5-3
話は署で、と言っておきながら、リンは港湾分署には戻らなかった。逮捕の現場から署に連絡して応援を呼びつけると、適当に犯人を引き渡す。昨日クライヴがされた扱いと同じ流れだ。
そのクライヴはと言えば、犯人引き渡しの一部始終を、通りに並ぶベンチの一つに腰掛けて眺めていた。刑事ドラマのようなワンシーンの伴は、今日は引き渡される側ではないという優越感と、じわじわと主張を始めた掌の痛みだ。
先程の捕り物で、クライヴは左掌をそこそこ派手に擦りむいていた。男と一緒に倒れ込んだ時に擦ったらしい。その場では興奮状態も相まって大した事はないと思っていたが、改めて見ると中々派手にに血が滲んでいる。クールダウンした今、痺れるようなその痛みはクライヴのささやかな悦楽に水を差していた。
「クライヴ」
一通りの手続きを終えたのか、リンがこちらへと戻って来る。
「良い反応だった、助かったよ。手、大丈夫か」
咥え煙草で左手をスーツのポケットに突っ込んだリンは、それこそドラマのワンシーンのように様になっている。微笑とまでは行かないが、いつにない表情の柔らかさもその一因だろう。含みも裏もない賞賛と心配に居心地の悪さを覚えて、クライヴはぶっきらぼうに言葉を返した。
「別に平気だよ、これくらい。慣れてるし」
「見せてみろ」
端的な要求と共に、リンがクライヴの左手を取る。暫し傷口を観察すると、顔をしかめて呟いた。
「傷はともかく、砂利が酷いな……消毒くらいはしておいた方がいいか」
「大袈裟だよ、大丈夫だってば」
リンの気遣いを、クライヴは即座に固辞する。今回の負傷はクライヴ自身が勝手に動いて、その結果勝手に負ったものだ。一応見返りの形を取っていた今までと違い、今回は何となく、純粋に借りを作ってしまうようで嫌だった。
クライヴは意地になって手を引こうとするが、その手をしっかりと掴んで離さないリンが苦言を呈する。
「バカ言え、万が一今夜悪化してみろ。治療費こっち持ちで保険効かないんだからな」
「いや知るかよ! 水で洗っておけば大丈夫だって、こっちはそれでこれまでやって来てるんだから!」
聞き分けのないクライヴに痺れを切らしたのか、リンはクライヴの手首をぐいと引いて、至近距離から半眼で睨みつける。
「良いから来い、お前だって今後ナイフ握れなくなったら困るだろ?」
その脅しにクライヴが目に見えて怯む。武器を握れないというのは、これまで通りの生活を続ける上では致命的だ。言葉に詰まったクライヴは、しかし往生際悪く反論する。
「……そうはならないでしょ」
「なるんだなぁ。切り傷ほっといて最終的に親指切り落とした奴とか割とザラだぞ。嘘だと思うなら、ほら」
リンは携帯端末を取り出すと、二、三の操作をしてクライヴに渡す。
見せられた画像に顔を青くしたクライヴは、今度こそ完全に沈黙した。
結局、近くのコンビニで諸々の道具一式を調達してきたリンにより、クライヴの傷口にミネラルウォーターがぶち撒けられる運びとなった。人は少ないが直結する表通りのお蔭でそこまで物騒ではない、そんな適当な路地を見つけて、リンは調達してきた簡易応急道具一式を広げる。先刻まで咥えていた煙草は既に携帯灰皿の中に収まっていた。
パキリと音を立ててペットボトルの蓋を開けると、躊躇いなく傷口に水をかけるリン。流石にこれは慣れているのか、クライヴも顔をしかめるだけでやり過ごす。だが、その水分をガーゼで軽く拭った後、消毒液をかけられた瞬間に、少年の地獄はやって来た。
「い゛っ⁉︎」
潰れたカエルのような声を上げると、思わず左手首を抑えて縮こまる。痛みへの条件反射で、クライヴの瞳には生理的な涙が滲んだ。
「〜〜何これ、ホントに必要⁉︎ むしろ大丈夫なの⁉︎ ヤバい感じしかしないんだけど!」
悲鳴のように叫ぶクライヴに、流石のリンも驚きを隠し切れなかったらしい。
「何だよ、消毒にビビってんのかと思ったらそもそも初めてなのか?」
目を丸くしたリンだが、すぐに気を取り直すと全身を強張らせているクライヴの背中をどうどう、と軽く撫でてやる。
「かけてるのはただのアルコールだ、害はない。むしろ外からの細菌を殺すから、傷口が膿んだりするのを防げる」
簡単に行為を説明していると、クライヴがふっと顔を上げた。涙の滲む目のままで、不思議そうに単語を繰り返す。
「サイキン?」
外国語のように呟いて首を傾げるクライヴに、どうした急に、と訊ね返しそうになるリン。しかし寸前で踏み止まると、難しい顔で頭を掻いた。
「いや、あー……」
普段は話が通じているから別段意識されないが、教育施設に通った事のないクライヴには基本的に学が無い。思わぬ所で疑問符を返されて、どう言ったものかとリンは暫し考え込む。
「そうだなぁ。お前、怪我した後何日かして、傷口が酷いことになった経験は?」
「酷い……? あ、そうだ」
何の自慢にもならないが、綱渡りのような生活をしている身の上、怪我の経験自体は豊富にあった。それらをざっくりと思い返したクライヴは、一つの心当たりを見出す。
「結構前に肘のとこを、やっぱりこんな感じで怪我したかも。その時は何か汁みたいなのが出て来て、しばらく止まらなくて大変だったかな……そう言えばあの時も、その後取った客に酒かけられて酷い目に遭ったっけ」
「それ……は、消毒かぁ?」
付け加えられた頓狂な事例に、今度はリンが首を捻る番だ。釈然としない表情で呻く。
「下手に混ぜ物だと悪化しかねないからなぁ」
「いや、嫌がらせみたいに強い酒だったけど」
「銘柄は?」
「スピリタス・ウォッカ」
「……うん、紛れもなく消毒だな、それは。」
呆れ半分に呟いて、リンはクライヴの傷の周りの湿り気を拭いていく。ガーゼの端が傷にかすめる度に小さく呻くクライヴの気を紛らわせるように、口頭では保健衛生の講義を続ける。
「まあ何にせよ、その時の傷が膿んでるって状態だ。身体に良くないものが外から入って来て、それをどうにか外に戻そうとしてる訳だな。その入ったらマズいものが細菌。それを上手く出せないまま放っておくと、そこから病気になったりする。最悪の場合はさっき見せたあのザマだ」
「げぇ……」
目一杯に顔をしかめるクライヴ。それに苦笑を零しつつ、リンはクライヴの傷口にガーゼをあてた。
「良かったな、前はタイミング良く上客に当たって」
言いながらするすると、慣れた手つきで包帯を巻いていくリン。とは言えつい作業箇所に顔を近づけてしまうようで、軽く上体を屈める姿勢になっているのはご愛嬌だ。距離が近いのは経験済みだが相手の意識がこちらに無いのは初めてだなと、手持ち無沙汰のクライヴはリンの顔をまじまじと観察し始めた。
目元にかかる黒髪は癖一つないストレート。その下の睫毛は長くはないが意外にも量が多い、あの眼力にも頷ける。更に視線を下げれば、ややずり落ちた眼鏡のパッドが、鼻筋に跡を残していた。間の抜けた痕跡に、この人も人間だったのかとクライヴは思わず目を見張る。
そうして視線を滑らせたクライヴは、耳の付け根辺りから垂れる後れ毛の合間に見覚えのあるものを見つけて、無意識のうちに声を漏らした。
「……顔」
「ん?」
クライヴの呟きに応じて視線を上げたリンの右頰を、右手の甲でそっと撫でる。
「昨日の。……ごめん」
クライヴが触れたすぐ隣には、目立たぬほどに細いかさぶたがあった。この様子なら痕も残らないような、小さな傷跡。リン自身は特に意識もしていないようだが、今までの話を聞いてしまうと、傷を付けた当人としては思う所が無いでもない。
しかし当の本人は指摘されて尚気にした様子もない。ああ、と頷く声はあくまでも軽かった。
「男前が上がったろ」
自信たっぷりに言い放つと、あまつさえニヤリと笑って見せる始末だ。
言葉通り男前な──否や、些か男前に過ぎる反応に、クライヴは大きく息を吐く。
「上げてどうすんのさ、そんなもの。もうちょっと大事にしたら? 折角綺麗な顔してるんだし」
勿体ない、と視線を上げれば、毒気を抜かれた顔できょとんとしているリンと目が合った。その唇から一拍置いてふは、と漏れたのは、溜息ではなく笑声だ。
あはははは! と威勢良く上げられた笑い声に、クライヴは再度身を強張らせる。今回は勿論驚きで、だ。大口を開けて笑うタイプには見えなかったが、当のリンは今まさに、発作じみた大笑いを晒していた。
突然のギャップはさておくとしても、一体何がそこまで面白いのか。心当たりのないクライヴが困惑していると、笑いの合間を縫ったリンが息も絶え絶えに発言する。
「綺麗、綺麗か! 流石にそれは初めて言われた、やっぱ手練れは言うことが違うな!」
予想外の指摘に、完全に虚を突かれたクライヴが二の句を失った。
「えっ。いや、だって」
単純に、顔の良い部類ではあるだろう。切れ長の目に細い眉、すっと通った鼻梁の下の薄い唇。それらに対して綺麗という形容を使っても差し支えない程度には、その形状も配置も整っている。だからクライヴにしてみれば、単なる事実を述べたつもりだった。
だが心底可笑しそうに笑うリンを見て、改めて自分の言を顧みれば、途端に小っ恥ずかしくなって来る。
──いや、いやいや。仮に顔が良いのが事実だとしてもだ。
──安い口説き文句じゃあるまいし、何だよ綺麗って。
その間も笑い続けているリンは、どうやら妙なツボに入ってしまったらしい、落ち着く気配を一切見せない。ついに羞恥に耐えられなくなったクライヴが逆ギレを始める。
「ああもう、笑うなよ! 別にそういうんじゃないし、大体アンタどんだけ造りが良くても目が壊滅的に怖いんだよ! だから──ねぇちょっと聞いてる⁉︎」
肩で息をするリンを、無事な右手でばしばしとはたくクライヴ。悪い、ちょっとと言いながら最終的に落ち着くまでの三分間、クライヴはリンに容赦のない平手を浴びせ続けたのだった。




