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6-5



 ボクサーの膂力に、飛びかかったクライヴが宙に投げ出される。射線上に降ってきた身体に、リンが咄嗟に銃を引いた。辛うじて受け身を取ったクライヴは、床を転がって勢いを殺すと、リンの手前で素早く身を起こす。


「くそ……」


 ボクサーを睨み付け、思わず悪態を吐くクライヴ。優位に立てないのも無理はない、ウエイトがあまりに違い過ぎる。何度挑み掛かってもまるで手応えが無い。


「キリがないな」


 ぼそりと呟くリンの声にも、少なからぬ苦渋が滲んでいる。ボクサーの馬鹿力に振り回されるクライヴの動きが予測出来ないせいか、リンの攻め手も有象無象相手の時よりは鈍りが見えていた。足を引っ張っている自覚のあるクライヴは、ぎりと拳を握り締める。


 一人で戦って勝てる相手では、勿論ない。だが、このまま足踏みをしている余裕も無い。要はレーニさえ押さえられれば良いのだ。それなら、自分が殴られ役になれば良い。リンが首尾よく仕事をしてくれるなら、その間分くらいの時間は稼げるだろう。


 ただし、クライヴが怪我だけで済むという保証はどこにも無いが。


 ──それでも、それしかないのなら。

知らず噛み締めていた唇を開き、クライヴは小声でリンに告げる。


「アンタは行きなよ、リン。こいつは俺が──」

「逆だ。」


 しかし、最後まで言い切る前にリンはクライヴの提案を遮った。え、と声を上げるクライヴには視線を向けず、淡々と指示を出す。


「お前の話じゃ残ってるのはあと数人だったな。恐らく全員ボスに張り付いてると考えていいだろう。そっちの方が単騎の戦力が小さく人数が多い。お前は奴の顔を知ってるな? レーニの所にはお前が行け」

「でも、」


 食い下がろうとするクライヴだが、リンは二の句を継がせない。


「まずは足止め、戦闘不能に出来るなら押し切ってもいい。殺しはするな、聞きたい事が山程ある。──やれるだろ、お前なら」


 そこでようやく、一瞬だけ投げられる視線。真っ向からそれを受け止めたクライヴは、「だけどアンタは」と言いかけた台詞を飲み込んだ。


 率直に言って、クライヴがレーニの所へ向かったとして、どちらに軍配が上がるかは微妙な所だろう。それでもリンは、クライヴの腕を信用して託してくれているのだ。


──なら、俺は?


「……分かった。」


 小さく頷くと、クライヴはボクサーに向き直る。


「何だよ、お話は終わりか? 最後の語らいなんだ、ゆっくりイチャついて良いんだぜ?」


 両手を広げて煽るボクサーも、今は一片だって気にならない。見据えるのはその向こう、廊下の先の階段部への道だ。


  ──このひとは負けない。だから、俺は俺に出来る事を。


 ふ、と小さく息を吐く音が隣から聞こえる。それは安堵の溜息か、或いは苦笑の類だったのか。確かめる前に、クライヴは地面を蹴った。


 ボクサーに迫るクライヴの耳に、二人分の足音が響く。すぐ後ろでリンも駆け出した事を確認して、クライヴはナイフを構えた。


 ──掴まれたら振り戻される。そうなる前に……!


 低い姿勢からの袈裟斬りはフェイクだ。一歩引いてかわしたボクサーが、反撃すべく右の拳を振りかぶる。大きく空いた脇に、クライヴは身を小さくして飛び込んだ。ボクサーの身体の向こうに抜けた瞬間に身を捻る。


 こちらを振り返ろうとするボクサーの肩口を狙って、クライヴは手元の銃を撃つ。双方姿勢の安定しない、決して良いとは言えない状況下。それでも弾丸は狙い澄ました通りに飛び、ボクサーの肩を抉った。


 だが、その狙いが浅すぎた。


 被弾の瞬間に飛び散ったボクサーの血が、その背後、脇から回り込もうとしたリンへと降り注ぐ。血飛沫に突っ込む形になったリンの顔面、そして眼鏡に、べったりと血糊がまとわりついた。


「リン‼︎」


 ここに来て初めての、ミスらしいミス。思わず足を止めそうになるクライヴに、返ってきたのは鋭い叱咤だった。


「行け‼︎」


  端的な命令に、クライヴが再び加速する。進行方向へと向き直った少年は、もう振り返らない。駆け出したクライヴを追おうとするボクサーの前に、リンが身を踊らせる。


「邪魔だアマァ!」


 ボクサーの怒声にも怯まず、リンはボクサーの懐へと飛び込む。愛銃のグリップからその銃身へと持ち替えると、逆手で薙ぐように銃床を鳩尾へと叩き込んだ。


 ボクサーからはダメージの反応こそないが、打撃の反動でその足が止まった。自らもその勢いで一歩引いたリンは、ボクサーの顎目掛けて愛銃を振り上げる。


 アッパーを咄嗟のバックステップで避けたボクサーは、そのまま数歩下がって一度距離を取った。対峙したリンの向こう、小さくなって行くクライヴの背中を、ボクサーは何も出来ないまま見届ける。しかしその口から漏れたのは、耳障りな高笑いだった。


「ハーッハッハッハ! あのガキマジで行っちまいやがった! アマとガキがそれぞれ一人でどうにかなるって本気で思ってんのかよ! 随分ご機嫌な頭じゃねぇか、なぁ雌犬よぉ? どうせどっちも食われて終わりだっつーの。ああ、今の内に降参すれば優しく可愛がってやらねぇ事もねぇぜ?」


 ボクサーはヒヒ、と下卑た笑いを浮かべる。それに心底下らないとばかりの一瞥をくれると、リンは無造作に眼鏡を外した。べったりと血糊のついた眼鏡を通した景色は一切歪んでいない。度の無い眼鏡をわざわざかけているのは、元ゲリラたる自分の人相を誤魔化す為だ。今や単なる目隠しとしてしか機能しなくなった眼鏡を一瞥して、どうしたものかと小さく逡巡する。


 ──失敗したな。

 ──もうちょっと手元に置いておけば良かったか。


 結局腰のポーチに直接眼鏡を押し込みながら、たった今送り出したはずの少年が脳裏を過った自分に苦笑してしまう。その自嘲に目の前で騒ぐ雑兵への侮蔑も重ねて、リンはハッと鼻を鳴らした。


「馬鹿を言え」


 隔てる硝子を無くしたその視線は、酷く鋭い。抉るような鋼鉄の瞳に射抜かれて、ボクサーの顔から笑みが消えた。思わずたじろぐ小者に向けて、リンは容赦なく言葉を紡ぐ。


「もし豚箱から無事に出られたら、お前のボスにも伝えておけ、喰い殺されるのはお前等の方だってな。何せ」


 肌を裂くような殺気と共に、その口元が、にいっと弧を描いた。


「狐の天敵は、猟犬だろう?」




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