5-4
「ちょっと付き合って欲しい所があるんだ」
捕り物劇でお預けになった「頼み事」を再度クライヴが切り出したのは、日差しの色に橙が混じり始める頃合いだった。怪訝な顔をするリンに向け、クライヴは目を伏せがちに事情を説明する。
「一回ちゃんとしておかなきゃって思ってたんだけど、一人じゃ……その、なんて言うか、思い切りがつかなくて」
言い淀みながら告げた台詞は、ヴォルピーノとの合流場所にリンを近付ける為の方便であり、一方で半ば本音でもあった。見破られるリスクがある以上、嘘はなるべく吐きたくない。「ちゃんとして」おきたい──自分の中で整理しておきたいことがあったのは本当だった。それに付き合ってくれる他人を欲していたことも。
それは、クライヴのし得る最大の自己開示。念には念を入れて用意した、人情につけ入るための切り札だった。
「ここか?」
リンの問いに、これまでと逆にその手を引いて来たクライヴが頷く。
やって来たのは街の外れに位置する港湾地区の、さらに外れにある川原だった。
グレイフォートの北の市境には海へと注ぐ大きな河が、南には湾がある。その河と湾を結ぶ運河として、人為的に作られたのが目の前の川だ。西側の市境でもあるその川の幅はそう広くなく、泳ぎの心得があればどうにか対岸の隣市を目指す事も不可能ではないだろう。しかし実際にはその深さが見た目以上にある事を、クライヴはよく知っていた。
何せ、実際に溺れかけたのだから。
「俺、昔の記憶無いって言ったでしょ。覚えてる限りで最初の記憶にあるのがここなんだよね」
リンの手を離すと、クライヴはべたりと地面に座り込む。歩いて来た道路から、ガードレールを乗り越えて一段下りた、水際まで五メートルもない狭い川原だ。すぐそこには対岸へ渡るための小さな橋が掛かっている。斜め下から見上げるその姿に、クライヴは覚えがあった。十年前の記憶にあるのは、おそらくこの場所で間違いない。
十年ぶりに同じ場所から眺める景色は、全てが記憶よりも一回りほど縮んで見えた。
「ちょうどこの辺のさ、河岸で。壊れたみたいに水吐きながら、まだ生きてるなって、それが最初」
その時の記憶は今でも克明に思い返せた。詰まる呼吸、纏わりついてくる水の重さ。死ぬかもしれないという、恐怖。それらが生々しく脳裏に浮かび上がる前に、クライヴは軽く頭を振って退けた。
──だから本当は嫌だったんだ、ここに来るのは。
一つ息を吐いて、クライヴは顔を上げる。どんな表情、どんな声を繕うべきか少しだけ迷って、結局それも定まらないまま、言葉を紡いだ。
「俺さぁ、突き落とされたんだよね。ああいう、橋の手摺りみたいな所から、誰かに背中を押されてさ。多分あれが、俺の親だ」
斜め後ろに立つリンは、一体どんな顔をして聞いているのか。こういう話も苦手そうだな、などとクライヴは思考を紛らわす。きっと居心地の悪そうなしかめっ面か、興味なさげな無表情だろう。
──少しくらい、動揺していればいいのに。だから何だというわけでもないけれど。
暫しの沈黙を経て、背後のリンから躊躇いがちに問いが飛んで来た。
「……顔は見たのか?」
らしくなく、捻りも何もない質問だった。クライヴは一つ苦笑すると、ゆっくりと首を振る。
「分かるよ。顔なんて見なくたって、それが今まで唯一自分と関わってくれてた手だってことくらい。……嫌でも、分かるよ」
いっそ、分からなければ幸せだったのかもしれない。ことその点に関しては、クライヴは自らの察しの良さを恨んでいた。もっとも、その直観力が無ければ今頃無事では済んでいないのだろうが。
「……そういうものか」
リンの返事は歯切れが悪いが、それ以上追求して来ることはなかった。実際、事実の突き止めようがないならクライヴ自身の所感が全てだ。ある種合理的な明晰さを持つリンが、それを理解しないはずもない。
「まあ、今はもう覚えてないんだけどね、なんにも」
努めて明るい声で、クライヴは自嘲する。
「きっとさ。こうして忘れるってことは、俺にとって親の記憶は必要なかったんだよ。俺の親が、俺のことを要らなかったみたいに」
それは、強がりでも何でもない、クライヴ自身の純粋な見解だった。
必要ならば覚えていたはずなのだ。自分の名前や字の読み方や、簡単な計算、街の様子、そんな他の知識と一緒に。覚えていなかったということは、それだけ意味のないものだったのだろう。
実際、覚えていたって仕方がない。自分を捨てた、親のことなど。
──だけど、と。そう言葉を続けてしまうのは、単なる弱さか、あるいは未練にも似た何かか。後者ではあって欲しくないと思いながら、クライヴは先を吐き出した。
「だけどさ。親に手を引かれて、笑って歩いてるようなガキ見る度に思うんだ。だったら俺の生まれてから五年だか六年だかの人生は、一体何だったの? 何にも覚えてなくたって、生きてたのだけは確かなはずだろ。なのに何にも残ってないのはどうして? 何も出来なかったから? 誰にも必要とされなかったから?
──それってさ。今と、何が違うの」
自分を使いたいと言われることと、自身を求められることとは違う。十六年という、決して長くはない人生で──否、失くしてしまった幼少期を含めれば僅か十年で──聡明な少年は、その差をはっきりと理解していた。
クライヴの持つ何がしかを求める者は、それこそ掃いて捨てたくなるほどに居た。ある者は少年の戦力を。ある者は少年の外見と身体を。求められる度、クライヴは二足三文の金でそれらを売り渡した。
だが、クライヴのお蔭で地位を得たマフィアの幹部も、数度に渡って肌を重ねた常連客も、クライヴ自身を庇護してくれることはなかった。言われた通りの仕事をこなしたクライヴに、言った通りの金を寄越して、そこまでだ。
これまでにたった一人だけ、戦闘力を目当てに長期連携を提案してきた男がいたが──彼は知り合って半月と経たぬうち、ヴォルピーノの手下に殺された。自身もヴォルピーノの傘下で、ハーギンという男の下につき、彼の事務所から金をちょろまかしていた小悪党だった。だが、それにしたって腕の立つ駒が欲しかっただけの話だ。クライヴでなければいけない理由などない。
結局、クライヴという少年と真正面から向き合った人間は、一人としていなかった。
「皆、俺をいいように利用する癖に。俺のことは、要らないんだって」
それが、クライヴが今日、自身にとっての鬼門へとわざわざ足を運んだ理由だ。
ずっと、ここに囚われている気がしていた。お前は『要らない子』なのだと、この場所から言われ続けている気がした。それをどうにかしない限りは、何も残らず、何も残せないままだろうという、漠然とした予感があった。跡形もなく消えてしまっても、何一つ支障のないものだった、自身の幼少期と同じように。
あるいは。
それさえどうにかすれば、もしかして──そんな、淡い希望だったのかも知れない。
もっとも、そんなに上手く行く訳がない事は分かり切っている。自嘲する気さえ起きずに、クライヴは目を伏せた。
──もう良い。もう十分だろう。
諸刃の剣なのは重々承知していたが、思いの外ダメージが大きすぎた。自ら傷口を抉るのは決して愉快な行為でないが、これで同情の一つでも買えれば甲斐もあったというものだ。決して安い買い物ではなかったけれど。
──だから、これ以上考えるのはやめてしまえ。ここから立ち上がれなくなる前に。
そう思いながらも、既に拒絶反応を示し始めた身体は指先一つ動かしたくないと主張を始めている。何を拒絶したいのかさえ、クライヴ自身判然としていないというのに。
小さく丸まったクライヴの背中に、不意に無遠慮な声が浴びせられた。
「そうだな。そんな余裕がある奴なんか居ないだろ、今のこの街に」
何処か投げ遣りに言って、リンはクライヴの隣にしゃがみ込んだ。並み以上の質のスーツと革靴で躊躇い無く繰り出される所謂ヤンキー座りに、思わずギョッとするクライヴ。しかしリンは気にする事なく、嘆息混じりで続ける。
「それこそ、福祉系の連中相手にでも上手いことやりゃ良かったんだよ、お前は。児童保護施設の職員も、青年課の警官も、お前の所に行かなかった訳じゃないだろ? 確かに多少胡散臭いが、上手く使えばそこらの不良共よりかはよっぽど──」
「……何それ。冗談だろ?」
リンの言葉を遮って零したはずの冷笑は、引き攣った笑いにしかならなかった。
──アンタでさえも、この期に及んで、そんな事しか言えないのかよ。
確かにリンの言う通り、福祉と人道を掲げたような連中は、クライヴの元にも数度訪れた。だが結局の所、ある者は肩を落として、またある者はクライヴを怒鳴りつけて──しかし例外なく全員が、時間を無駄にして帰って行った。クライヴと彼らの間の溝が、手を借りるとか利用するとかいう次元でさえない事に、誰一人として気付かないまま。
そんな連中と同じような独善を、よりによってこの人の口からも聞く羽目になるとは。失望に任せて、クライヴはリンに食ってかかる。
「あいつらに俺の事なんか分かる訳ない。だってあいつら、全部持ってるじゃないか……!」
衝動に任せて地面を殴りつけてみても、固すぎる手応えだけで何の音もしない。代わりに拳に重心を預け、リンへと身を乗り出して、クライヴは先を言い募る。
「あったかい食事も、帰れる場所も、呼べる名前も縋れる手もみんな! ホントの意味で欲しいと思った事のある奴なんか、一人だって居やしないのに! これ以外に選びようのなかった人間がどんな思いで生きて来たかなんて知らない癖に、知ったところで『カワイソウ』だから与えましょうって見え見えの偽善しか寄越さない癖に!」
ギリ、と両の拳を握り締める。包帯の巻かれた左手に走った痛みにむしろ鼓舞されるようにして、クライヴは抱えていた怒りを吐き捨てた。
「あいつらこそ『俺』に関心なんて無いじゃないか。そんなのに縋って生きる程、俺はまだ落ちてない……!」
それは、まるで言い聞かせるような激昂。ともすればとっくに心折れていてもおかしくはないクライヴを未だ踏み止まらせているものは、そこまで惨めに地に落ちてなどやるものかという、最後に残った意地だけだった。
荒く呼吸をするクライヴを、リンはほんの少し驚いたように見つめる。
しかし、返した言葉は酷く簡素だった。
「……そうか。そうだな」
余りにも呆気なく放たれた同意の言葉。吹けば飛びそうなその軽さに、クライヴの頭に一気に血が上る。口の端を歪めて、煽るように、蔑むようにリンに問うた。
「そうって何が? アンタにだって分かる訳──」
「単に『そういう世界』に居たってだけなのにな、お前も」
ぽつりと零された台詞に、クライヴは思わず言葉を止めた。その内容もさる事ながら、リンの視線も発した言葉も、既に不遇な少年には向けられていなかったからだ。
リンは徐に立ち上がるとふらりと歩み出て、いつの間にか拾っていたらしい小石を川へと投げる。綺麗な放物線を描いた小石は、ぼちゃりと汚い音を立てて水底に沈んでいった。
リンは遠く対岸を見つめたまま、抑えたような声で続ける。
「一歩間違えれば簡単に命が飛ぶのも、そこから逃げ出しようがないのも、生まれた時から『当たり前』で。だから必死で戦って、生き残って来たのにな。それを今更可哀想だなんて、安全圏から善人ぶって同情されても、そんなの侮辱同然だ。弱者には手を差し伸べましょうなんて、ぬくぬく生きて来た凡人風情が舐めんじゃねーよって話だよな」
はっと、クライヴが息を呑む。この手の話での反復に、同意出来ると思ったのは初めてだった。どころかリンの言葉は、クライヴ自身が曖昧なまま抱えていた想いを、一つ一つ浮き彫りにする。まるで自分でも把握し切れていない心情を、自分よりも上手く言語化されてでもいるかのようだ。クリティカルに過ぎる洞察に、ぎくりと心臓が跳ね上がる。
思わず身を強張らせたクライヴなど意識に無いかのように、リンは頑なに向こう岸から目を逸らさない。
川の反対側、隣町の川岸に面しているのは閑静な住宅街だ。煌びやかなグレイフォートとは対照的な、簡素な家々が並んでいる。点々と控えめに灯り始めている明かりの下では、温かな一家団欒の準備が進められていることだろう。
──あちら側に流れ着いていたら、あるいは。
そう思った事が、クライヴにも何度かあった。しかし、それはどこまで行っても「もしも」でしかない。
何故ならば。対岸は、外から蝕まれるのを怖がるように、コンクリートで固められていたからだ。今のクライヴならいざ知らず、たった六歳の小さな身体にとっては、決して登れない絶壁だった。あちら側に流されていたら、恐らく今、こうして生きてはいないだろう。
その向こう岸に向け、リンがもう一度石を放る。先程よりも少し飛距離を伸ばした小石は、しかし同じように川底へと沈んだ。
「同情と引き換えに見下されて、安寧の為に弱者に成り下がって。だったら『使って』くれる連中の方がまだマシだ。連中が骨の髄まで利用し尽くして来るってのは、即ち自分に『価値』がある証拠に他ならない。
だからこっちを選んでしまった。例え、誰も味方になってくれなくても。そのまま使い潰されるのが目に見えていたとしても」
最早リンは視界の端にもクライヴを収めていない。クライヴの表情も態度も何一つ読み取れないこの状況で、こちらの思考をどうしてこうもなぞり切れるのか。善人ぶって手を伸ばして来た連中も、こちらを容赦なく食い物にして来た連中も、一人だって理解を示さなかったこの生き方を。
──何よりも。
リンの操る言の葉は、機械的な思考のトレースと言うには、あまりに独白じみていた。
「アンタ、は……何で、そんなことまで」
クライヴの洩らした震える声も意に介さず、リンはきっぱりと言い放つ。
「同情はしてやらない。偽善で出来た安い平穏を蹴ったのはお前自身だ。でも、それを間違いだとも言わないよ、私は」
そこで言葉を切ったリンは、ただ、とほんの少しだけ言い淀んだ。手の中に残った平たい小石を数度宙に遊ばせると、きゅっと手中に握り込む。
「ただ、覚悟はした方が良い。こっちの道で中途半端に希望なんてモノを抱えていると、転んだ時に怪我をする。致命傷になるかも知れないぜ」
言い切ると同時に、リンがもう一度小石を投げた。今度はこれまでのような放物線ではなく、鋭利なサイドスローだ。水面を跳ねるように弾んだ石は、今度こそ対岸のコンクリート壁まで届く。
──パチン。
小さな音が弾けて、小石は三度、水中へと没して行った。
「……何でアンタまで、そんなこと言うの」
震える声で、クライヴが呟いた。それに反応したのか、それともただの気紛れか、リンが背後を振り返る。向けられた仮面のような無表情に、クライヴは一瞬顔を歪め、視線を落とした。
消沈したように見えたクライヴは、しかしリンに向けてゆっくりと右手を差し出す。流石に予想外だったのか、リンの眉が跳ねた。
クライヴは顔を伏せたまま、リンに手を伸ばしながら呼び掛ける。
「ねえリン、俺さ、親に捨てられたんだ。今日みたいに手を引かれて歩いたのさえ、俺にとっては初めてなんだよ」
弱々しい声が、小さく揺れる。
「ねぇ、リン。どうして、俺だけ──何で、俺だったの」
これ以上ないほど切実に、答えを欲している問いだった。
誰の視線も無い中で、リンは一人、顔を顰める。静かに一つ嘆息すると、リンはクライヴへと歩み寄った。
「何て言えば満足だ?」
突き放すような台詞と裏腹に、リンは右手でしっかりとクライヴの手首を掴む。力任せにぐいと引っ張りながら、クライヴの問い掛けを切って捨てた。
「理由なんて無い。強いて言うなら、運が悪かっただけだ」
「そんなのって……!」
勢い立ち上がりながら、クライヴがリンに抗議する。だが、当初の威勢はリンの顔を見て急速に萎んで行った。
「そんな怖い顔するくらいなら、そんな風に言わないでよ……」
リンの険しい表情は、つい今しがた、クライヴの縋るような問いを呆気なく切り捨てた人間のものとは信じ難い。それほどに、苦悩と苦渋に満ち満ちた顔だった。
「行くぞ。もう気は済んだだろ」
眉根を寄せたままのリンは一度クライヴの手を離し、改めて左手を差し出してくる。
「……うん、そうだね」
そっと右手を添えれば、今度は適度な力加減で手を引かれる。心地良い誘導に、クライヴは素直に付き従った。
丁重なエスコートに反して、リンは未だ渋面を崩さない。硬い横顔を盗み見るクライヴの脳裏に、ふと、これ以上ない愚問が過ぎった。
それは愚問と知っていてなお、目を背ける事の出来ない仮想の話。
──ねえ、リン。
──もしもアンタが俺の親なら、俺を捨てたりしなかったかな。
あり得ようもない夢に思いを馳せたのは、しかし束の間の事だった。容赦のない現実が、クライヴの淡い幻想をを凍りつかせる。
クライヴの手を引いて、リンが一歩を踏み出す。その足先は、クライヴが誘導するまでもなく、繁華街──ヴォルピーノとの合流地点へと向けられていた。
それに気付いてしまったクライヴが、ほんの一瞬、歩き始める事を躊躇う。
「どうした?」
繋いだ手に突然伝わった抵抗に、リンが訝しげにクライヴを振り返る。まだ険しさの抜け切らない顔には、しかし確かにクライヴへの心配の色があった。
リンとまともに目を合わせてしまったクライヴが、僅かに言葉を詰まらせる。自分でも判然としないまま、何かを言おうと口を開いきかけて──しかし何も言えないまま、クライヴは口を引き結んだ。
「……ううん。何でもないよ」
緩やかに首を振ると、クライヴは無理矢理に笑顔を取り繕った。
──そうだ、愚問にも程がある。
──だって、このひとは。
──俺が今から、殺すひとだ。




