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7-2



 クライヴは朝が嫌いだ。どれだけ嘆きを抱えていても、もう歩きたくないと駄々を捏ねても、容赦なく訪れる朝が嫌いだ。


 それは今日とて例外ではない。どれだけ止まりたいと願っていても、釈放される朝は来る。


 ──その日、リンは留置場に姿を見せなかった。

 



「それじゃあ、釈放の手続きは以上です」


 通された部屋は、今まで使って来たどの部屋とも違った。とはいえ造りまでもがそう変わる訳でなく、同じ色の壁紙と床に、似たような事務机のレイアウトは変わり映えしない。


 最も大きな違いは、クライヴの相手をしているのがアオヤマだという点だ。


「最後に、預かっていた私物をお返しします」


 アオヤマの言葉に、クライヴは机越しにちらりと視線を投げたものの、すぐに机上へと落とした。初日ほど反抗的でこそないものの、あからさまに不躾な少年の態度に苦笑いを零しつつ、アオヤマは続ける。


「と言っても君の場合は特別扱いだったから、殆ど何もないんだけど。手荷物くらいかな」


 そう言って、部屋の隅に置かれていた段ボールをごそごそと漁るアオヤマ。手荷物など持ち込んだ覚えのないクライヴが首を捻っているのをよそに、アオヤマは段ボールの中から一つの鞄を抱え、机に乗せた。


「……これ」


 驚きに目を見開くクライヴに、アオヤマが困ったように声を掛ける。


「あれ、違った? おかしいな、番号は間違ってないんだけど」

「いや……」


 それは紛れもなくクライヴのものだった。リンを襲った日、襲撃の邪魔になるからと路地裏に置いてきた筈の、あの鞄。慌てて中を確認すれば、銃以外の全ての中身が手付かずで揃っていた。


 ──部下に回収させるという話は、てっきり冗談だと思っていたのに。


「なんなんだよ……」


 力無く、クライヴが呟く。こんな事までしてくれる癖に、最後に顔も見せないつもりか。昨晩こそつい取り乱したが、此の期に及んで駄々を捏ねる程に幼稚ではないつもりだ。


 だから、せめて。


「最後くらい、ちゃんとさせてくれたって良いじゃんか」


 鞄の肩掛けをきつく握り締める。貰い過ぎるほどに寄越しておいて、こちらはまだ礼の一つさえ言えていないのに。


 俯いた視界の隅で、経緯を知るアオヤマが困ったような顔でこちらを見つめていた。


 


 市警裏手の通用口への廊下を、クライヴは一人歩いて行く。付き添いのアオヤマとは、廊下のかなり手前で別れた。その警戒心の無さには寧ろこちらが心配になるが、彼にとっては幸運な事に、今のクライヴには警察に直接手を出すだけの気力は無かった。


 通用口のドアを開け、クライヴはふらふらと外へ歩み出す。ずっと室内にいたせいで曖昧だったが、天気はそう悪くなかったらしい。だからどうという訳でもないが、雨ではないという点だけはまあ助かると、まだ冷たさの残る外気にクライヴが身を震わせた時だった。


「よう。門出にしてはシケた面だな、少年」


 右斜め後方、ギリギリの死角から突然声をかけられた。その事実に、というよりは聞き慣れたその声に驚いて、クライヴは咄嗟に声の方へと身体を向ける。


「──リ、」


 ン、と名前を呼ぶ前に、何か柔らかいものが顔を直撃した。ずるりと顔から落ちて来る物体を咄嗟に受け止めれば、それは見覚えのあるコートだった。リンと街を歩いていた間、クライヴが身につけていたものだ。突然の奇行に目を白黒させるクライヴに向け、相変わらずのスーツにトレンチコート姿のリンは苦笑しながら告げる。


「餞別だ。やるよ、それ」

「いいの?」

「私が持ってても仕方ないしな。使うなり売るなり好きにするといい」


 大した事でもなさそうにリンは言うが、クライヴにしてみれば有り難い申し出だった。先日のレーニとの戦闘でみすぼらしさに磨きのかかったモッズコートよりは、こちらの方が格段に暖かいだろう。肩に掛けていた鞄を足元に下ろし、手早くコートを羽織り替えれば、その防寒性は段違いだ。ほう、と一息吐いたクライヴの襟元に、リンがそっと手を伸ばした。


「襟。曲がってるぞ」


 え、とクライヴが反応する前に、リンはコートの襟を引いて形を整えてやる。


「これでよし……ああ、うん。やっぱり似合うな、それ」


 いつかのように一歩引いてクライヴの全身を眺めたリンは、いつかと同じく満足げに頷いた。気が済んだとばかりの態度に一瞬納得しかけたクライヴだったが、ふと冷静さを取り戻してリンに訊ねる。


「アンタ、この為にわざわざ?」

「いいや、本題はこっちだ。──正直、迷ったんだがな」


 首を一つ横に振ると、リンは小脇に抱えていた紙袋をクライヴに渡す。最初の取り調べで差し入れられたデリの袋と同じものだが、側から見た限りではやけに重そうだ。


 丁寧に折り畳まれた袋の口を開けた瞬間、クライヴは息を飲む。


「これ、俺の」


 紙袋の底に敷かれているのは、クライヴ自身すっかり意識の外にあった、今回の報酬であろう札束。皺一つ無い百ドル札は、ざっと見た限り二十枚から三十枚はあるだろう。そしてそれを隠すように乗っていたのは、初日に没収されたナイフと、鞄の中から忽然と消えていたはずの拳銃だった。


 問いかけるように見上げる視線に応えて、リンは一つ頷く。


「正直、警察官としては渡したくない。銃に至っては違法所持だしな。それでもきっと、今のお前にはこれが必要だろう。お前がこの先、死なずに生きて行く為には。だからそれは持って行け」


 言葉を切って、リンはクライヴの頭をくしゃりと撫でる。


「大丈夫だ。お前は何だって出来るんだから。これから、生きてやるんだろ? どうしても困ったら逃げ込んで来い。法に反しない限りは味方についてやるよ」

「……うん、そうだね」


 クライヴは弱々しく頷く。それが希望的観測だと分かっていても、頷かずにはいられなかった。


 少年の髪をかき混ぜていた手が、ポン、と一つ頭を叩いて離れていく。名残惜しさにその手を視線で追えば、にこりと笑うリンと目が合った。穏やかな微笑が何処か寂しげに見えたのは、流石に欲目という奴だろうか。


「じゃあ。元気でな」

「……ん」


 クライヴが小さく頷いたのを見届けて、リンは踵を返して庁舎へと向かおうとする。その背中を、クライヴが咄嗟に呼び止めた。


「ねえ、リン」


 足を止めて振り返ったリンに、クライヴはさっと駆け寄る。


 それは少年が他人に与えられる数少ない「値打ちのあるもの」で、別れ際の今この瞬間、自分の存在を刻み付けるように相手に残せる手段。


 クライヴはリンのネクタイを引いて顔を近づけると、初めて会った日に傷つけた頰に手を触れ、その口許に唇を寄せた。


 一瞬だけ触れた口唇はかさついていて、頭の片隅で勿体ないなと思う。


 ──だって、ちゃんと柔らかいのに。


 離れ際にちゅ、と音を立ててやったのは悪戯心からだったか、それとも名残惜しさか。自分でも分からないまま顔を離せば、彼女は意外にも呆けた顔をしていた。状況に理解が追いついていなさそうなそれは初めて見る表情で、思わず吹き出しそうになる。


 だらし無く緩みそうになる口許を一度引き締めてから、クライヴは己の持ち得る全てを込めて、一番綺麗な微笑みを作り上げる。


 最後に贈った言葉は、偽らざる少年の本心だった。



「ありがと。」



 リンが目を見開く。開きかけた口が音を発する前に、クライヴは身を翻して駆け出した。脇目も振らず、振り返りもしない。


 あれ以上言葉をかけられてしまったら、きっとそこから動けなくなってしまう。そしてそれは、わざわざ銃の所持を見逃してくれたリンの本意に背くことになるだろう。


 だからクライヴは、身体に染み付くほど歩き慣れた街並みを、全速力で駆け抜ける。人混みの合間を器用にすり抜けて、大通りから裏道に逸れ、一本、二本。出来るだけ奥、出来るだけ遠くへ。


 それでも、ある意味では間に合わなかったらしい。


 人気の無い路地に駆け込んで、肩で息をするクライヴ。膝に手をついて俯いたその頰には、熱い雫が伝っていた。


「……意味分かんない、何で俺、泣いて……何で、」


 意思に反して流れる液体を服の袖で拭いながら、クライヴはゆっくりと顔を上げる。全力疾走のお陰でただでさえ荒い呼吸が、嗚咽のせいでなかなか整わない。しゃくり上げながら、クライヴは薄暗い路地を見つめる。


 荒れきった袋小路には、何もなかった。


 戻ってきた、とクライヴは思う。束の間の、幸福な夢みたいなものだった。所詮自分は暗がりでしか生きられない人間で、だからこれが普通の事で。これが、当たり前の結末で。


 ──けれど、一つだけ。


 たった一つだけ、少年は手に入れてしまったのだ。


「……リン、」


 ──呼べる、名前を。


「リン、ねえリン。俺には無理だよ。だってここは、こんなに寒くて、何にも無くて。それに」


 震えそうになる身体を抱きかかえて、クライヴはずるずると蹲る。一度は拭った頬に、再び涙が伝い始める。


「ねえリン、痛いよ。痛くて痛くて、堪らないんだ」


 リン、リン、と少年は繰り返す。祈るように。縋るように。そのか細い声に応える者は、ここには居ない。


「ねえ、ねえ聞いてよ、リン。聞いてくれるって、そう言ったのはアンタじゃないか」


 膝に顔を埋めたクライヴは、その声に責めるような響きを意図的に混ぜてみる。それで恨めるのなら、嫌えるのなら、どれほど楽だった事だろう。


「……うそつき」


 誰にも届かない悪口を、少年は自嘲と共に一つ落とした。




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