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「悪いな、延長戦にもつれ込んで」
「まさか。ここまで来て降りろって言われる方がムカつくでしょ」
二人して一足飛びに庁舎の階段を駆け下りる。結局時間の限界までミーティングに熱中し、早送りのように保釈手続きをしたため、タイムリミット直前での慌ただしい釈放となってしまった。
しかし共闘関係もここで終了、というわけではない。ひとまず被疑者であるところの「クライヴ少年」は釈放した、という既成事実を作っておいて、ここからのクライヴは一市民であり「善意の協力者」だ。手始めにこのリンと共に後例の倉庫の偵察に行き、場合によっては今日の夜はホテルか何処かに匿われる、そういう手筈になっていた。
リンに連れられて、クライヴは庁舎裏手の通用口から外に出る。その先は市警本部の駐車場だった。パトカーに公用車、職員の私物の車も並ぶ中、車両の陰に紛れるようにしてこっそりと、リンとクライヴは互いに言葉を交わす。
「じゃ、ひとまずこれで『釈放』って事で──悪いがここでちょっと待ってろ。こっちも抜けるのに軽い手続きとか色々あるんだ」
「ん、分かった」
頷いて、庁舎の中へと戻って行くリンを見送る。その背が完全に見えなくなった事を確認して、クライヴはその場にしゃがみ込んだ。
──なんだこれ。何だ、これ。
落ち着かない。どうしようもないほどそわそわしている。許されるのなら叫びながら走り出してしまいたい衝動に駆られて、しかし感じているのは不安でも恐怖でもない。
ざわざわと粟立つ肌に、微かに震える身を抱える。
「……リン、ねぇ、リン」
その名前が思わず口をついて出たのは何故だったろうか──それをクライヴが自覚する事は終ぞ無い。続く言葉を発する前に、思考を遮られたからだ。
「おい、そこの君。こんな所で何をしている?」
唐突に、背後から声を掛けられる。どこか聞き覚えのある男の声だ。唐突な誰何に驚いて、クライヴは勢いよく立ち上がる。
「アンタ……」
振り返った先にあったのは、やはりこれも見覚えのある顔だった。会ったのは昨日の朝、確か捜査に出掛ける直前のこと。
「そうだ、リンの相方の」
上等なスーツ姿の彼は、リンが自身の補佐役だと言っていた男──ハマーだった。
「ああ……君、あの人の連れていた」
頷くハマーの方もクライヴを覚えていたらしい。一瞬納得したような表情をして、しかしすぐに顔をしかめる。
「随分馴れ馴れしいんだな、市警の番犬相手に」
唐突な苦言は、クライヴからしてみれば言い掛かりにも等しい。反射的に喧嘩を買おうとした瞬間、ふとある事に思い至ったクライヴは、一呼吸おいてニヤリと笑って見せた。
「なぁに、嫉妬?」
甘ったるい声でそう挑発する。眉間の皺を深くしたハマーにくるりと背を向けて、クライヴは肩を竦めてみせた。
「そりゃ昨日は一日デートしてたし、アンタよりは仲良いかもだけど。ちょっと大人気ないんじゃない、おにーさん?」
背後に剣呑な気配が広がるのも気にせず、ひらひらと手を振って煽るクライヴ。しかし舐め切った態度に対し、ハマーは静かに呟いた。
「いいや。私が言いたいのはつまり──番犬風情に随分と染められたようだな、狂犬。」
「何、ぐッ⁉︎」
振り向こうとした首に、ハマーの腕が絡み付いた。細身に見えてしっかりと筋肉のついた腕による三角絞めは、クライヴの頸動脈を的確に締め上げる。体格差のせいで宙吊りも寸前にされ、自重で首が締まらないように辛うじて爪先で立つクライヴは、ハマーの腕を掻き毟るのがやっとで碌な反撃に転じられない。圧迫感が顔全体を覆う中、クライヴの脳裏を先刻のリンの言葉がよぎる。
『内通者だ』
『この伝達速度だと、おそらく直に繋がってる奴がいる』
──まさか、よりによって。
せめてリンに何か手掛かりを残そうと伸ばした手は、無慈悲にも空を切る。スーツの上からでは締め上げる腕に跡を残すのも難しい。
「かっ、は……」
最後に残った息を小さく吐き出して、そこで少年の意識は途切れた。
「クライヴ?」
数分後、庁舎から出て来たリンは訝しげに声を上げた。辺りをを見渡しても、探し人の姿は無い。代わりに居たのは、この場にそぐわぬ同僚だけだ。
「おやリンさん、どうしました?」
ハマーが自らリンに声をかける。まるで何事もなかったかのように。
何でこんな所に、という質問は飲み込んで、リンは目下の最優先事項を問いかけた。
「ハマー巡査部長、しばらくここに? 黒髪の少年を見なかったか? ほら、昨日私が連れていた」
その問いを受け、ハマーは驚いたような顔を見せる。そして一転顔をしかめると、声を潜めてリンに問い返した。
「もしや、彼は今日釈放ではなかった?」
「いや? 何故」
リンがそう答えると、ハマーは心底安堵した顔になった。
「それは良かった。いえ、彼ならさっき凄い速さで走り去って行くのを見たので、もしや脱走だったのかと。そうでないなら安心です」
一度言葉を切ると、ハマーは少年はそちらに駆けて行きましたと言わんばかりに遠くを見やる。同じ方向へと視線を投げたリンをよそに、ハマーは眉根を寄せ、困ったように苦笑した。
「まあ、彼の気持ちも分からないでもないですが。留置場なんぞ、必要以上に留まりたくはないでしょうからねえ」
「……まあ、一理あるな」
一つ頷くと、リンはハマーへと向き直る。いつになく朗らかな笑顔を浮かべたリンは、思い出したように告げた。
「それはそれとして丁度良かった、折り入って相談があるんだ。少し来てくれ、ハマー巡査部長」




