3-1
──ビリ、と肌を刺すような殺気で目が覚めた。
心地良い微睡みをかなぐり捨てて飛び起きたクライヴは、一瞬で膝を立てて周囲を窺う。索敵を最優先にしたクライヴには、自分が素足だとか、足元が妙に柔らかいだとか、そういう些細な認識はまだ届いていない。
「流石だな」
投げかけられた中音に勢いよく顔を上げる。そこには、昨晩のように柵の向こうに立つリンの姿があった。
「……アンタ」
ぽつりと零したクライヴに、徐々に記憶が戻ってくる。ここは拘置所で、目の前の女とは昨日協力関係になった、はずだ。一方的に殺気を向けられる謂われはない。
リンは敵意の無さを示すためか、空の両手を上げて見せる。
「そう警戒するなよ」
「は?」
簡素極まりないクライヴの返答には、明らかな怒りが込められていた。朝一番で殺気をぶつけられて警戒するなとは何事だ。不服の意図を込めたひと睨みを、リンは苦笑一つで受け流す。
「大声出すよりこっちの方が手っ取り早かっただけだ。お前なら起きるだろうと思ってな」
そう言って自らの腕時計を示した。見れば六を少し過ぎたところで長針と短針が重なっている。普段よりは熟睡していたらしいが、それでもわざわざ起こされるには早すぎる時間だ。留置場の起床時刻は朝七時だと説明されていた。
そう抗議すれば、規定上はな、と底意地悪く笑うリン。
「お伺いなら昨日立てただろう? おはよう少年。お勤めだぜ」
人もまばらな市警本部庁舎を抜け、腰紐と手錠を付けられたクライヴが連れられて来たのは、昨日と似たような取り調べ室だった。違うのは、今日は入った時から机の上に紙袋が置かれていたことだ。昨日リンが差し入れと書類を入れて持っていたものより、更にふた回りほど大きい。
「着替えろ」
部屋の鍵を閉め、クライヴの拘束を外したリンが、端的な指示と共に紙袋を指し示す。怪訝な顔でクライヴが袋の中身を引っ張り出せば、それは一揃いの洋服だった。洗い晒しのジーンズに白いシャツ、コートはクライヴの着ていたものより厚手で、形も少しだけフォーマルだ。
「いや、何この服」
「お前が着てたのよりかは多少マシな服だ。警察官が連れ歩く以上、一般人が不審がらない程度の格好してもらうからな」
嫌味っぽいが妥当と言えば妥当な言い分だろう。自前の服装が清潔感に欠けているのは、クライヴ自身自覚するところだ。溜息と共に、クライヴは一つ頷いた。
「分かったよ。じゃあ着替えるから、アンタはさっさと出てって」
「あ? お前一人にして何かあったらマズいだろ」
「……は?」
当たり前のように応じられて、一瞬言葉の意味を見失うクライヴ。リンの台詞を咀嚼して飲み込んで、漸く声を上げる。
「いや、じゃあ何、アンタの目の前で着替えろっての⁉︎」
「何だよその反応、生娘じゃあるまいし。こっちだって見たくて見てる訳じゃない、下着まで脱げって訳じゃないんだからさっさとしろよ」
そう言い放つと、リンは手近な壁に身を預けた。冗談などではなく本気で居座るつもりらしい。
クライヴは暫く複雑な表情でリンと服を交互に眺めていたが、やがて観念したようにVネックのシャツを脱いだ。筋肉こそ薄くついてはいるが、全体的に肉付きの悪い身体をひやりとした外気が包む。
ちらりとリンの方を窺えば、ばっちり視線がかち合った。気まずくなったクライヴは、剥き出しの上半身を急いでシャツで覆う。
シャツのボタンを閉めていると、新品の布の香りがクライヴの鼻腔をくすぐった。リンの視線は勿論だが、こんなに小綺麗な格好自体初めてで落ち着かない。
次は、とカーゴパンツに指を伸ばしかけて、手を止める。当たり前だがリンの視線が痛かった。本人に邪な感情がない分、むしろ観察眼としての圧が増しているような気さえする。
暫く抗議の視線を送ってみるも、リンはたじろぎもせずこちらを見つめ返している。むしろ何をもたついているのかと文句の一つでも言いたげだ。デリカシーとかないのかよこの女、とクライヴは眉をひそめる。
逡巡するクライヴの視界に、天啓が映り込んだのはその時だった。
クライヴは机の上に置きっぱなしだったコートを羽織り、リンに背を向けた。ロングのコートはクライヴの太腿まで余裕で覆い隠すくらいの着丈がある。これなら無様に下着姿を晒さなくて済むだろう。第一自分の半裸はそんなに安くない。
肩越しにどうだと笑って見せると、リンは興味なさげに肩を竦めた。早くしろ、と唇が動く。その態度に苛立ったクライヴは、一気にカーゴパンツを下ろしてジーンズに履き替えると、着ていたものを丸めて紙袋に突っ込んでやった。
「出来たよ」
仏頂面で報告すると、ようやく壁から背中を離したリンに手招きされる。怪訝に思いつつも近付けば、懐から二つ折りの携帯用櫛を取り出したリンに手荒く髪を梳かれた。わっ、だの痛っ、だのという時折上がる声を無視して、リンはこれまた何処からか取り出したヘアワックスで、手早く髪型を整えていく。
「ほう、見違えたな」
やがて整髪の手を止めたリンが、一言そう呟いた。髪型ごときで本当に見違えたかどうかは分からないが、満足気な声音から察するにリンとしては及第のラインなのだろう。
「……それはどーも。ていうかさぁ」
気の無い礼を一つ返して、クライヴは自分のシャツの胸元を引っ張って見せる。
「これ。サイズ合ってんの怖いんだけど」
「そりゃお前、身長体重は昨日測ったろうが」
「測ったけど。それから調達したのかよ……」
当たり前のように言うリンだが、身体測定をしたのは拘置所に入れられる時の話だ。昼過ぎと甘めに見積もったとしても、その後取り調べを終えて衣料店の類が閉まるまで、一体どれだけ時間があったというのか。
──多忙とか言うだけ言って、実際暇なんじゃなかろうか。
疑念を抱き始めたクライヴをよそに、リンは仕上げだ、と胸ポケットから小物を取り出すと、有無を言わせずクライヴへと装着した。
「……何この眼鏡」
「伊達だよ。お前、界隈じゃ顔でバレるだろ? 有名人」
確かに自分の顔が割れていそうな連中なら、ヴォルピーノの派閥以外にも幾らか心当たりがある。だが今回刺激するのは市警の番犬と路地裏の狂犬を同時に、かつ強く警戒している層だけで良いのだ。有象無象に絡まれて余計なトラブルを抱え込まない為の撹乱、ということか。
「それはそうだけど……こんなんで大丈夫なの?」
「ひとまずは、だな。目元の印象ってのは顔の認識に結構影響あるんだぜ? 今回はパッと見で分からなければそれで良い訳だし、コストパフォーマンスとしても一番効果的だ」
そこで言葉を切ったリンは、改めてクライヴの全身を眺める。その出で立ちに納得がいったのか、ご満悦といった調子で数度頷いた。
「よしよし、悪くない。どこぞの優等生のお坊ちゃんみたいだぜ? こういう時顔が良いのは得だな」
ぽんとクライヴの肩を叩くと、リンは身を翻す。そして手錠も腰縄も付けていないクライヴの前で、取調室の扉を開けた。
「じゃ、いざ出陣と行こうか。付いて来い」




