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2-4



 結論から言えば、リンは留置場での食事を知っていたに違いない。


 そう思う程度には留置場で出された食事は簡素で味気なく食感も悪く、勿論温度など望むべくもなく、質を問う以前の問題を抱えているように思えた。


 とは言いつつも、クライヴは食の限界を攻めたようなその飯を残さず食べ切った。どれだけ不味かろうがタダ飯はタダ飯、ありつける時に食べておくのがストリートチルドレンの流儀だ。クライヴ自身の食の限界から言えば、食べ物の色と匂いがするだけマシだった。


 留置場とは言いながら、クライヴが通されたのはそこに併設される所謂保護室だった。本来は暴れる容疑者を隔離する為のもので、留置場とは違い一人一室で収監される。とは言えクライヴの通された区画は比較的綺麗で、両隣に収監されている者も居ないようだ。両隣どころか、同じセクションには人の気配がそもそも無かった。


 恐らく協力者故の特別待遇であると同時に、他のゴロツキ共に接触させない為でもあろう。心変わりの意味でも、クライヴの身の安全を守る為にも。今留置場にいる連中のうち何人がヴォルピーノの派閥かなど、考えたくもなかった。


 留置場の規定によれば、食事の下膳が十九時頃で、就寝時間が二十一時。特に何の問題も起こす事なく檻に入ったクライヴだったが、娯楽の差し入れも無い身ではいかんせん暇過ぎる。昼間に追い回された疲れもあって二十時過ぎにはうとうとし始めたクライヴは、途中何度か号令的なもので意識が浮かぶことはあったものの、完全に目を覚ましたのはとっくに消灯された二十三時前だった。


 消灯とはいえ真っ暗になる訳ではなく、通路には橙色の灯りがそこそこの明度で点っている。それをぼんやりと眺めながら、クライヴは起き抜けの頭をゆっくりと動かし始める。


 今からすぐにまた寝付ける気はあまりしない。かと言って他にやれる事も勿論無い。仕方なしにクライヴは、とりあえずベッドの上で身を起こした。重い頭を振って、大きく一つ伸びをする。


 不意に、部屋のドアが開く音がした。檻ではなく、セクションそのものの扉が開く音。続いてこつこつと、こちらへ向かう足音も。反射的に担当の監督官かと思ったが、クライヴの前に姿を見せたのは残念ながら違う人物だった。


「よう。」

「……何で?」


 檻の向こうに問いかければ、相手は──リンは可笑しそうに笑う。


「何でって、何がだよ」

「何で居るの。今何時だと思ってんの、帰らないの?」


 畳み掛けるクライヴに、リンは肩を竦めて答える。


「生憎そんな暇は無い。これでもそれなりに多忙でな。ここに来たのは、そうだな、単なる気晴らしだ」

「気晴らしぃ? こんな所で?」


 思わず声が裏返る。仕事の気晴らしを、こんな深夜に、よりによって留置場なんかにしに来たとか言ったかこの女は。


「何て言うか、思ってたより趣味悪いんだね、アンタ」


 割と本気で顔をしかめれば、リンは再び小さく笑う。


「本当口の減らないガキだな、お前。まあいい、その調子でどんどん喋れよ」

「何を。なんで」


 つっけんどんに返したクライヴだったが、今回ばかりは致し方ない。少なくともクライヴはそう思う。


 ──だって意味が分からない。


 話さなければならない事は全て昼間の内に話した。向こうもそれに納得したからこそ昼間の聴取は切り上げられたのだと思っていたのだが、まだ聞き出したい事でもあるのだろうか。正直、これ以上の情報は本当に無いのだが。


 クライヴが分かりやすく警戒しているのを見て取ったのか、リンは諸手を上げて(ハンズアップして)自らの行為を釈明する。


「そう緊張しなくていい。喋れって言ってもただの雑談だ、お前が聞き足りないって顔してたのが気になっただけだよ。今ならある程度は答えてやる。何せ今は鬱陶しい録音もないしな」


 聞き足りない顔などしただろうか。クライヴは寝起きの頭に無理矢理昼間の聴取を思い起こさせる。


 自問自答するまでも無い、した。何なら実際「もう終わり?」とまで口にした。リンによる聴取は、時間管理に限っては実に適切かつ適法で、話すべき事を話したクライヴはすぐに取調べ室から解放されたのだ。お陰様で、こちらが訊きたかった事は全く訊けていなかった。


 わざわざその為に牢を訪ねて来るほどお人好しには見えなかったが、そこはそれ、向こうにとっては『気晴らし』程度の気まぐれなのだろう。いずれにしろこれ以上直接話せる情報は無い。ならば暇潰しに雑談くらいはしても良いかと、ベッドに腰掛ける体勢になった。深夜の訪問者と檻を挟んで正対したクライヴは、じゃあ、と口を開く。


「昼間、路地裏の時。いつから気付いてた?」

「アレか」


 リンは顎に手を当てて小首を傾げる。あからさまなジェスチャーに、これまでのリンの態度を思い出して一瞬身構えるクライヴ。しかし今回は何のアピールという訳でもなかったらしい、リンの口からは素直に言葉が紡がれた。


「確実にそうだと分かった訳じゃない、ただお前のことは最初から警戒してた。声のかけ方が妙だったからな」

「は?」


 ごく普通に声をかけたつもりだったが。思わず間抜けな声を上げたクライヴに、リンは笑ってネタばらしを始める。


「お前、迷わず私に声をかけた割に『警察の人』って呼んだろ。私はスーツ姿だしお前とは初対面、でもって実はあの時、少し先に部下がいたんだ。バッチリ制服着込んだヤツがな。警察官がお望みなら先にそっちに目が行くだろ、普通。店主との話を立ち聞きしてたにしては焦り過ぎだしな。それに」


 そこで言葉を切ったリンは、何故かふっと遠くを見る。


「これは経験則だが、初見で警察官として頼られることはあまり無いんだ。なんでも目が怖いとかでな」

「ああ……」


 それはそうだろう。目付き自体は悪くはないのだろうが、あの見透かすような視線は滅茶苦茶に怖い。何度も修羅場を潜り抜けたクライヴでさえそうなのだから、一般人なら言わずもがなだ。


「自分で言っといてなんだが何納得してんだ、失礼な奴」


 拗ねたような口調は初めて聞く声音だ。もしや気にでもしていたのだろうか。そんな繊細な人間には見えないが。


 反応を窺うクライヴの視線の先で、リンは懐から煙草を取り出す。同じく出したジッポライターで火を灯すと、ふぅ、と溜息がてら大きく紫煙を吐き出した。


「まあ後は、最初の路地はすんなり入ったのに目当ての路地ではかなり手前で止まったとか、そもそもあの路地は見通しが良いから待ち伏せには向いてないとか、挙げればキリがないけどな」


 ついでの調子で付け加えられた更なる根拠に、クライヴは内心で舌を巻く。それなりに考えて動いた策だったが、向こうから見ればボロだらけだった訳だ。


 そう改めて実感すると、自信満々だった己が途端に恥ずかしくなってくる。ばつが悪くなったクライヴは、八つ当たりのようにリンに問うた。


「アンタいつもそんな警戒してんのかよ?」

「まあ職業病でな」


 さらりと首肯して、再び紫煙を吸い込むリン。その様を見て、あ、違うな、とクライヴは悟る。


 ──職業病とかそんなのではなく。

 ──これ、この人がおかしいんだ。


 生粋の路地裏育ちであるクライヴは、常軌を逸した所謂「ヤバい奴」もこれまで何度か目にしている。そういう連中の中には能力の高さ故の異常さを醸し出すタイプも存在した。今のリンから一瞬だけ漂ったのは、間違いなくその類の空気感だ。


「……アンタ、何なの?」


 思わず零した問いは、ふっと鼻で笑われる。


「また哲学的な質問だな」

「茶化すなよ。俺が知ってる警察はみんな揃って無能だった、アンタみたいなのが居るなんて聞いたことない」

「そうか。良かったな、見識が広まって」


 あくまで混ぜっ返すリンに、クライヴはじとりとした目を向ける。じっと抗議の視線を送るクライヴに、リンは堪らず肩を竦めて見せた。


「そう睨むなって。私はただの官憲だ。本当に、嘘偽りなく」

「『番犬』なんて呼ばれてる癖に?」

「ああ、あの仇名。独り歩きして困ってるよ。ちょっと通りが良いとすぐこれだ、大袈裟な」


 やれやれと首を振るリンに、クライヴは重ねて問いかける。


「何で、番犬」

「呼び始めた奴に聞いて欲しいんだが? いや、これは本気で」


 非難される前に弁明を挟むリンだが、これに関しては妥当だろう。とはいえ心当たりはあるようで、仇名への自説を語って見せる。


「まあ察するに、一つは単純に警察の手先だから。もう一つには、文字通りこの街の番をしてるようなものだからかな」

「番?」

「お陰様で色々顔が広くてね。大抵の事は私の耳に入るようになってる。勿論、お前の事も例外でなくな」


 ニヤリと笑って告げられたそれが揶揄なのか非難なのか、判断に困ったクライヴが何とも言えない顔をする。困惑するクライヴをよそに、リンは感慨深げに先を続けた。


「噂はちょくちょく聞いていたが、まさか実物と会うとはな。道理で腕が立つわけだ、『狂犬』」


 その台詞にいよいよ含みを感じたクライヴが、「だったら何だよ」と喧嘩腰の言葉を投げる。しかしリンの返答は意外にも淡白だった。


「あ? 別に。路地裏仕込みにしちゃ腕が立つなあって」

「それだけ?」

「ああ。何だよ、マジで生活保護がわりに逮捕して欲しいクチじゃないだろうな」

「いやして欲しくはないけど。……その、何か、ないのかよ。警察だろ?」


 これだけ自分の素行を握られて尚糾弾されない事に、流石のクライヴも戸惑いを見せる。首を傾げる不良少年を横目に、リンは何故か不服そうな溜息を吐いた。


「ああ警察だ、つまり役所仕事だよ。一口に事件ったって色々ある、証拠を揃えて立証できなきゃ逮捕のしようが無いさ。でもって生憎お前の潰した事務所の件は、組同士の抗争ってことでウチのお偉方が握り潰しちまった。大方、下手に触って自分達のボロを出したくなかったんだろ。ほんっと、使えやしねぇったら」


 やれやれ、とリンは前髪を搔き上げる。


「まあ仰る通り、こちとら無能なケーサツカンなので? そんな必死に悪ぶらなくても、取って喰ったりしないっての」


 煙草を指先に挟んだままひらひらと手を振って、リンは話をそう締めくくった。揺れる煙がその周りをゆらゆらと巡る。


「……アンタ、変なひとだね」


 ぽつりと呟いたのは、挑発ではなく本心だ。


「良く言われる」


 そう言って自嘲のような笑みを浮かべたリンは、今までで一番穏やかに見えた。


 だからだろうか、クライヴが確認する気の無かった疑問を投げかけてみる気になったのは。


「ねえ。もう一つ、聞いていい?」


 聞く必要はないし、聞いてどうするという訳でもない。そもそも答えてくれるかも分からない。はぐらかされるか、嘘を吐かれるか。質問の内容を考えれば、その可能性の方が高いだろう。


 それでも、聞いてみたいと思った。


 腰掛けたベッドから身を乗り出すようにして、クライヴはリンに問う。


「アンタ、人を殺した事あるでしょ。仕事じゃなくて、偶然じゃなくて。ただ自分の為だけに、殺そうっていう意志を持って、誰かを殺す。アンタはそういうの、やった事ある人だよね」


 それはクライヴの勘であり、直観だった。その一線を超えた者にしか分からない同族意識が、彼女を同類だと告げている。


 じっと、リンの鉄色の瞳を見つめる。長い沈黙は逡巡か、警戒か。うっすらと、物言いたげに開かれた薄い唇からは、しかし咥えた煙草の煙が細く漏れるだけだ。


 どのくらいそうしていただろうか。やがてリンは大きく一つ紫煙を吐き出すと、クライヴの問いを小さく肯定した。


「…………ああ。あるよ。」


 その返答に、やっぱり、とそっと零したクライヴは、ベッドに大きく身を投げ出した。後ろ手に手をつき、大きく上体を反らせたまま、リンから視線を逸らしたままで、クライヴはもう一度問いかける。


「アンタさ。何でケーサツなんかにいるの」


 非難がましい口調になったのは否めない。しかしそれは、人殺しが何故警察官に、という真っ当な憤りなどではなかった。


 それは、人殺しが何故警察なんかに居られるのかという嫉妬。自分と同じ外れ者が、何故真っ当に生きているのかという、羨望。


 しかし、それを受けたリンの反応は、クライヴにとっては意外なものだった。


「何で。何で、かぁ……」


 あくまで真面目な表情で呟くと、それきり顎に手を当てて考え込むリン。誤魔化すなよ、と起き上がって喉まで出かけたクライヴの文句は、彼女の徐々に深くなる眉間の皺に霧消する。


 やがて、まあ何だ、と口を開いたリンは、それでも腑に落ちないような顔をしていた。


「誘われたから、ってのが大きいかもな。曰く、『正義の味方にならないか』ってさ」

「正義の味方ぁ?」


 突拍子も無い単語に、クライヴの声が裏返る。


「何それ、うっさんくさ……」


 盛大に顔をしかめるクライヴの反応を予想していたのか、リンは特にそれを咎めるでもなく頷いた。


「ま、そうだな。実際体の良い生け贄だった訳だし」

「生け贄?」


 不穏な単語をおうむ返しにしたクライヴに向け、リンは意味ありげに人差し指を立てる。


「おっと、ここから先は重要機密だ。良い子はお休みの時間だぜ、仔犬君」

「良い子がこんな所で寝るかよ」

「はっ、正論だな」


 クライヴの屁理屈を鼻で笑ったリンは、気付けば随分と短くなっていた煙草を、懐から取り出した携帯灰皿に押し付けた。


「まあ、檻の中は不自由だろうが危険も少ない。今夜は安心して休むといい、安全性だけは折り紙つきだ」


 ぱちん、と携帯灰皿を閉じて、リンはクライヴに笑顔を向ける。


「それじゃおやすみ、狂犬君。──また明日な」


 にっと唇の端をつり上げたその顔には、揶揄いじみた含みこそあれ裏はなさそうだ。ヒラリと一つ手を振って、クライヴの檻の前から踵を返す。


 その背中に向けて開きかけたクライヴの口は、しかし途中で逡巡するようにすぼまっていく。結局無言のままにリンの後ろ姿を見送って、クライヴはベッドに身体を投げ出した。少年の体重をそのまま受け止めた簡易ベッドが、嫌な音を立てて軋みを上げる。


 ──アンタこそ、ちゃんと寝ろよな。


 そんな義理もないしと飲み込んだ台詞は、クライヴが再び意識を手放すまでの間、喉の奥の方にわだかまり続けていた。



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