ラッキースケベは突然に
その二日後、今日は金曜日だ。
駐輪場で彼女と話をした時に、「今度、時間が空いてる時に、打ち合わせしようね!」という事を言われたのだが、あれから、早瀬からは何の接触も無い。
まぁ、無理もないか……。彼女の周りには、いつも陽キャ達が群がっている。俺と会う余裕も隙も無いのだろう。
もちろん、かつてのベルリンの壁並みに分厚く、近寄り難い陽キャバリアを乗り越えて、彼女と接触しようなどという、身の程知らずな勇気も気概も、選ばれし陰キャの俺の中には一欠片も存在していない。
少しでも近付こうものなら、陽キャどもからの、軽蔑と嫌悪と侮蔑とその他諸々のマイナス感情がミックスブレンドされた、“冷たい視線ビーム”の一斉照射を浴び、俺の精神などといったちっぽけな存在は、塩の柱と化して風に吹き散らされてしまうに違いないのだ……(確信)。
そんな訳で、俺と早瀬――そしてシュウの件は、ここ数日、何も進展が無いままだった。
そして今日も、何事も起こらぬまま放課後になり、俺はいつもの様に部活棟へと向かうのだった。
「――お疲れ様でーす」
お約束の様にめくれかけた『文芸部』の貼り紙を直し、相も変わらず建付けの悪い引き戸をこじ開けながら、俺はいつも通りに挨拶を投げる。
カタカタ……カタ……カタカタ――
そして、当然の様に返事は戻って来ず、その代わりに軽快なお馴染みのタイピング音が俺を出迎えた。
――うん、日常だ。
俺は、自分の定位置であるパイプ椅子を引いて、腰を落ち着けると、カバンをゴソゴソと漁り、持ってきたラノベの文庫本を取り出す。
パラパラと捲り、栞を抜き、続きを読み進めようと――、
「……お疲れ様、高坂くん」
……あ、今日は気付くの早いな……。
「あ、諏訪先輩、お疲れ様です」
俺は、文庫本に目を落としたまま、軽く会釈する。
先輩に対するにしては、些か失礼な態度なのかもしれないが、どうせ彼女の目は、タブレットの画面を追うのに集中しているだろうから、適当でも――
「――で、高坂くん、仕上がった?」
「……え? ――あ……」
……あれ、今日は、いつもと違う?
俺は驚いて、思わず左へと目線を向ける。
と、なだらかな曲線を描く女子用の制服のブレザーが、俺の視界全てを覆い尽くした。しかも、丁度目の高さに胸部があり、ブレザー越しからも分かる豊満なふたつの盛り上がりに、俺の視線は釘付けに――!
「え? ふぇっ? ――うわああっ!」
そして、そのおっぱ……双丘の持ち主が誰なのかに気付き、俺は意味不明な叫びを上げながら仰け反った。
そのはずみで、パイプ椅子からずり落ちた俺は、腰を強かに打ち付ける。
「あら、大丈夫、高坂くん? ……どうしたの?」
――いつの間に、俺のすぐ横に立っていた諏訪先輩は、相変わらずの抑揚の無い声に、微かに呆れた響きを混ぜて言った。
「いつつつつ……あ――、いや……べ、別に……」
まさか、諏訪先輩に「突然、目の前におっぱ……お胸があってビックリしました」と、正直に言う訳にもいかないので、俺は打ちつけた腰を痛がるフリをしつつ、白ばっくれた。――あ、腰が痛いのは本当だけど。
「……そう」
幸いにも、諏訪先輩はそれ以上追及しようとはせず、ただ、怪訝そうな顔で首を傾げただけだった。
そして、俺がパイプ椅子に座り直すと口を開いた。
「で……仕上がったの? 一昨日言った、アレ」
「……あ……アレ――ッスか」
諏訪先輩の問いかけに、俺は言葉を詰まらせた。
そう……一昨日、俺は先輩に“宿題”を与えられたのだ。
それは――
「そ……短編。それか、プロット」
「……う」
俺は、気まずくなって、目を逸らす。
そんな俺の様子に、先輩は表情を険しくさせた。
「……出来てないの?」
「あ――! い、いえ! い……一応、書いては来たんですけど……短編……! でも……」
「……へえ……」
諏訪先輩は、俺の言葉に意外そうな顔をした。
「……いや、その表情……ひょっとして、初めっから、俺が書いてこないとでも思ってたんですか……?」
「……ごめん」
諏訪先輩は、分厚いメガネのレンズ越しでも分かる程、露骨に目線を逸らしながら、小さな声で俺に謝る。
「……傷つくなぁ。俺だって、言われた事くらいはちゃんとやりま――」
「――じゃ、読ませて」
……しまった――、ザッツ・ア・藪蛇!
「……や、やっぱり、また今度にしません? ちょ、ちょっと今はまだ、心の準備が……」
「……どうせそう言って、本当は書けてない――」
「いや! 書いてきたのは本当ですって! で、でも、やっぱり恥ずかしいなぁ〜、もうちょっとブラッシュアップしてから、先輩にお見せしたいなぁ……て、思ったり思わなかったり……てッ! せ、先輩! 何してんすかあッ!」
「もう、埒が明かないから。持ってきてるんでしょ?」
諏訪先輩は俺の隙をついて、素早く机の上にあった俺のカバンを手に取り、さも当然そうに中を漁り始めた。
慌てて俺は、先輩の手からカバンを取り戻そうと腕を伸ばし――、
……むにっ
――空振りした手が、別の柔らかいものを鷲掴みにしてしまった。
ブレザーの布越しからも分かる、弾力に満ち、仄かな温かさを持ったそれ。
……先輩、意外と……その――お、大き――
「……いつまで触ってるのかしら、高坂くん……」
「――フェっ! わ! わわわわわぁあああっ!」
頭の中で、何故か“C”と“D”の選択肢を浮かべていた俺は、諏訪先輩の、いつも以上に抑揚の無い、液体窒素もかくやという凍てついた声で我に返り、素っ頓狂な悲鳴を上げつつ、慌てて腕を引っ込めた。
「す、スミマセンッ! その、い、今のは、そのふ、フリョ――不良のジゴロ……いや、不慮の事故ってヤツでして……その――スンマッセンでしたアァッ!」
「……」
テキメンに狼狽えキョドりながら、土下座せんばかりに深々と頭を下げる俺。
……下げた俺の脳天に、絶対零度の“目からビーム”が突き刺さっているのを感じて、俺は顔を上げる事が出来なかった……。
部室に、墓場の様な沈黙が満ち満ちる……。
と、
「……もういいわ。――高坂くん如きに触られたって、別に何とも思わないし」
俺に向かって投げかけられた、辛辣ながらも、いつも通りの諏訪先輩の声に、俺はホッと胸を撫で下ろした。
言葉通りに受け止める訳にはいかないが――いや、諏訪先輩の事だから、本当に何とも思ってないのかもしれないが――、どうやら先輩は、俺の事を赦してくれる様だ。
俺はオズオズと頭を上げ――、
「せ……先輩……本当にすみませんでし――た……あああああっ?」
先輩に対する謝罪の言葉は、途中から悲鳴混じりの絶叫に変わる。
――諏訪先輩の手には、俺が昨夜遅くまでかけて書き上げた短編が綴られた原稿用紙が、しっかりと握られていた――。