷え切った冷却ジェルシートが俺の眼球を瞬間冷却し、俺は痛いやら冷たいやらで、目を押さえながら布団の上でのたうち回った。
「あ……! ご……ゴメン、愚兄! だ……大丈夫……?」
悶絶する俺の横で、オロオロしながら右往左往する羽海。
「はぁ……はぁ……な、なんとか……」
俺は、目に涙をいっぱいに溜めながら、狼狽える妹を安心させようと頷いた。
「そ、そう……良かったぁ……」
羽海は、俺の返事にホッとした表情を浮かべるが、すぐにハッとすると、慌てて頬を膨らませる。
「も、もうっ! い……いちいち大袈裟なんだよ! この愚兄ッ!」
そう叫ぶと、落ちていた冷却ジェルシートを手に取り、粘着面のビニールを剥がすと、バチーンと音を立てさせながら、俺の額に思い切り貼りつけた。
「痛いッ! おま……、俺は病人だぞぉっ!」
「うっさい! もう、3日も寝てるんだから、大分熱も下がってるでしょ! 早く治さないと、寝込んだままで年が明けちゃうよッ!」
羽海に怒鳴り返され、初めて気が付いた。――そういえば、確かに今は、何となく体が楽になっている……気がする。
そして、自分のパジャマが、寝汗でぐっしょりと濡れている事にも気が付いた。
「うわ……気持ち悪……」
「……パジャマ、着替えた方がいいんじゃない? ついでに、お風呂にでも入ってきなよ」
「……何か、今日は妙に優しいな、羽海――」
「う、うっさい! やっぱ、熱上がりまくって、茹でダコみたいになって死ん……じゃなくて、ずっと寝込んでろっ、この愚兄!」
自分の方こそ、茹でダコみたいに顔を真っ赤にして、羽海は怒鳴った。――でも、そう憎まれ口を叩きながらも、部屋のタンスを開けて、新しいパジャマを出してきてくれた。
「……はい! 着替え!」
「お、おお……サンキュ」
俺は、やたらと気を利かせてくる妹に戸惑う。……ここで下手な冗談でも口走ったら、今度はパジャマを顔面にストラックアウトされそうだったから、ここは余計な口は叩かず、素直にパジャマを受け取る。
そして、汗をたっぷりと含んで湿ったパジャマの上着を一気に脱ぐ――
「わ、わぁっ! ちょ、ちょっと! このクソバカ愚兄ッ!」
途端に、羽海が手で顔を覆って、素っ頓狂な声を上げる。
俺は、上着を半分脱ぎかけた体勢で、首を傾げた。
「……何だよ、羽海。急に――」
「“急に”は、お前だッ! 年頃の女の子がいるのに、何フツーに裸になろうとしてんだよ! オメーにはデリカシーってモンが無いのかよッ!」
「……いや、俺たち兄妹だから別に……。っつーか、“年頃の女の子”なんて、この部屋のどこに存在し――」
「死ねッ!」
「ぶヴぇらッ!」
般若の如き顔つきで、枕を頭に叩きつけられた俺は、奇声を上げつつ布団の上に顔面を叩きつけられる。
「……まったく! 今、シーツも換えてやるから、ちょっとソコどいて! んで、アタシが居なくなってから、パジャマ着替えて! いいねッ!」
「ら……らじゃ……」
布団に突っ伏したまま、片手を挙げてサムズアップする俺。それを見た羽海は「……ふんっ!」と鼻を鳴らすと、プイっと背を向けた。そして、押し入れの扉を開けて、畳んである換えのシーツを引っ張り出そうとする。
――と、羽海が、怪訝な声を上げた。
「……ん? 何だ、アレ?」
「……え?」
その声に、俺は妹の方を見た。
羽海は、押し入れの中に半身を突っ込むようにしていた。片膝を押し入れの上段に乗せて、その上の方を覗き込んでいる。
「アレって……何かあったか?」
「うん……。衣装ケースの裏っ側に、何か見慣れない紙袋が……」
「紙ぶく――」
押し入れの奥に手を伸ばしながら答えた羽海の言葉に、俺も首を傾げかけ――唐突に思い出した。
――初めて、早瀬といっしょに栗立のアニメィトリックスに行った時に、彼女から「貸してあげるねっ!」と渡されたBL同人誌を、家族にバレない様に押し入れの衣装ケースの裏に隠した事を――!
「ちょ、ちょい待て、羽海ッ! そ……それには触れるなァっ!」
「へ……う、うわあああっ!」
思わず俺が上げた大声に驚いた羽海が、バランスを崩して、押し入れの上段の板から足を踏み外し、床に落ちた。
「わ! だ、大丈夫か、羽海!」
「い……痛つつつ……何よ、いきなり……」
慌ててかけた俺の声に、尻を擦りつつ、羽海は答えた。――良かった。打ったのは尻だけで、頭をぶつけたりはしていないようだ。
俺は、妹の無事にホッと胸を撫で下ろし――その周りに散乱しているものに気が付いた瞬間、呼吸と心音が止まった。
「痛たた……あ、ご、ごめん。紙袋、破けちゃった……って、何……こ……れ……」
羽海の言葉が、途中でフェードアウトするように消えた。
顔を引き攣らせて絶句する妹の視線が、破けた紙袋と、その破れ目から飛び出した数冊の薄い本――艶っぽいふたりの男が、裸で抱き合っている表紙の薄い本に注がれている……。
しかも……よりによってそのうちの一冊は、一番“アッー”な見開きページが御開帳しちゃってる……!
「……」
「ち……違うんだ、羽海! そ、それは……」
茫然とした顔で、床に散らばった薄い本を見下ろす羽海に、俺は慌てて釈明する。
「そ……そんな本が、何故ここにあるのかっていうのは、それはそれは、マリアナ海溝よりも深い事情があって――」
「……つ……けつ……」
「……え?」
俺の言葉も聞こえない様に、虚ろな目を床に向けたままの羽海が呟いた単語に、俺は慌てて首を横に振る。
「い、いや! 確かにケツだけれども! 俺は決して、そっち方面のシュミは――」
「――不潔だァァァァァァァッ!」
「ゲ、ボォオオオオッ!」
俺の見当違いの釈明に、羽海が絶叫しつつ放った渾身のローリングソバットは、俺の鳩尾にスマッシュヒットしたのだった――。
今回のサブタイトルの元ネタは、桑田佳祐の『Blue〜こんな夜には踊れない』からです。
こっそり『BLue』になってるのがミソです(笑)。