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「……何で、あんな」
ホワイトの姿が見えなくなったのを確認して、クライヴがぽつりと呟く。誰に問うでもなかった不服げなそれを、しかしリンは耳聡く拾い上げた。
「お前に手を出されると流石に困るんだよ。あれでも一応警官で、ここは路地裏じゃなく市警本部だ」
「そうじゃない」
リンの寄越した回答に、クライヴは首を横に振る。彼女は何故か、『何であんなのへの反撃を止めたのか』という意味合いでクライヴの呟きを解釈したようだ。確かにそれも不服ではあったが、流石のクライヴも市警本部で事を起こす程やんちゃでは、もとい、無謀ではない。
どうにも感性のズレているらしいリンだが、それを補って余りある頭の回転で即座に「ああ、話の中身か?」と軌道を修正する。
「前に居たのが内部監査の部署だったんだ。ノーリッシュみたいな裏切り者を炙り出して何人か処分したからな。そこそこ恨み買ってんだよ」
「同士討ちって事? なんだ、どっちが裏切り者か分かんないじゃん」
「ま、そういう事──」
だな、とあっさり肯定しかけたリンの言葉は、しかし言い終わらぬうちに途切れた。同時に歩みも再び止まる。またか、とクライヴがその顔を覗き込めば、リンは今度こそ本気で驚いた顔をしていた。眉をひそめて目を見張るその表情は、驚愕──否。
──これはむしろ、戦慄か?
らしくない反応をまじまじと観察するクライヴには目もくれず、リンの口元が、ハマー、と小さく動く。それを見て取ったクライヴは、咄嗟にリンの視線を辿った。
恐らく彼女の視界に居るだろう人間は、朝から軽口を叩き合う若手の制服警官達、気怠げなスーツ姿の中年刑事、そして。
「おはようございます、フライアーズ警部補」
自らそうリンに声をかけてきたのは、私服の男性刑事だった。柔和そうな顔立ちに、仕立ての良さそうなライトグレーのスーツ。雰囲気は若いがリンよりは明らかに年嵩だ。三十代の前半から半ばといった所だろうか。
「どうしてここに? ハマー巡査部長」
そう応じた時には既に、リンは普段通りの笑顔を取り繕っている。処世術で済ませるには不穏なほどの変わり身の早さだった。
対するハマーもにこやかな笑顔でリンの問いに答える。
「昨日に引き続き本日もこちらだと、アオヤマ巡査に伺ったので」
ああ、と答えるリンの語尾が揺れる。歯切れの悪い返事から分かりやすく唸って見せた後、リンは恐縮そうにハマーに告げた。
「悪いが今日一日は外に出る。貴方はここで例の件を洗っておいてくれ」
「そうですか……」
リンの指示に、目に見えて意気消沈するハマー。しかしすぐに気を取り直したらしい、ぐっと拳を握ると自らリンに進言しようとする。
「あの、良ければ私も」
「いや、一人で良い」
しかしその申し出を遮るように、リンが言葉を被せた。有無を言わせず「じゃあ任せた」とだけ告げると、脇をすり抜けるようにしてその場を後にする。
終始無言のままそれに続いたクライヴが再び背後を窺えば、ハマーは意外にもあっさりとこちらに背を向けて歩き去った。
「チッ、アオヤマめ……」
響いた舌打ちに顔を戻せば、リンが苦々しげに同僚に苦言を呈している。アオヤマとかいう巡査がリンの予定を勝手に漏らした行為が余程癪に触ったらしい。
「今のは?」
クライヴのシンプルな問いに、リンは珍しく言い淀んだ。
「あー……まあ、同僚だよ。港湾署での私付きの補佐みたいなもんだ」
「ふーん? じゃあ相棒じゃん。あんな冷たくして良いの?」
「色々あんだよ、事情って奴が」
面倒臭そうに言うとヒラヒラと手を振る。適当にはぐらかしたリンの分かりやすく雑な態度に、衝動的に苛立ったクライヴは一計を案じる事にした。
「何それ。ああ、もしかして惚れてるとか? 素直になれないーみたいな?」
「は?」
唐突に始まった恋愛トークに、リンが間の抜けた声を上げた。ざまあみろ、とクライヴは内心でほくそ笑む。この手の話題は苦手だろうと踏んだ読みは、どうやら正解だったらしい。
とは言え本気でキレられたら面倒だと、クライヴは一応話題を畳みに入る。
「まーそんな訳ないか。アンタの顔なら、その気になればあのくらいすぐ落とせそうだし?」
そう言ってリンの反応を見れば、彼女は筆舌に尽くし難い微妙な表情をしていた。苦いとも渋いとも、はたまたしょっぱいとも付かないその表情を読み解きかねて、クライヴは純粋に困惑する。
「……何、図星? まさか経験無いとか言わないよね?」
たっぷり数秒沈黙してから返ってきた返答は、溜息交じりの呆れ声だった。
「──意外と歳相応だな、お前。」
醒めた視線を返されて、クライヴはぐっと言葉に詰まる。
「……バカにしてんだろ」
「いいや? 微笑ましくて大変結構だ、羨ましい」
やれやれと軽く肩を竦めると、リンは再び歩を進めだす。
「ちょっと! 絶対馬鹿にしてるだろ!」
ムキになって食い下がるクライヴは気付いていないが、市警本部の通用口はもう目の前だ。そこを過ぎればリンの行為は、バレれば言い逃れの余地なく違法、という事になる。
──まあ、今更か。
ほんの一瞬脳裏を過った、逡巡ですらない再認識。それを静かに吞み下すと、リンは躊躇うことなく屋外への一歩を踏み出した。




