7-4
──あれから、どれだけ泣いていただろうか。
薄暗い路地の片隅で、クライヴは袖口の端でごしごしと目元を拭っていた。その気になればもう暫くは涙を流していられそうだが、だからといって目の前の事実は変わってくれない。どれだけさめざめと泣いてみたところで、救済などあるはずがないのだ。
そして、無いのは今日の食事も宿も同じだった。珍しく懐は潤っているが、幾ら手元に金があっても、それそのもので寝食が賄える訳ではない。宝の持ち腐れになりたくなければ、そろそろ手配に動かなければならないだろう。
一つ息を吐いて呼吸を整えると、クライヴは抱えていた紙袋をそっと覗き込んだ。皺だらけになった紙袋の中には、高額紙幣の束と冷たい金属の塊が変わらずに収まっている。
クライヴは周囲を軽く確認すると、危なげない手付きで拳銃を取り出した。マガジンを抜いて確認すれば、中身は装弾数いっぱいまで装填されている。手放す前より弾数が増えているのは、あの人なりの優しさだろうか。
「……けど」
クライヴは一つ首を振ると、鈍く光る凶器を改めて鞄の中にしまい込んだ。
逃げ込んでも良いと言っていた。どうしても駄目なら手を貸してくれると。だったらこれは、出来るだけ使わずに済ませた方が良いだろう。今までにしてきた事が許される訳ではないが、せめてこれ以上、顔向け出来ないような所業は重ねたくはなかった。次に会うまで一発も撃たずに過ごせれば、今度は少しくらい胸を張れるかもしれない。
しかし、と頭の片隅の冷徹な部分が警鐘を鳴らす。荒事から手を引いて、この先どうやって生きて行くつもりだ? 今更真っ当な職に就けるとでも?
次々と浮かぶ不安と疑問を振り払うように、パシン、とクライヴは自らの頬を両手ではたく。
──大丈夫。
──俺は何だって出来るって、そう、あのひとが言っていた。
──だから、きっと大丈夫。
それは根拠のない鼓舞で、それでも無いよりは幾分かマシだった。そうだ、とクライヴは首をもたげる。これからも立てるように、歩けるようにと、あのひとが最大限の餞をくれたのを知っている。だったら痛かろうが辛かろうが、その想いにだけは応えなくては。
折れそうになる心を叱咤しながら、蹲っていたクライヴがようやく立ち上がった──その時だった。
ずるり。
何かを引きずるような音と、肌を刺す殺気。クライヴが今いる路地とT字にぶつかる通りの方から、異様な気配が漂って来る。ずるり、ずるりと一定のペースで近寄って来る音に、逃げ場の無いクライヴは緊張の面持ちでそれが姿を見せるのを待ち構えた。
やがてT字の交差点に現れたのは、驚く事に見知った顔の男だった。その知った顔が、ぐるりと回ってこちらを向く。
「──見つけたぜぇ、狂犬野郎……!!」
いやらしく口角を吊り上げる男に、クライヴは思わずその名を叫んだ。
「レーニ……!?」
先日とは違って鬼気迫る気配を放つレーニは、ずるずると片脚を引きずってこちらの路地へと向かって来る。思わず後退ったクライヴは、背後に退路が無い事を思い出して舌を打った。自覚する以上に動揺していたのか、抱いた疑問が口をついて零れ出る。
「何で、だって皆豚箱行きだって」
レーニ一派は全員ぶち込んだと、リンはそう言っていた筈だ。その言葉に嘘や間違いがある訳がない。
ならばどうして、とクライヴが思考する前に、レーニが自ら手の内をひけらかす。
「保釈金って知ってるかぁクソガキ? うちのボスは大層金持ちでな、二つ返事でポンと出してくれたぜ。やっぱ世の中金が全てだよなぁ……!」
高笑いするレーニに歯噛みするクライヴ。金でこうもあっさりと外に出られてしまうのなら、ここ数日の自分とあの人の苦闘は何だったのか。
狂ったように哄笑をぶち撒けていたレーニが、不意に静かになる。すっと真顔に戻ると、懐から拳銃を取り出して少年へと向けた。
「テメェは付く相手を間違えた。その癖その場の勢いだけで全部滅茶苦茶にしやがって。テメェだけは俺が殺す、精々悔やみながらここで死ね」
冷たい声音と共にぶわりと膨らむ殺気に、クライヴが反射的に臨戦態勢を取る。咄嗟に鞄に伸ばした手は、しかし宙でぴたりと止まった。
──違う、ダメだ。
──武器は使わないって、さっきそう決めたばっかりで。
──でも。じゃあ、どうやって?
逡巡の隙をついて、レーニがクライヴの腕を取る。力任せに握られた肘に痛みが走った瞬間、少年が抱いたのは久方ぶりの感覚だった。
自分よりも力の強い相手に蹂躙される、恐怖。
それを助長させるかのように、レーニは銃口をクライヴへと近づけ、顔を歪めてがなり立てる。
「あぁ!? 何ビビってんだ、あん時の威勢はどうしたぁ!? イイ顔しやがって、そんなにブチ犯されてぇかよ!!」
「やめっ、やだ! 離せ、離せよ……!」
軽い恐慌状態に陥ったクライヴは、闇雲に手足をばたつかせて抵抗するばかりだ。いつものようにセオリーを組み立て、効果的な『反撃』に転じる程、少年の心に余裕は無い。その反応に調子づいたレーニが口角を吊り上げる。
「何カマトトぶってんだよ『狂犬』がぁ! 土壇場で裏切りやがって、キレイ事に絆されたか、あぁ!? なぁにが『俺達』の勝ちだ、所詮テメェはこっち側の、薄汚ねぇ犯罪者だろうが!!」
罵倒と共に胸倉を勢い良く掴み上げられた瞬間、ビリ、と耳障りな音がした。見れば、コートの布地と前側のジッパーとの間に、あるはずのない空間が空いている。ジッパーを生地に縫い止めていた糸が、千切れてゆらゆらと揺れていた。
「──あ、」
事態を理解したクライヴが、吐息のように小さな声を上げる。
──コート。あのひとが、くれた、大事な──
刹那、芽生えた怒りは一時的に恐怖を上回った。自らを脅かす者への怯えも、過ぎた暴力への忌避も、何もかもが真っ白に弾け飛ぶ。空白の思考のまま、クライヴの身体は経験から来る反射だけで動いていた。
レーニの手首と銃身を両手で掴むと、身体の内側、彼の胴体の側へと手首を捻る。銃口はあくまでレーニの方へと固定しながら、更に相手の姿勢を崩そうと、固めた手首を下へ引きながらきつく握り込んだ。
その、瞬間。
──パンッと、乾いた音が響いた。
「え……?」
音と同時に顔にかかった液体に驚いて、クライヴは我を取り戻す。
驚いた顔をしたのは眼前のレーニも同じだ。胸元を反射的に押さえたらしい左手、その下から大量の血が流れ出している。一拍置いて左手がずるりと垂れ下がると、レーニはその顔に驚愕の表情を凍りつかせて、無言のままで倒れ込んだ。
どさり、と音を立てた身体は、受け身も何も取った様子が無い。ピクリとも動かないそれの下から、じわじわと血溜まりが広がっていった。
「……う、そ。」
クライヴは己の頰をそっと指でなぞる。指先に付いた液体はよく見慣れた、鉄の匂いが鼻に付く赤い色だ。レーニの持っていた銃に目を落とせば、その銃口からはうっすらと煙が立ち上っていた。そこで、クライヴはようやく現実を理解する。
クライヴが下方へと腕を引いた勢いで、レーニの指が引き金に触れたのだ。
或いは。
レーニの指先を押し込んだのは、少年自身の手だったかも知れない。
「……う、そ。嘘でしょ、ねえ」
クライヴは崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込むと、レーニの肩に恐る恐る触れる。ゆらゆらと揺さぶっても、倒れ伏した男からの反応は返って来ない。
「何で、なんで、やだ、違う、こんなの、俺、違う、ちがう」
必死になって否定の言葉を吐きながら、クライヴは震える手で、レーニの首筋に触れる。どんなにまさぐってみても、もう脈拍は感じられなかった。
「あ、ああ──」
少年の口から、掠れた呻き声が漏れる。
──殺して、しまった。
──もう、取り返しが付かない。
「あああああああああああああァァァ……ッ!」
癖毛を掻き乱して、クライヴは悲嘆の声を上げる。喉も枯れんばかりの叫号が、薄暗い路地裏に虚しく響く。
殺すつもりなどなかった。最初に人を殺した時だってそうだ。
自分のことなど、誰も顧みてくれなかった。誰も、守ってくれなかったから。だからせめて、大事なものくらいは、自分で守ろうと思った。
たったそれだけの事さえ、手を汚さずには果たせない。
もう二度と罪は犯すまいと、つい今しがた、そう決めたのに。真っ当に生きて行こうとしたのに。
『人生』というものに生まれて初めて抱いた希望は、ものの数分と経たずに潰えた。
「何で……なん、で……?」
その理不尽に耐えられず、クライヴは壊れたように何で、と繰り返す。
何で自分ばかりがこんな目に遭う? 親に棄てられたのも、独りで生きる為に他人を利用するしかなかったのも、全部自分が悪いのか? そうして一度手を汚したら、改悛さえさせて貰えないとでも言うのか?
それとも、そもそも。
こんな自分が生きようとした事が、間違いだったのだろうか。
零れ落ちる疑問に返事はない。応えてくれた筈のひとには、もう、会えない。
罪を犯さずには生きていけない自分は、二度と、あのひとと同じ側には立てない。
「あ、ああ──そうか。」
ぽつりと、クライヴは力無く呟く。
天啓はいつだって唐突だった。自分が要らない存在なのだと気付いた時も、今回も。
──そうだ。もう、死んでしまおうか。
──だって、もう生きている理由が無い。
誰からも必要とされなくて、他人を害さずには生きていけなくて、それでも生きようとしたのが間違いで。だとすれば、導き出される選択肢は一つしかない。それこそが、きっと今の自分にとっての最善だ。
衝動と呼ぶには余りに論理だったその確信は、レーニ達のアジトを暴いた時と同じだけの手応えでもってクライヴを襲う。
おもむろに手を伸ばし、レーニの銃を拾い上げる。手の震えはいつの間にか止まっていた。クライヴはのろのろと、銃口を自らのこめかみに当てがう。トリガーの脇で、人差し指を、解すように曲げ伸ばしてみる。動く。遠い日、引き金を引けなかったあの時とはもう違う。何もかも、全て。
日向の歩き方を知った。繋いだ手のあたたかさも、呼べる名前の愛しさも。
世界は、今まで思っていたよりも随分と綺麗で、優しくて。そこに、自分の為に用意された物は何一つ無かった。こうして手を汚してしか、生きられなかった自分には。
何を犠牲にして、どれだけ懸命に歩んだ所で、それはきっと覆らない──否。
──そもそも歩んで行くだけの未来なんて、俺には最初からなかったんだ。
だから、今なら終わりに出来る。
今なら、きっと死ねる。
トリガーにそっと指を触れ──ああ、だけど、とクライヴは最期の未練に目を向ける。
「……ねぇ、リン」
──もう一度。
──叶うなら、もう一度だけ。名前を呼んで欲しかった。
たったそれだけの願いが、叶わないと知っている。それが自分の生きてきた、外れくじの人生だった。だからクライヴは目を閉じて、せめて脳裏に思い浮かべる。
穏やかに落ち着いた中音が、少年の名前を呼ぶ──
「──クライヴ!!」
突如響いた声は、最期の幻聴にしては余りに刺々しかった。すっかり聞き慣れた中音に、ぴたりと指先の固まる感覚がする。
混乱と期待とが綯い交ぜになったまま、クライヴはゆっくりと背後を振り返る。
薄暗い路地に差す、表通りからの逆光。その中に居たのは、他でもない。
「リ、ン……?」
信じ難いものを見る目で、クライヴがその名前を呼ぶ。
──それは、届かなかった筈の祈り。与えられる筈のなかった救済。
今、クライヴの目の前に。額に汗を滲ませて、肩で息をするリンが居る。
「なんで、ここに、」
「馬鹿野郎何やってる! 銃を置け、今すぐにだ!!」
クライヴの疑問も耳に入れずに、リンは今までに聞いた事もない大声で怒鳴りつけた。驚いて身を竦ませたクライヴは、しかしリンの意図を察してすぐに顔を歪ませる。
「……だっ、て」
言い淀むその手はしっかりと銃のグリップを握ったままで、トリガーにかけられた人差し指は離される様子が無い。小さく舌を打ったリンに向け、クライヴは抱えた絶望を語り出す。その両目からはらはらと、静かに涙を零しながら。
「もう、無理だよ。アンタと同じにはなれない。だって俺、殺しちゃった。そしたらもうアンタに会えないって、わかってたはずなのに。だから殺さないようにしようって、もうやめようって思ってたのに。俺、本当に、こうやって生きるしか出来ないんだよ。最初から救われる訳なんてなくて、それでもアンタは、アンタだけは俺のこと、ちゃんと見てくれたのに。それも、こうして結局駄目にして。だからもう俺には、何も、誰も」
──ないんだ。何一つ、誰一人。
ゆるゆると首を横に振って、クライヴは続ける。
「もう嫌だ、もう疲れたよ。だってもうどうにもならない。アンタ言ったよね、死なない限りは生きているしかないって。ならさ。もう生きていけないのなら、死ぬしかない」
力無いクライヴの言葉に、リンは歯を食い縛る。
予想はしていた。自分と過ごした数日間が、少年が生きて行く為の牙を抜いてしまった可能性は、別れた直後から十二分に察していた。だからこそ、レーニが保釈金で牢から出たと聞いて、鉢合わせないようここまでクライヴを探しに走ったのだ。
しかしそれを返り討ちにした上で、自ら命を絶とうとするほど思い詰めるだなんて一体誰が予想しようか。
「……何でだよ。死にたくないって、お前そう言ってたじゃないか」
滲む遣る瀬無さを隠し切れずに、リンが言う。しかしクライヴは首を横に振るだけだ。
「ううん、それももういい。もういいんだよ。俺はもうどうにもならない、だけど、だけどさ」
ぽろぽろと涙を零しながら、クライヴが浮かべたのは確かに微笑みだった。
「だけど最期にもう一度、アンタに会えた。こんな所まで駆け付けて、もう救いようなんて無い俺を、それでも引き止めてくれたから。俺はここで頭打ちだし、最後まで価値なんて全然無い、ゴミみたいな人生だったけど。でも、それを生きた意味だけは、たった今アンタがくれた」
自らの生を過去形で語る少年に、リンは愕然とする。リン自身、幸福とは縁遠い人生を自ら選んで歩んでいるが、それでも分かる事はある。これは、完全に諦めてしまった人間の顔だ。絶望を幸せにすり替えて、自分自身を誤魔化して、全てを終わりにしようとしている。
「だから、死ぬなら今なんだよ。今ならきっと、しあわせに死ねる。
お願い、リン。俺を、死なせて」
──そんな哀しいしあわせがあるものか。
クライヴの最期の懇願を、リンはいっそ冷酷なほどの速度で切り捨てた。
「駄目だ。それだけは許さない」
「どうして! だって俺、どうしたってこれ以上、生きてなんて行けないよ……!」
悲痛に叫んだクライヴに向け、リンは容赦無く言い放つ。
「お前の事情なんぞ知った事か。その手だけは二度と食わないって、昔そう決めたんだよ」
──これはエゴだ。救いたいという、私の、エゴだ。
そう割り切ったその瞬間、クライヴを探しに踵を返した瞬間から、一切の同情も手加減もしないと決めていた。リンは鋭い視線でクライヴを射抜く。敵意によるのではなく、難局への攻め手を見極めるように。
──またみすみすと目の前で、置いて逝かれて堪るものか。
「何でも言う事聞くからって、お前そう言ってたな。望み通り命令してやる、銃を置け」
「だけど……俺、もう」
「だったらどうして私を呼んだ!」
言い募ろうとしたクライヴを遮って、リンが声を荒げる。いつか問われたのと同じ叱咤に、少年が目を見開いた。スモークブルーの瞳が揺れたその隙に、リンはずいとクライヴの目前に進み出る。この距離ならば、リンほどの腕があれば飛びかかって銃を奪い取る事も出来るだろう。しかし敢えてそうする事なく、リンはクライヴに語り掛ける。
「呼んだんだろう? 言ってごらん。減らず口も憎まれ口も散々聞いてやっただろ。今度もちゃんと、聞いてやるから」
なあ、と両手を広げるリンに、クライヴが小さく息を呑んだ。震える手で、ゆっくりと銃を地面に置く。
リンの名前を呼んだ、理由。それは最期にもう一度、もう一度だけでいいから──
──本当に?
脳裏を過ぎった疑問符に、クライヴはゆるゆると首を振る。
違う。叶う訳が無いからと、自分から目を逸らしただけで。本当の理由はきっと違った。
──本当に、聞いてくれるのなら。
息を吸って、小さく吐いて。クライヴは今度こそ、自分の本心と向き合う。
──ねぇ、リン、聞いてよ。俺、もう駄目なんだ。
──だから。
「……け、て」
掠れた声で呟いた、クライヴの視界がじわりと滲む。歪んで行く世界の中で、綺麗な顔をくしゃくしゃ
にして、ぼろぼろと涙を零しながら。
少年は、それでも必死に手を伸ばす。
「ねぇ、リン。──助けて。」
「──ああ、それで良い。よく言えたな」
溜息のように応えたリンが、伸ばされたクライヴの手に触れる。震える指先を包み込むと、コートの裾が足元の血溜まりに汚れるのも構わず跪き、そっとクライヴを抱き寄せた。肩口に埋めさせた頭を、リンはあやすようにゆっくりと撫でる。
「良い子だ、クライヴ。いいこだな」
落ち着いた中音が、驚きに強張っていたクライヴの表情を解していく。クライヴは再びぐしゃりと歪んだ顔を、リンの肩口に強く強く押し付けた。食いしばった歯の隙間から漏れ出る嗚咽を、少しでも良いから殺したかった。しかし髪を梳くリンの手の温もりに、そんな最後の意地さえも溶かされていく。
それは少年が生きてきて初めて、甘やかされた瞬間だった。込み上げる感情に任せて、クライヴはリンにしがみつく。
「うぁ、あ、ああ、ああああ────」
少年の慟哭は、二人きりの路地裏に、産声のように響いていた。




