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そこから先は、思っていた以上に簡単に事が進んだ。最早何もせずとも勝手に繁華街へと向かっていくリンの腕に、クライヴはただ引っ付いていればそれで良かった。本人曰く警邏を兼ねてとのことらしく、川原での衝撃から立ち直りきっていないクライヴは、根っからの仕事中毒に密かに感謝を捧げた。
グレイフォートは基本的に、南下するに従って治安が悪くなって行く。中でも最南部、港湾の肉体労働者や歓楽街で安く買い叩かれる人間達の寝ぐらは、最早スラムと言っても過言でない。
リンとクライヴが歩を進めたのはその一歩手前の区域──スラムの住人のうち半分の仕事場にして、観光客が足を踏み入れられる最も治安の悪いエリアだった。
通りに軒を連ねるのは、不良共の屯するクラブが保育園に見えるようなラインナップだ。着飾った女達に法外な値段の酒を注がせるバー、地下では法に触れるタイプの葉を吸える水タバコ店、負ければ臓器が一つ二つ無くなるようなレートのカジノ。一晩数百ドルからのホテルには、当たり前のように女の値段が含まれている。
気の早いネオンのギラつく中、しきりに辺りを見回すリンの視線が照れやミーハーに起因するものではない事は、刃物じみたその鋭さが物語っていた。単身で店丸ごとの摘発は流石のリンでも出来ないにせよ、隙あらば午後一番のように検挙に繋げる気満々だ。お陰様で誰彼構わず喧嘩を売るようなヤンキーはおろか、普段なら人と見るやハエのように群がってくるキャッチでさえも近寄って来ない。
クライヴとしては面倒事が減るのは有り難いが、ホームグラウンドにこうも場違い感甚だしい相手を連れ込むのは初めてで、並々ならぬやり辛さを感じているのもまた事実だった。
しかし、それ以外の条件は文句の付けようもない。
ヴォルピーノとの合流地点は、二ブロック先の裏通りだ。人通りは多くも少なくもなく、落ちかけの陽の生み出す陰影は適度に視界を奪ってくれる。最大の不安材料だった時刻にしても、現在時刻で十六時半ならば完璧に予定の範囲内だ。
しかもどうやら期せずして、最後の手間まで省いてくれるつもりらしい。
「……ねぇ、リン」
進行方向を向いたまま呼びかければ、同じくこちらに視線を寄越さずにリンが頷く。
「ああ。尾けられてるな」
尾行は付けるなと言ったのを理解出来なかったのだろうか。協力者としてはげんなりするが、結果を考慮して今回だけは目を瞑ってやることにした。
「次のブロックの裏通りだ。待ち伏せて、返り討ちか生け捕りでどう?」
提案のふりをして、クライヴは合流地点より一つ手前のブロックを指定する。既に潜んでいるはずのヴォルピーノの手下共と鉢合わせでもしたら本末転倒だ。最後の一ブロックは、逃走する振りをする時にクライヴ自身が誘導すればいい。
「悪くない、乗った」
あっさりとした肯定は好都合な筈なのに、苦いものを感じるのは何故なのか。クライヴは抱えていたリンの腕をきゅっと抱き込む。それをどう受け取ったのか、リンは一つ小さく笑うと、ブロックの境目である細い路地へと入って行った。
角を曲がり切った瞬間、二人して示し合わせたように走り出す。ブロックの短辺を瞬時に駆け抜けて、長辺である裏通りに踊り込む。
「そっち!」
咄嗟のクライヴの提案で、コンクリートが打ちっ放しになった非常階段の陰に隠れた。二人息を潜めて、追跡者が姿を現わす瞬間を待つ。
しかし、待てど暮らせど続く足音は聞こえて来ない。五分程の時間を置いて、リンが低い位置からほんの僅かに顔を出す。
見通した路地に人影はなく、表通りの喧騒が響いて来ることを除けば静かなものだった。
「何だ、諦めたのかあいつ? それともあれだけで撒かれたド下手クソか?」
路地に身を晒したリンには何も起こらない。どうやら追っ手は本気で尾行を止めたらしい。このタイミングで忠告に従うのかと、内心でクライヴは歯噛みする。
現在地点はこの通りに入って割合すぐの場所だ、次のブロックまで半分以上距離が残っている。ここで仕掛けて逃げ切れるだろうか。初手であの鋭敏な反射神経に捕まらなければ、あるいはギリギリ抜けられるか。
──時間が無い。決断しろ。
「まあ、それならそれで構わないか。行くぞ」
階段の陰から通りへと出て来たクライヴに、すい、とリンの左手が差し出される。
クライヴはその手を見つめたまま、動かない。複雑そうな顔をして、そっと目を伏せる。
「クライヴ?」
リンが訝しげに名を呼ぶのと同時、クライヴは身を翻し、脱兎の如く走り出す。
「ちょっ、おい!」
驚いたようなリンの声にも振り返らない。全速力──の、一息手前。振り切ってしまってはいけない、適度な所で捕まるのが目的だ。ちらちらと背後を振り返りつつ、追ってくるリンとの距離感を絶妙に調整する。
かくしてクライヴがリンに腕を掴まれたのは、丁度一ブロック進んだ先のことだった。
「お前、何急に──」
クライヴの腕を引いて自身の方へと振り返らせたリンの表情が、瞬間的に凍る。
一つには、自分へと向けられたクライヴの、敵意のこもった視線のため。
もう一つには、背後に感じた殺気のためだ。
咄嗟に腰から愛銃を抜き、振り返りざまに拳ごとその銃床を叩き込む。当て推量の一撃は、金属バットを振りかぶっていた男の胴体にクリーンヒットした。
「がっ!」
堪らず体勢を崩した男の背後には、しかし第二波としてナックルガードのついた拳を振りかざす男が目前まで迫っている。舌打ちを零したリンは中段蹴りを放って男を押し戻すと、手にした銃を構えて鋭く叫んだ。
「動くな‼︎」
武器よりも有無を言わさぬ声音の方に、襲撃して来た男達が一瞬怯む。
──しかし。
ことこの局面においては、リンの敵は彼等だけではない。
リンの背後、庇われるように立っていたクライヴが、静かに唇を引き結ぶ。覚悟を決めたように顔を上げると、その無防備な背中を蹴り飛ばした。
「──ッ!」
思わぬ方向からの衝撃に、大きく姿勢を崩すリン。バランスを取ろうと反射的に大きく広げた左腕を、ナックルガードの男が素早く捕らえる。咄嗟に銃を向けようとした右腕には、背後からクライヴが飛びついた。銃口を明後日の方向に向け、手首と肘を極める。
至近距離で視線が交錯する。驚いたようなリンの視線を、クライヴは自ら振り切った。
拘束を振り解こうとするリンの上体を二人がかりの力ずくで抑え込むと、後ろ手に腕を固定しようと試みる。クライヴは銃口の向きに細心の注意を払いつつ、ナックルの男に慎重に右腕を引き渡した。男はそのまま手首をクロスさせ、関節を極めつつ抑えつける。
「──くそッ!」
悪態をついたリンが、ナックルガードの男の足を力一杯踏み抜いた。
「痛ぇっ! ──ざけんなこのアマぁ‼︎」
しかし思ったよりも根性があるのか、男の拘束は緩まない。どころか、逆上した男はリンのふくらはぎにローキックを見舞う。思わずがくりと体勢を崩したリンだが、辛うじて膝は付かずに踏み止まった。
「はっはァ! 何だ何だぁ? 市警の番犬だなんて大口叩いてこれかよ!」
どこから現れたのか、戦線には加わらなかった三人目が声高に蔑む。哄笑へと視線を向ければ、そこに居たのは革のジャケットを筋肉でパンパンに膨らませた大柄な男だ。ジャケットの下、タンクトップの胸元からは首筋に向かってタトゥーが覗き、派手な赤い髪は染料の色をしている。
「ザマぁねぇなぁオイ、俺が出るまでもねぇじゃねぇか! 今までの連中は何やってたんだあぁ?」
高笑いをして現れた男は、おそらくヴォルピーノの直属とかいう例の虎の子だろう。クライヴを一瞥すると、つまらなそうに言い捨てる。
「テメェが『狂犬』とかいうガキか。そこそこ働くじゃねぇか、もう帰って良いぜ」
一番の功労者に対し、あまりに雑な扱いをする赤い髪の男。それとは対照的に、リンの視線は終始クライヴへと向けられていた。
「……クライヴ、お前」
「悪く思うなよ、番犬」
リンの呟きに、クライヴは口の端を歪ませる。
「アンタは強いから、分からないだろうけど。俺みたいのは、こうでもしないと生きてけないんだ」
クライヴの自嘲混じりの台詞に、リンが口を開きかける。しかし言葉を発する前に、クライヴを追いやって赤髪の男が割り込んで来た。
「初めましてだなぁ、番犬。飼い犬に手を噛まれた気分はどうだ?」
ニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべる男。しかしリンが男へ向けたのは、先程男がクライヴに向けたものと同種の視線だ。白けたように男を眺めると、ボソリと呟く。
「……港の娼婦強姦殺人未遂、もしくはスラム北の強盗傷害」
「あ?」
「違うか。じゃあ確かにお前みたいなのは知らんな」
ハジメマシテ、と不遜に嗤ってさえ見せる。
瞬間、真顔になったボクサーがリンの顔に右フックを叩き込んだ。身動きの取りようがないリンは、その一撃をまともに食らう。顔から吹き飛んだ眼鏡が場違いな軽い音を立てた。
しかし、殴られた当の本人に臆した様子は一切なかった。血の混じった唾を吐き捨てると、男の拳への所感を独りごちる。
「……なるほど。ボクサー崩れか、お前」
途端、アァ⁉︎ と怒声を響かせる男。
「崩れじゃねぇ、ボクサー上がりだ。俺こそが真のボクサーだって、皆俺の事をそう呼んでる。分かるか? 連中がやってんのはお遊戯だが、俺は人を殴って殺せる。勿論テメェもだ、番犬」
男──ボクサーは乱暴にリンの頰を掴む。
「だがまァ、このツラは殴り潰すにゃちょいと勿体ねぇ。どうせバラしちまうんだ、その前にカラダの具合でも試しておくか? 上手にご奉仕出来たらペットとして飼ってやっても良いぜ?」
ボクサーの言葉に、他の二人の男達が下卑た笑いを漏らす。その反応に調子を良くしたボクサーは、リンに顔を近付けた。流石に眉根を寄せて顔を背けたリンに対し、舐めるような近距離で貶し始める。
「服のセンスも胸もねぇが面だけはそこそこ上玉だな。エラくなるまで何人に股ぁ開いたんだ、ええ? 牝犬が」
グイ、とネクタイの結び目に指をかけるボクサー。反応を窺うように向けられた笑いを、リンは鼻で嗤い返す。
「そう言うお前は、」
女の趣味が死ぬ程悪いな──リンがそう続ける前に、ボクサーに制止の声をかける者があった。
「おい」
不躾にリンへと伸ばされた腕に手をかけて、クライヴはボクサーを睨め付ける。
「何余計な事しようとしてんだよ、盛ってる場合か。折角押さえたんだ、逃す前にさっさとトドメ刺せ」
「あん?」
お楽しみに水を差されたボクサーは、不愉快そうにクライヴを煽り返した。
「何だよ、ガキのくせしていっぱしにテメェも混ざりたいってか? それともブチ込まれる方かよ?」
「テメェ……!」
カッとなったクライヴが手を出すよりも早く、ボクサーの拳が少年の薄い胴体に叩き込まれる。一瞬息を詰まらせた後、ゲホゲホと苦しそうに咳き込むクライヴ。
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ! テメェの仕事は終わりだ、おウチでマスでもかいてなクソガキ!」
一喝すると、ボクサーはそれきりクライヴの事など歯牙にもかけず、リンの方へと向かっていく。もう一人の男もそれに習い、ニヤニヤと笑いながらリンへと近寄って行った。
クライヴは暫しの逡巡を見せ、しかし結局は男達に背を向けた。真っ向から、しかも丸腰でボクサーにかかっても勝ち目はない。悪趣味なレイプショーを見せられるのは御免だった。増して今回は、女優の趣味が悪すぎる。
ギリと歯をくいしばるその背中に、不意に硬質な声が掛けられた。
「おい、クライヴ」
びくりと、クライヴが肩を震わせる。恐る恐る背後を振り返ると、リンが男達の間からこちらに視線を向けていた。
「お前、これで満足か」
「そん、なの──」
──そんな訳があるか。
図星を指された問いかけに思わず視線を落とせば、こっちを向け、と叱咤される。有無を言わさぬ声音に、クライヴはおずおずと顔を上げた。
「そうしなきゃ生きていけないって、その言い分は理解してやる。でもな、だからって」
リンは出会ってから初めて、敵意でもって少年を睨みつける。
「自分の選択から目ぇ逸らしてんじゃねぇぞ。」
「──ひ、」
小さく息を呑んだ音は、押し殺した悲鳴にも似ていた。
このひとは、こんなに鋭利な、冷たい瞳が出来るのかと。驚く前に身が竦んだ。
それは或いは、誰かの命を奪う直前の武器のような。酷く無機的でいながら、それが本来の機能なのだと思い知らされるような。
鋼鉄の視線に射抜かれて、冷え切った身体の奥の方が、止めてくれと叫びを上げる。
──何でアンタがそんな眼で、俺を見るんだ。
──何で、アンタが。
「テメェ何こっちシカトぶっこいてんだオラァ!」
汚い怒号でクライヴは我に返る。と同時、ボクサーがリンとクライヴの間に割り込んだ。遮られた視線に安堵したのも束の間、ボクサーが容赦なくリンの頭部を殴る鈍い音が耳に届く。
クライヴはただ、何も出来ずに立ち竦む。どうすればいいか、どうするべきか。どう、したいのか。その全てがこんなにも分からないのは、一人で生きる事を強いられ始めた頃以来だった。
と、殴られたリンが顔を上げたらしい。ボクサーが再び怒声を上げかける。
「アァ⁉︎ 何──ッ⁉︎」
しかし台詞を言い切る前に、背後から見ても分かる程、あからさまに身を強張らせた。
「……んっだその眼は、アァ⁉︎ ざけんなクソが、調子こいてんじゃねぇぞ、コケおどしなんだよ‼︎」
一瞬怯んでしまった自分を鼓舞するかのように逆上するボクサー。至近距離で怒鳴り散らすそれを眼光鋭く睨みつけたまま、リンは口の端をつり上げた。
「──どっちがだ、ド素人。」
ヴォルピーノの配下の連中が基本的にゴロツキなのは、リンのみならず街の大半の人間が知る所だ。だからリンは腕を押さえ込まれた時点で、反撃が一切出来ないかのように抵抗をやめた。案の定拘束役は制圧に成功したと思い込み、無力化にそれ以上力を割かなかった。
本職に言わせれば手首を抑えた程度、拘束でも何でもない。そして、いつでも振り解けるという事はつまり、任意の決定的な瞬間を狙えるという事だ。
男達が全員間合いに入る瞬間、まさか反撃はされまいと油断する瞬間。そして、蚊帳の外でやり取りを眺める背後の男──その手の力が最も緩んだ瞬間を。
ノールックかつノーモーションで放たれた後ろ上段回し蹴りが、拘束役の男の頭を正確に襲う。衝撃と遠心力による軽いGを受けた男は防御姿勢さえ取れず、無抵抗のまま意識を手放した。
勢い一回転したリンの自由になった手中には、変わらず愛銃が収まっている。流れるような所作で構えると、リンは威嚇の意味で二発、ボクサーの周囲へと弾を撃ち込む。
慌てて距離を取るボクサーを尻目に、やや狙いをずらしてもう一発。金属バットを振りかぶって突進しようとしていた男が、慌てて地面に蹲る。
「テメェこのっ!」
ボクサーが大きく振りかぶり、右フックを繰り出す。自ら間合いを詰めたリンは、ボクサーの右腕に左腕と肩を当てて止める。更に一歩踏み込みつつ左肘で鎖骨の下を打つと、右手の銃床でその頭を打ち据えた。
高速で展開される攻防戦に、金属バットを手にした男は割って入ることも出来ずに二の足を踏んでいる。
「く、くそっ! これでも食らいやがれ‼︎」
遂に金属バットを投げ捨て、やけくそのように叫んだ男が腰の後ろに手を伸ばした。事前に隠し持ってはいたらしい小口径の自動式を、コンシールドのホルスターから不恰好に抜き、安全装置を外し、構え、狙いを付けたところで照星越しのリンの視線に射抜かれる。
「ヒィッ!」
男の悲鳴はリンの鋭い眼光にか、それとも手元で獲物が弾かれた衝撃にか。完全に戦意をへし折られた男に、しかしリンは狙いを定めたらしい。ボクサーの大振りの一撃を掻い潜った勢いで、徒手空拳で呆然とする男へと間合いを詰める。腹に左の足先で一撃、その衝撃で上体を折った男の頭を押さつけると、下から右膝を叩き込んだ。
敢え無く撃沈した男の持っていた銃は、何の因果か立ち尽くすクライヴの方へと飛んで行く。足元に滑って来た凶器を、クライヴは静かに見つめていた。躊躇いがちに拾い上げると、両手で緩く保持し、その引き金に指をかけ──構えることはしないまま、前線を見遣る。
拳を乱発するボクサーと、それをいなしつつ弾丸を叩き込む隙を窺うリンとの一騎打ちは、今や佳境を迎えていた。二人ともクライヴが飛び道具を手にした事には気付いていないようだ。
今のクライヴは直接的な戦闘の外にいる。ここから撃てば、おそらく一人くらいには致命的なダメージを与えることが出来るだろう。
──だが、誰を?
決まっている。本来のスタンスを貫くならば、市警の番犬以外にはあり得ない。ヴォルピーノのボス直々の刺客であるボクサーを撃てば、仮に今回を切り抜けたとしても後々まで禍根が残るだろう。
──だけど。
クライヴは迷いながら、ゆっくりと、手にした拳銃を構える。
瞬間、リンがクライヴの方へと視線を投げたのは偶然か、ごく僅かな殺気を拾ってか。少年が向ける銃口を目にして、リンの瞳に刹那の逡巡が過った。その迷いにつられるように、クライヴの照星が揺れる。
しかし同時にクライヴは目にしてしまう。リンの背後、クライヴには目もくれていないボクサーが、指を組んだ両手をリンへと振り下ろそうとしている所を。
揺れていたクライヴの銃口が、ぴたりと狙いを定める。
──乾いた発砲音が二発分、路地裏に響いた。
「ガアッ‼︎」
クライヴの発した弾丸は、ボクサーの右の肩と脇に命中した。力の抜けた右手のせいで、組んだ両手の狙いが逸れる。間一髪で脳天への直撃を免れたリンが、転がるように飛び退った。
「テメェ! 何しやが──」
ボクサーの言葉を待たずに、クライヴは続けて引き金を引く。今度の目的は制圧だ。二発、三発と立て続けに、碌に狙いもせずに撃ち続ける。全弾撃ち尽くしても構わない、とにかくボクサーが下手に身動きの取れないように銃弾を浴びせた。
何発が無駄弾になったのか、やがてクライヴの手元から、カチンと軽い音がする。弾切れだ。元々の弾数が分からないにしては持った方だろう。
「テメェこのクソガキがぁ──!」
いきり立ったボクサーの服には何ヶ所か血が滲んでいるが、どれも致命傷には至っていない。むしろ手負いの獣の凶暴性でもって、リンからクライヴへと標的を変える。展開を予想はすれど対処を思いついていなかったクライヴは、気圧されるままに数歩後退った。
ボクサーは、クライヴに向けて駆け出そうとして──その巨躯が吹っ飛んだ。
クライヴの制圧射撃の間に完全に体勢を立て直したリンによる、高い位置からの飛び蹴りだった。伸ばされた長い脚に安定した上体、縛られた後ろ髪が靡く様は、まるで映画かコミックのヒーローのようだ。ほんの一瞬の劇的な光景を、しかしクライヴは確かに目に焼き付けていた。ぞくりとその背筋が粟立つ。
──ああ、くそ。格好いいなぁ。
全体重を綺麗に乗せて踏み潰すような一撃は、ボクサーの巨体さえも呆気なく横倒しにした。ひらりと着地したリンは、上体を起こしかけているボクサーに駆け寄り、その背後を取る。しなやかに伸ばされたリンの両腕が、ボクサーの首に絡みつくと容赦なく締め上げた。
しかしボクサーも伊達にヴォルピーノの直属は名乗っていない。首を締められつつも立ち上がり、体躯だけでリンを背負うと、その質量差でもって振り落とした。
地面に叩きつけられると同時に受け身を取って、リンはすぐさま跳ね起きる。
そのまま仕切り直しかと思われたが、流石に場数はこなしているらしいボクサーは退き際というものを心得ていたようだ。
「クソっ、ふざけんなよこの野犬どもがぁッ! 絶対ぇ殺す、ハラワタ引きずり出してぶっ殺してやるからな‼︎」
派手に捨て台詞をがなり立てると、最初の数歩は後退るように、やがてぐるりと身を翻して走り去っていく。
──勝った、のか?
遠くなるボクサーの背中を呆然と眺めながら、クライヴは自問自答する。敵のうち二人は足下で伸びていて、残りの一人は逃げ出した。脅威は去り、こちらに死傷者は居ない。即ち、自分達の勝利だ。
そこまで確認してようやくじわりとこみ上げる達成感に任せ、クライヴはごく自然にリンの名前を呼ぶ。
「リン──」
安堵に口許を緩ませながら振り返った先で。
自分を狙い澄ます銃口と、目が合った。
「動くな。」
抑揚なく言い放たれて、思わずクライヴが身を竦める。リンが逃げるボクサーに追い討ちをかけなかったのはこのためだった。膝立ちの射撃姿勢からゆっくりと立ち上がるリンの眼からは、未だ敵意が消えていない。
──また、その目。
どうして、と思ってしまう。問うまでもない、最早リンと自分は敵同士なのだから。そもそも最初から、仲間などではなかったのだから。あの有能さなら、これだけ切り替えが早いのも当たり前だ。そうでなければ生き残れまい。
けれど、とクライヴは唇を噛む。けれど、こんな目で見られるだなんて思っていなかったのだ。最初に命を狙った時でさえ、リンは飄々と構えていた。思い返せばリンは応戦こそすれど、殺意はおろか敵意さえ示さしていなかった。だから、つい無意識に、期待してしまったのだろう。
──この人は、自分を拒絶はしないのではないか。
──例え味方ではなくとも、敵を倒せば、褒めてくれるのではないだろうか。
「……逃げないよ」
目を伏せて、クライヴが小さく呟く。手にしていた銃を力なく地面に落とすと、自ら肩の辺りまで手を挙げた。
「逃げない、から」
一歩歩み寄った瞬間に、銃を握るリンの手に力が込められる。そんな些細で当たり前のことにさえ傷付いている自分を自嘲しながら、クライヴは改めて問う。
「ねぇ。そっち、行っても良い? 何もしないし、どうせ何も持ってないから」
クライヴの問いに、一拍、考えるような間を空けて、リンは警戒しながらも首肯した。
「下手な動きを見せたら撃つ」
「……うん。いいよ、それで」
一つ頷くと、クライヴは緩慢な動作で距離を縮める。今度こそ、何もするつもりはなかった。既に万策尽きていたし、裏切りへの代償なら、この冷徹な視線だけで十分だ。
ゆっくりと、あるいは、とぼとぼと。緩慢な動作で歩みを進めたクライヴは、遂に銃口との距離をゼロにする。間近で向けられた凶器など、しかし目に入ってもいないように、クライヴはぽつりと呟いた。
「ねぇ、リン。手、出してよ」
ぴくりとリンの眉が跳ねる。しかし両手は銃に添えられたままだ。差し出される気配のない左手を、クライヴは見つめ続けている。
「……うん。まあ、そうだよね」
嘆息すると、クライヴは挙げていた手をゆっくりと動かしていく。手首の付け根を合わせると、リンの方へと差し出した。
「安心してよ、もう何も無い。おめでとう、俺の負けだ」
自らの敗北を宣言するその顔には、諦めたような笑みが浮かんでいた。




