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朝は嫌いだ、と、クライヴは思う。
朝になればまた一日が、否応なしに始まってしまう。また一日、生きて行かなくてはならない。死にたくないのである以上、朝でも昼でも夜でも同じことではあるのだろう。だが朝は一際酷薄に、生きることを強いてくる。
それはまだ幼かったクライヴが背中を押されたあの日から、絶えず胸中に残り続けているものにも似ていた。
薄氷のような、漠然とした絶望感。
大気以上に薄ら寒いものを感じながら、いつもクライヴの朝は始まった。
昨晩は気が乗らなかったので、客は取らずに野宿をした。幸い天候も穏やかで、クライヴは街の中心部に位置する公園の隅の茂みの影で、一枚きりの毛布にくるまって眠っていた。
朝露で湿った毛布を気休め程度にばたばたと乾かし、小さく畳んで鞄に入れる。収納性の高い大きな肩掛け鞄は、宿無しの生活においては大変重宝していた。
所謂ホームレス、あるいはストリートチルドレンというのが今のクライヴの身分で、となると何処を寝床に定めようとも、他人に見咎められる前に起きねばならない。だから殆ど日の出と同時に目覚めるのが、彼の身に染み付いた習慣だった。
とはいえ街が動き出すまでは行くあてもない。クライヴは朝の散歩の最中ですよと言わんばかりの何食わぬ顔で、そのまま公園のベンチに居座った。よく見れば、その身に纏うモッズコートは薄汚れている。布団代わりに着たまま横になっていたためだ。その下のパーカーもカーゴパンツも布を持て余しているのは、彼が華奢だというよりは、元は誰のものとも知れないそれらの大きさによるものだった。
日が昇るにつれ、ジョギングをする者や犬の散歩をする者などが、ぽつりぽつりと往来を始める。やがて公園の前の道が各々の職場や学校に向かう通行人、早朝パトロールの警官などで賑わうようになる頃には、公園のベンチにひとり座り続ける薄汚れた格好の少年は否が応でも目についた。
頃合いを見計らって、クライヴはベンチから立ち上がる。まるで辺りを行く人々同様、当たり前に目的地があるような顔をして、行くあてもないままに公園を後にした。
通りに出てすぐに張り付いた下手糞な尾行には当初から気付いていた。ここの所引っ切り無しに人の後ろをつけてくる連中がいて、いい加減に嫌気が差していたのだ。だから自ら人気の無い路地に誘導したし、腕を掴まれた瞬間に酷く怯えた表情を作って見せることが出来た。
「お前がクライヴだな。ハーギンの事務所を壊滅させやがった『狂犬』野郎」
不躾に言い放った男は、まあ典型的な不良だった。口と鼻にピアスを空けて、黒髪を縮れさせた二十歳そこそこの若者。浅黒い肌はヒスパニック系だろうか。
対するクライヴは声を震わせ、あまつさえ涙目まで作りながら答える。自分を一晩いくらで買う下衆が居る程度には自分の顔が良いことを、クライヴは十二分に自覚していた。
「だ、誰のこと? 俺は、」
「惚けんじゃねぇ。報告は上がってんだ、その手にゃ乗らねぇよクソガキが」
渾身の演技はしかし、ありきたりな恫喝によって一蹴された。むしろ強まる腕の拘束に、クライヴは一つ舌打ちをする。うっすら涙さえ湛えていた双眸に、途端に冷えた色が浮かんだ。癖の強い黒髪の下、剣呑な様子ですっと細められたスモークブルーの瞳が無遠慮に男を射抜く。
「……だったら何だよ」
「来い」
端的な男の指示に従う気は、当然ながらクライヴには無い。反抗的な視線を投げつつ、こちらも簡素に食い下がる。
「何処に。なんで。」
「うるっせえなクソガキがぁ!」
途端に声を荒げる男。クライヴに摑みかかると、その胸倉を乱暴に締め上げた。
「来いつったら黙って来るんだよアァ⁈ ごちゃごちゃ抜かしてんじゃねぇよぶっ飛ばすぞ!」
片腕で襟元を捻り上げられ、額の接する距離で凄まれて尚、クライヴの視線は冷ややかだ。
──うるさいのはそっちだろ。
そんな所感は流石に胸中に留め、クライヴは対応を考える。
今目の前に姿を見せているのはこの男だけだが、察するに彼等は複数犯のはずだった。尾行の手際を鑑みれば、最低でも三人から。今ここに居ない連中の動きは気掛かりだが、比較的穏便に逃走するなら相手が単独の今だろう。
決断するや否や、クライヴは胸倉を掴む男の内肘めがけて肘鉄を食らわせる。勢いで縮まる間合いのままに、男の腕に外側から自身の腕を絡ませ、喉元を打つようにして押し倒す。
「──がっ⁈」
果たして驚きにか痛みにか、ようやく声をあげる男。肘の関節を極められた上に気道への打撃をまともに食らい、男は為す術もなく尻餅をついた。
男が立ち上がるまでの隙をついて、クライヴは淀みない手付きで鞄から拳銃を取り出す。大口径の自動式は、いつだったか取った客に襲われそうになった時、返り討ちにして得た戦利品だ。その持ち手ではなく銃身を握ると、クライヴは立ち上がりかけの男のこめかみを狙って横薙ぎに銃をスイングした。グリップの先に、ガツッという鈍い手応え。そのまま勢い任せに振り抜けば、男はあっさりと地面に倒れた。
構えを解かずに警戒すること数拍、しかし男は起き上がるどころか指先一つ動かす気配が無い。
「……は?」
あまりの呆気なさに、クライヴは思わず気の抜けた声を上げる。
「何こいつ。今までのがよっぽどマシだったんだけど」
これまでも複数人で掛かってきた追手を、クライヴはこの半月ほど、悉く撃退してきた。病院送りは勿論のこと、直行便で地獄まで送ってやった相手だって一人ではない。そんな腕利きの少年に対し、事ここに及んでわざわざ単独で挑んで来たのだ。ある程度の手応えを覚悟していただけに、困惑したクライヴはほんの一時、事が済んだら即時離脱のポリシーを忘れて考え込んでしまう。
それこそが敵の思惑だと気付いたのは、鷹揚な声が響いてからだった。
「誰がそいつ一人だと言った?」
はっとして振り返った先から、一人の男が悠然と歩いて来た。細身のスーツにサイケデリックな色の開襟のシャツを合わせている。それに合わせて周囲の小道からわらわらと、大小の銃を構えた男達が八人ほど。
ならばと来た道、大通りの方に身を翻すと、丁度男が二人こちらに曲がって来た所だった。彼等は路地の影に入るとすぐに、懐から大口径の拳銃を取り出しクライヴに向ける。
舌打ちをするクライヴに、スーツの男は粘着質な笑みを浮かべて語りかけた。
「いい朝だなぁ、『狂犬』」
「さあ? 筋者が揃って浮かれて朝の散歩をする程とは思えないけど」
挑発的な台詞とは裏腹に、手元の拳銃は銃口を上げるタイミングを逃したままきつく握られている。ある程度の伏兵は予想していたが、ここまでの「御一行」だとは思わなかった。僅かなクライヴの焦燥を嗅ぎ取ってか、男は「そう粋がるなよ」と鼻で笑うと、周辺の男達に向けて軽く手を上げて合図した。
「おい、下げろ」
男の指示を受け、クライヴに向けられていた銃口がゆっくりと下げられる。下手な事をすれば撃つという緊張感は変わらず漂わせながら、しかしすぐに全ての銃がその照準からクライヴを外した。
「……何のつもりだよ? あんたらあの女狐の手先だろ」
端的な疑問に、スーツの男は大仰な身振りで応える。
「その通り、俺らのボスはヴォルピーノだ。だがテメェをどうこうする気はねぇ、今日は交渉に来たんだよ。テメェもそろそろ追いかけっこには飽き飽きだろ? 俺らもテメェにばっか構ってはいられねぇ。ここらでお互い示談と行こうや」
「……ふうん?」
男の話を受け、クライヴは一つ息をつく。銃を握る手に込められた力が少し緩んだ。
「悪い話じゃなさそうだな? その話が本当なら、だけど」
「嘘じゃねぇさ、俺が直々にルチア・ヴォルピーノに掛け合ってやったんだからな。元々テメェが潰したハーギンの組は借金だらけだったんだ。それを手っ取り早くリストラしてくれたってのに、総出で追い回すなんて酷い話じゃねぇかってよ」
「はっ、手勢が減るからの間違いじゃないのか?」
この期に及んで鼻で笑ってみせるクライヴに、流石に男の顔から笑みが消えた。
「……人の話は黙って聞くもんだぜ、ガキが」
しかしドスの効いた声も一瞬の事で、男の顔にはすぐにニヤついた笑いが復活する。いやに神経を逆撫でするその笑い顔に阻まれ、クライヴは男の腹の底を測りかねていた。
「まあそんな訳でだ。俺はボスに言ってやったんだよ。これ以上は埒が明かねぇ、腕前は保証されてる『狂犬』にもっと面倒な奴を狩らせて、それで手打ちにしたらどうですかってな」
「もっと面倒な奴?」
突然の第三者の登場に、思わずクライヴは訊き返した。男達から見た自分の立場は十分理解しているつもりだ。それより面倒な存在と言われると、街の裏事情にはそこそこ明るいはずのクライヴにも思い当たる節が無い。
「こっから先は事務所で話す。俺達と一緒に来い」
相変わらずの笑みと共に放られた男の誘いを、クライヴは脳裏で吟味する。
確かにこの半月の間、少し大きな通りを歩こうものなら端から追手がやって来て、鬱陶しいことこの上かった。お陰でどの稼業でも満足に客が取れず、正直限界を感じつつもあった。たかが暗殺依頼一つでその煩わしさが無くなるのなら、クライヴとしてはむしろ乗らない理由が無い。
──万一嵌められたところで、その場を切り抜けるくらいは出来る程度の相手だし。
そう結論付けて、クライヴは一つ頷いたのだった。




