眠れる部室の美女
再試に向かったシュウを見送った俺は、愛用の黒いダッフルコートを着ると、自分の席に置いたままだったカバンを肩にかけた。
今日は、昨日の徹夜の事もあるので、諏訪先輩に相談した上で、我が文芸部も他の部活と同様に休みとする予定だったのだが、取り敢えず部室へ向かう事にする。
シュウの再試験は1教科につき45分らしいから、試験の間の休憩時間を挟むとすると、3教科で3時間はかかるだろう。
さすがの俺でも、一般生徒共の奇異の目に晒されながら、3時間も教室の自席に座って待ち続ける忍耐力と図太い神経は無い。
――だから、部室でシュウが試験を終えるのを待つつもりだった。
「あれ……?」
部室棟2階の一番奥――文芸部の部室の前に立ち、鍵穴にキーを挿し込んだ俺は、回した鍵の手応えの無さに首を傾げた。
「開いてんじゃん……。昨日帰る時に、閉め忘れたのかな?」
……昨日は確かに鍵を掛けた記憶があったのだが、実際に開いている事は確かだし、いつもは諏訪先輩が先に来て部室の鍵を開けているので、実はしょっちゅう鍵を閉め忘れている事に、俺自身が気付いていないだけかもしれない。
「まあ、鍵を閉め忘れていたとしても、別に盗られて困るものも無いしなぁ。……次から気をつけよう」
俺は、そう深刻に考える事も無く、一度挿した鍵を抜いて、引き戸を開けて部室に入り――、
「お? おお――ッ?」
無人の筈の薄暗い部室で、パイプ椅子に座り、長机に突っ伏していた黒い影を見つけて、思わず驚きの声を上げて後ずさった。
「だ――誰……っ?」
俺が奇声を上げたにも関わらず、机に顔を伏せたまま微動だにしない人影に、俺は恐る恐る声をかける。
が――、相変わらず人影はピクリとも動かない。
俺は、後ろ手で壁に手を這わせ、照明のスイッチを探り当てると、急いで押した。
天井の古い蛍光灯が、パチパチ……と音を立てながら、まるで喘ぐように明滅し、やがて白い光を放つと、長机と突っ伏す人影を明るく照らし出した。
「――って、す、諏訪先……輩……?」
俺は、安堵と驚きが入り混じった声を上げる。
まさか、諏訪先輩が部室に居るとは、思いもよらなかったからだ。
だって――、
「あ……あれ? 今朝、『徹夜で疲れたから、今日は帰る』って言ってませんでしたっけ、先輩……?」
俺は、相変わらず机に突っ伏したままの先輩の背中に問いかける。――が、俺が声をかけたにも関わらず、諏訪先輩の身体はピクリとも動かない。
「あ……あの……せ、先輩? おーい……」
俺は、反応を示さない諏訪先輩の様子に、急に不安を覚えた。そーっと先輩の横に近付くと、重ねた両腕の上に頭を乗せた格好のまま動かない先輩の顔を覗き込む。
――そして、頬を引き攣らせた。
「――ね、寝てる……?」
――諏訪先輩は、腕を枕にして、眼鏡も外さずに静かな寝息を立てていたのだ。
俺は、思わず拍子抜けすると同時に、
「――っ」
目を瞑り、その形のいい唇を僅かに開けた先輩の寝顔を見て、今朝の彼女の事を思い出した。
『Sラン勇者と幼子魔王』の最終話を書き上げ、感極まって涙を流した俺を、同じ様に泣きながら優しく抱き締めてくれ……そのまま自分が眠ってしまった諏訪先輩の事を。
抱き締められた時に感じた、先輩の体温と、その髪から漂うシャンプーの爽やかな香りを。
そして、何とも言えない弾力を感じた、先輩の――
「って! おいぃぃぃぃっ! な……何を思い出してるんだ、俺ェェッ!」
俺は、やにわに心臓が高鳴るのを感じるや、大慌てで頭を千切れんばかりに横に振る。
と――、
「……くしゅん!」
「わっ!」
諏訪先輩が急にくしゃみをし、俺は驚いて仰け反った。
そして、俺は戦きながら、両手をブンブンと振りながら釈明をする。
「す――スミマセン、諏訪先輩! お……俺は決して、そんなつもりで、その……」
「……すー……すー……」
だが、諏訪先輩は、少し頭の位置を動かしただけで、また安らかな寝息を立て始めた。
俺はホッと胸を撫で下ろし、そして今更、部室がひどく冷えている事に気が付いた。
そりゃそうだ。何せ、今は12月下旬だ。
まだ日が高い時間帯だとはいえ、日当たりの悪いこの部室の温度は、外とそう変わらない。
「もう……先輩、こんな薄着じゃ風邪引きますよ……」
俺は、慌てて羽織っていたコートを脱ぐと、彼女の背中にそっと掛ける。
すると、寝たままの先輩も本能的に寒いと感じていたのか、腕をもぞもぞと動かして、俺のコートを引き寄せて包まった。
そんな先輩の仕草に、俺は思わず苦笑を浮かべる。
「まあ……昨日は徹夜だったから、無理もないか……」
俺はそう呟くと、先輩の隣のパイプ椅子を引いて、腰を下ろした。
天井を見上げて、細く長い息を吐く。
「ふぅ~……ふわぁぁぁあ……」
と、溜息が途中でアクビに代わる。同時に、強烈な眠気が襲いかかってきた。
……そういえば、今朝は先輩との出来事のせいで、すっかり目が冴えてしまい、授業の間でさえもまんじりとも出来なかった事を思い出す。
昨日の朝から丸々一日半近く、俺は起き続けている事になる。
そりゃ、眠くもなるわ……。
「ふ、ふわぁぁぁぁ……」
俺は、口に手を当てて一際大きなアクビをすると、隣の諏訪先輩と同じ様に、机の上に突っ伏した。
制服越しに、冬の冷気に晒されて、氷のように冷たくなった木製の机の感触と、やけに熱っぽい頬の温もりを腕に感じながら、俺は重たい瞼をゆっくりと閉じる。
そしてすぐに、俺の意識は、まるでワイヤーの切れたエレベーターのように、眠りの中へと急降下していったのだった…………Zzz……。