27クラブ
ロックスターがなぜ27で死ぬのかを考えていたとき、この物語を思いつきました。
僕の父親は、二十七歳で死んだ。
当時僕は小学生だった。彼の死に顔を見たとき、僕は悲しむよりも先に驚いたのだった。というのも、本のなかにしかないと思っていた死が身近な人間を抱きとめ、彼をどこかへ連れ去ってしまったという事実を、うまく呑み込めないからなのだった。
僕は棺のなかに横たわる父に平気で接近した。そして彼のみみもとでこう囁いた。
「ねえ、もうThe Doorsは歌ってくれないの?」
すると親戚のひとりは僕を叱りつけた。離れなさい。父親が死んだのに、涙ひとつ流さないだなんて。なんて冷たい子なんだろう。
僕はその言葉を了解できなかった。お父さんが死んだ? 涙ひとつ流さない僕がおかしい? 僕はそのふたつの言葉をつなぐ、「なのに」という接続詞に疑問をおぼえた。父は、神のもとへ還ったのだ。あんなにも苦しみに充ちた彼の生から、やっとのことで解放されたのだ。神は父を招きいれたのだ。なぜ僕が涙を流す必要があるんだろう? 僕らはよろこぶべきなんじゃないか?
悲しい物語ばかり読んでいて、現実から遠く離れていた僕には、そのように考えるほかはなかった。だって、彼がもはやこの世にいないということがどうにも理解できなかったのだ。たしかに彼は目の前で眠っていた。いつ起きるかどうかとおもわせるような、やすらかな顔で。
父はインディースでロックバンドをしていた。ぜんぜん売れていなかった。でも決して空いた時間にアルバイトをしないという妙な信念をもっていた。バンド活動をするか、そうでなかったら家でいつもギターを弾いて歌っていた。そんな父が、僕は好きだった。日本人にしてはしゃがれた野太い声は、彼の敬愛するジム・モリソンにも引けをとらなかった。少なくとも僕はそうおもっていた。
「お父さんはね、」
と彼はいつも言っていた。
「絶対に世間に属さないと決めているんだ」
なんだかよく分からなかった。
彼は六十年代の英米のバンドが好きで、「六十年代でロックは死んだんだ」と口癖のように言っていた。後年、僕はその言葉を、ほかのロックミュージシャンが言っているのを見つけた。父の言葉が真似されている。売れていなかったけれど、意外と影響力はあったんだな。そんな風におもったものだ。
六十年代のロックスターをいろいろ調べてみると、だいたいの奴が頭おかしかった。ジャズの人間よりはマシにしても。「早死に」が多かった。僕は彼らの生涯を俯瞰した気になって、とりあえずはこんな計画を六年生のときに立てた。クスリはやらないでおこう。そして僕も、彼らのように二十七で死のう。なんだか、マトモな感覚とロックな感覚が馴れ合っていて、いま思い返すとよく分からない。
中学に上がってすぐにギターを始めた。倉庫に眠っている、父のギターを見つけたのだ。暇さえあれば練習した。いつかバンドを組もうとおもった。でも周りでロックをやりたい人たちは見つからなかった。でも別に気にもしなかった。曖昧模糊とした未来は、地平線の向こうで待っているように思えていた。幼かったんだ、僕は。
よく弾いていたのはキングクリムゾンの”epitaph”だ。たしか七十年代だけれども。なぜかというと、父がよく泣きながら歌っていたからだ。僕もよくこれを歌いながら泣いた。血のつながりっておそろしいものだね。
「俺が死んだら、」
と父は母親に言っていた。
「”confusion”と墓に書いてくれ」
だけど父の墓にはいま平凡な名字しか書かれていない。あんまりにも平凡だからって、父がすこぶる嫌っていた名字だ。彼はバンド内では、変な横文字を名乗っていた。ちょっと恥ずかしいものだから、ここではそれを晒さないことにする。それが死者の名誉ってやつだ。
“epitaph”で泣く少年みたいな父が好きだった。未成年のような彼の苦悩がなんだか愛しかった。どうしようもないじゃないかと馴れ合うことを拒絶した父を抱き締めたかった。だけど父はもうどこにもいなかった。
それを初めて認識できたのは、中学に入ってからだった。やっとのことで僕は父を思って泣いた。でも、それを見て「優しい子だ」と声をかけてくれる人間はもはやどこにもいなかった。みんな父の死を乗り越えていた。しかばねをまたいで、ふたたび自らの生へ一進に向かっていた。死者とともにあったのは、もはや僕だけかのように思われた。
というわけで、僕は高校生になるとバーに入り浸るようになった。なにが「というわけ」なんだという質問には答えない。なんでもかんでも説明された文章なんて野暮の極みだ。僕はちゃんと、接続詞は厳密に使うことにしている。あの日以来ね。
マスターは僕が未成年だということを知っていたんだろうか? 多分知っていたと思う。僕は別に老け顔でもなかったし、なんだかんだで、引け目と不安でこそこそしていたと思うから。でもそこは未成年だって黙ってれば飲める場所だった。むしろ黙ってなくても飲める場所だった。
初めてキスをしたのもその場所だった。相手はわけの分からない酔っ払いの女で、初めて会ったひとだった。
「あら、若いね。中学生?」
こんな失礼きわまりない質問を、僕は無視した。ジャック・ダニエルで朦朧とした頭には、その言葉はなんの感慨もあたえなかった。
「可愛い。キスしよ、ほら」
顎を指でつままれる。長い爪がちょっぴり痛みをあたえた。厚ぼったい化粧をされた顔が接近する。別に美人でも何でもなかった気がする。唇にやわらかいものが当たった。それだけだった。それ以外なにも思わなかった。
その直後だった。強い香水のにおいがむっとしたのだ。そこでやっと、自分はファーストキスをしたんだという意識が頭にのぼった。まあいいや。そう思った。僕にとって、現実の香りは出来事よりも少し遅れてやってくる。それを嗅いでしまったときには、もう遅い。
とりあえずは、ジャック・ダニエルで口直しをした。ジャック・ダニエル。ロックな響きだね。ジャック・ダニエルとのキスは、初めてのキスの何倍も甘美だった。なんてったって、これは僕を酔わせてくれるのだ。あんまり酔っていたから、誇り高きテネシーウィスキーは唇からすこし垂れてしまった。すると女はそれを僕の唇からすすった。卑猥な音がした。大音量で、八十年代の趣味の悪い音楽がガンガン鳴り響いていた。頭が痛くなった。早く六十年代のものをかけたまえよ。僕は唇を指でぬぐいながら考えていた。The Beatles, The Rolling Stones, The Who, The Kinks, The Yardbirs, そしてThe Doors。僕の魂は、失われた六十年代とともにあるんだ。イタい奴だって? でも、思春期ってこういうものだろう。
こんな挿話をわざわざ書いたのは、別に自分が色男だなんて自慢したいわけじゃない。あとから聞いた話だけれど、あの女は酔うと誰にでもキスを迫ったらしい。ただ僕が説明したかったのは、僕の青春は老人が決めつけるようになにも美しくなんかなく、そして僕はそれを他人事のように眺めていたんだってことだ。青春は美しくなければならぬなんて考えは、いうまでもなくF××kだね。
初恋をした場所もそのバーだった。一見マセているように思えるけど、僕の恋はすごく子供っぽいものだった。でも、初恋なんてみんなそんなものさ。違うかい?
相手? タトゥーの入ったゴツい髭面の男の恋人だ。彼氏はイカツかったけれども、そのひとはどちらかというとおとなしそうで、黒髪に薄化粧の無口なひとだった。ごくたまに、そういうカップルを見かけるものだ。いや、結構見かけるかもしれない。
なんでそのひとに恋をしたのだろうと、いま思うと疑問だ。ぜんぜん覚えていない。あんまり美人じゃなかった。それじゃ中身に惚れたのかと聞かれれば、喋ったこともなかったから中身を知ろうにも知れなかった。たぶん、雰囲気だと思う。そして、彼女があんな怖そうな男の隣にいるなんてふさわしくないという、変なジコチュウな思い込みがその恋を燃え上がらせたんだと思う。はなはだ迷惑な片思いだね。
いずれにせよ、僕は恋をした瞬間に失恋をしたんだ。なんてったって相手には恋人はいたし、僕は未成年でバーに入り浸っていただけで不良でもなんでもなかったから、喧嘩だってほとんどしたことがなかった。あんな男に勝てるわけがないし、略奪愛を達成しようとする気概もなかった。だからちらちらと横目で見るだけだった。
やがてそのカップルはバーに現れなくなった。だからマスターに質問した。
「ねえ、あのタトゥーの男性と恋人はしばらく来てないの?」
「ああ、引っ越したよ。なにか厄介なことに巻き込まれたらしい」
案の定だ。あの男はやっぱりあのひとを不幸にしたんだ。僕は心配で心配で夜も眠れなくなった。あのひとはいまどうしているだろう? まだあいつと付き合っているんだろうか? あのひとは僕と付き合うほうが幸せなんじゃないか? たしかに僕は金もない学生だし、乏しいバイト代であそこに通っているに過ぎない身だけれど、きっと僕のほうがマトモな筈だ。僕はあのひとを救わなければいけないと思う、いやそうに違いないんだ…。
この、スーパーマン気取りのみじめな思い込みは思わぬ結末をむかえた。いや、読者には「やっぱり」と思われるかもしれない。
「ねえ、あの男が巻き込まれた厄介事ってなに?」
「なんでそんなことを知りたがる?」
マスターは微笑した。
「それはね、」
と僕は覚悟を決めた。
「あの男の彼女が好きだからだよ」
するとマスターは豪快に笑った。薄暗い店内に不釣り合いなほどにさわやかな笑い声だった。
「ムショに入ったんだ」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「あの男はあのひとを不幸にする」
「ああ、違うよ、違う」
そこで少し言いにくそうにして、ぼつんと周りに聞こえないようにつぶやいた。
「ムショに入ったのは女性のほうだ」
その瞬間、僕の恋ごころは風に舞う砂のように消えた。友よ、そのなかで漂っている答えさえもなかった。僕は、純真にして同情すべきあのひとが好きだったんだ。勝手に、あのひとは被害者なんだって思い込んでいたんだ。あのひとが罪を犯すようなひとだなんて、むしろ男のほうを苦しめる側だなんて、考えてもみなかった。
「男は献身的に尽くしているよ。確かに、あの男は彫り師という仕事柄、堅気とは言えないが、あんないい奴はいないさ」
僕は自分の思い込みを悔み、男へ敵意さえもった自らを責め立てた。そろそろ気づいてきたかな? 僕はね、可哀想なものが好きなんだ。
死者は、弱った小動物のように僕を見つめることがある。それはいかにも同情をさそうような目をしている。助けてくれ。助けてくれ。そんなふうに、僕に訴えているように思える。僕には、死者は少年のままに死んだように思えてならない。僕は彼らに、なにをしてやればいい? ギターを弾いてepitaphを歌ってむせび泣くことが、いったい彼らのなんの役に立つ?
その青年は二十七歳だった。彼はあと一年もしないうちに死ぬだろうと、僕は不謹慎きわまりない予想を立てていた。僕は彼を、ガロアという不吉なる敬称で呼んでいた。ガロアは、二十歳で死んだけれども。
「ねえガロア」
「なんだい?」
「君はね、きっと二十八になる前に死ぬよ」
「それはいい考えだね」
そして妙にととのった顔立ちを柔和にほほ笑ませた。
「僕もそうありたいと思っているよ」
彼は早稲田大学の仏文科を中退していた。作家になるんなら申し分ない学歴だ。だってきちんと卒業していないんだから。でも別に彼は作家なんて目指していなかった。なんにも目指していなかった。なんにもなりたくなかった。
「ガロアは目標なんてないの?」
「目標?」
「うん」
「そんなものはないよ。だって僕は資本家でも労働者でもないんだから」
無為徒食。これが彼の生活のキーワードだった。彼は旧家の人間だった。学習院の高等科を卒業し、中退する気で早稲田に入学して、入学式のつぎの日に退学届を出した。
「入学金がもったいないね」
「金ならあるさ」
そして奇麗な眉を憂いげにひそめて言った。
「不幸なことにね」
すべてに対する無関心、そしてエスプリの利いた皮肉が、彼の表情や立ち振る舞いにわだかまっているように思えた。でも、それは彼のポーズにすぎなかった。
彼はキザにそんな皮肉を言い放つと、赤ワインを一気に飲んだ。
「なんでワインばっかり飲むの?」
「ウィスキーやジンは感性を焼いてしまうからさ。これは現実を薄めて、僕の喉を誤魔化しの火でただれさせてしまう。そしてビールは労働者の飲み物だね。甘いものは嫌いだ。残ったのはワインしかない。ただそれだけ」
よくもまあ、それっぽい出まかせがぽんぽん口から出るものだ。僕はそんな言葉を気にもせずにワイルドターキーのストレートを口に含んだ。ガンガン鳴り響いている音楽と自分が一体化したような気がした。僕の意識は、そのなかで踊り狂わなければならない。もう一杯注文した。
「君には目標はないの?」
「俺?」
僕は外での一人称は「俺」だった。十七歳、自分を粗野に見せたがる年だ。
「君以外に誰がいるんだ」
「俺の目標は、二十七で死ぬこと。大人にならないこと」
「それは最高だね」
そして女の子が見たらとろけてしまいそうな甘い微笑を浮かべた。
「ところで、」
と彼は話を変えた。僕はすでに知っていた、彼との会話に文脈なんて求めてはいけないってことを。
「女の子に会いに行こう」
「女の子?」
「うん、とっても美人だ。そして彼女はいつも友達を連れている。ダブルデートをしよう。
僕に協力してくれたら、次はすべておごろう」
「乗った」
月五万程度の給料で、大量のCDやウィスキーをやりくりするのは大変だ。僕はちょうど来たウィスキーを一気に飲んだ。デートにうきうきして、急いでいたのかって? 違うさ。だって僕は内気なんだから。デートとか、初対面のひとと会うとか、酒のちからを使わないかぎり、そういうものは苦手だ。
店を出ると、ガロアと深夜の街を歩いた。小さい下町だけれど、夜の飲み屋街…いや、風俗街はちょっぴりあやしげだね。暗闇のなかで、チープな明かりがちかちかしている。昼間は見ないような派手な身なりのひとたちが、大きな声を上げながら闊歩している。ほら、お決まりの、不必要な数の派手なライトをつけた車が通った。エレクトロ・ダンス・ミュージックだっけ? 嫌いじゃないよ。でも、実はもっといい音楽はあるんだな。
「まだ着かないの?」
ガロアに訊いてみた。同じところをぐるぐるし続けて、もう二時間が経っている。僕は、明日学校なんだけどな。
「わからない」
「わからない?」
ちょっと意味がわからない。
「この辺にいるはずなんだけどな」
「待ち合わせは?」
「待ち合わせ?」
彼は不思議そうに僕を見た。
「待ち合わせなんてないよ」
…彼は騙されているんじゃないか? 僕は少しいらいらして、ガードレールにもたれてしゃがみこんだ。野良猫が僕の足元に寄ってきた。可愛い。撫でようとした。するとそいつは、父のお古のサイドゴアブーツをおもいきり引っ掻きやがった。
「あ」
そんな僕の叫び声にも、彼は反応しない。ただ神経質そうに周囲をきょろきょろ見回している。
僕は猫をしっしと追いやり、醜い傷を何度も撫でた。この町は嫌いだ。憎々しげに思った。僕にいかにもしっくりしない町だ。けれども、僕にしっくりくる場所なんてどこにもなかった。僕の魂は、失われた六十年代が閉じ込められた、ホテルカリフォルニアに在った。そこには、父のギター、お古のサイドゴアブーツ、そして彼の一張羅だった革ジャンが無造作に置いてあった。その場所には、追憶と抜け殻のほかは何もなかった。そして喪失を歌う、悲しい音楽がいつもかすかに響いていた。
「おい、来た、来たよ! あの子たちだ」
少年みたいな声を出しやがる。僕は彼の見ているほうを見た。水商売っぽい女性が二人、ガロアに手を振りながら近づいてくる。苦手な人種。思わず僕は目を反らした。
「ガロアくんじゃん」
「久しぶり」
そして彼は気取った口調で言う。
「偶然だね、また会えるなんて」
偶然? 二時間もこの辺を歩きまわって偶然? しかもこいつは何て恥ずかしい名前を名乗っているんだ。まあ、つけたのは僕だけれども。
「ねえ、そういえばなんでガロアなの?」
「彼がつけてくれたんだ。だろう?」
三人が僕を見た。僕は目を合わせられず、どこか遠くを見ながら頷いた。しまった、テキーラを二杯程度飲んどくべきだった。もちろんガロアのおごりで。
「ガロアってなに?」
「…フランスの数学者です」
「なんでこのひとがガロアなの?」
めんどくさい。
「…ガロアは、二十歳で死んだから」
彼女たちは目を合わせた。引かれたのかな。
すると二人は大声で笑い転げた。
「わかる」
「このひと、すぐ死にそう」
そして僕らは仲良くなった。ガロアを除く三人がね。
「ねえ、中学生くん、君はなんて呼べばいいの?」
「高校生です」
僕はむっとして言った。僕は自分が童顔なことを認める気はなかった。大人になる気もなかったけれども。
「変わんないよ」
そして二人は笑った。ガロアは何も話さない。完全に蚊帳の外だ。
「何て呼ばれたい?」
少し考えて言った。
「ポールで」
「なんで二人とも欧米なの」
「欧米コンプレックス?」
またやかましく笑う。よく笑いあうひとたちだ。ガロアはずっと黙っている。ときおり、黒髪のほうの女性の開いた胸元をちらちら見る。そしてむすっとしたまま、少し遅れて歩き続ける。
「ポールはなんでポールなの?」
「ポール・マッカートニーだよね」
僕たちは後ろのガロアを見た。得意げな顔だった。
「彼はね、ロックが好きなんだ」
やっと自分の喋る番が回ってきたことをこころから喜んでいる様子だ。
「違うよ」
別に彼をのけ者にしたいわけじゃなかったけど、ここは譲れなかった。
「ポール・ニザンだ」
「誰」
「戦死したフランスの作家だね」
またガロアが口を出した。そしてお得意のマシンガントークでまくしたてた。
「彼はフランスの高等師範学校でサルトルと首席を争っていたほどの秀才だったんだけど、共産主義にかぶれてフランス共産党に入党し…」
彼女たちは死んだような顔で彼を見ている。この恋、終わったな。僕は切なくなった。
学校が終わってバーに立ち寄ると、ガロアがいた。泣いていた。僕は彼の隣に座った。特に何もいわなかった。何も思いつかなかった。
ガロアはいつまでもいつまでも泣きじゃくっていた。ワインはちっとも減っていなかった。
「どうしたんだよ。女の子はあのひとだけじゃないだろう」
「それはもういい」
「ならなんで泣いてるんだよ」
「自分でもわからない」
「わからない?」
「うん」
「僕は世界に含まれていない」
「なに言ってるんだよ、ここも世界だ」
「ならわからない」
僕は彼の髪をなでた。柔らかかった。それはまったくといっていいほど指に絡みついてこず、まるで他人の感情そのもののようにさらりとすりぬけていった。あとを引く何かさえもなかった。僕らは、他者の気持ちを共有することなんてできない。理解することなんてできっこない。
僕は彼の肩を抱いた。誰かが僕らを恋人同士だと思ったかもしれない。でもそんなことどうでもよかった。ガロアはそっと僕のふとももに膝をくっつけた。僕はそのままにしておいた。
彼はしばらくじっとしていたが、僕の腕をおしのけた。膝をさっと離した。こいつにも、男らしいところはあったんだな。しかしそのあと彼が放ったのはこんな言葉だった。
「同性愛者だと思われたくない」
僕は彼の頭を叩いた。そして彼のワインを一気飲みした。
「それ、僕のだよ」
「次は全部おごるっていったじゃないか」
「君は協力してくれなかった」
そしてうらめしそうに僕を見た。そして力が抜けたように下を向いた。
「まあ、いいんだ、もう」
「でもさ、」
と僕は慰め方も知らないのに何かを言おうとした。
「ガロアは顔がいいし、頭もいいし、家が金持ちだ。好きになってくれる人、どこかにいるよ」
「たとえば?」
「ダメ男好きとか」
彼は怪訝な顔をした。
「君は僕を慰めたいのかい? それとも傷つけたいのかい?」
「…ごめん」
「働いていないからかな、誰も僕を好きになってくれないのは」
「就職しないの?」
「今更どこも雇ってくれないよ」
「お父さんが働いているところに入るとか」
「惨めな思いをして、嫌われるだけだよ」
「どうしたんだよ、」
と僕は驚いて言った。
「いつもの偉そうな態度はどうしたんだ」
「優越感と劣等感は裏返しさ。それは他人と比較する人間特有の感覚だからね」
「…わからないけど」
マスターが青いカクテルを僕らのまえに置いた。僕は頼んだおぼえはないけれど。
「サービスだ」
「ありがとう。でもどっちへの?」
「カップルで仲良く飲めばいい。ストローは一本しかつけないぜ?」
「やめてよ」
本気で嫌がって言ったけど、そのあとは仲良く分け合った。
「意外とアルコール強いね」
「スカイ・ダイビング。このなかに裸の赤んぼうを沈めると尚美味しい」
「カートコバーンは嫌いだよ」
「ほう、それは聞き捨てならないね」
マスターは穏やかな口調だった。
「あれほど誇り高い自殺なんてないさ」
「奥さんと子供を残して自分勝手に死ぬなんて最低だ」
「彼はロックマインドを守ろうとした」
「ロックマインドなんてなんだ!」
気づくと目に涙をいっぱいにして叫んでいた。
「あんなものは…子供の遊びだよ」
肩が震えていた。僕は頭を抱えてつっぷした。震えがとまらなかった。涙はつぎからつぎに出た。ガロアがおそるおそる僕の肩に触れた。
「…すまない。君がロックの話ばかりするから、ロックマインドも好きだと思っていたけれど、デリカシーがなかったね」
「いや、こっちこそごめん」
ガロアが心配そうに僕の顔をみていた。こいつに心配されるなんて、僕も落ちたものだ。
「頭を冷やしてくるよ。今日は帰る」
「お代はいらない」
「ありがたい。ごちそうさま」
革ジャンをはおって店を出ると、ガロアが後ろから走ってきた。
「なんでついてきたんだよ」
「音楽がうるさいからね」
「ああ、NIRVANAね」
「君が嫌いなバンドだろう?」
「音楽は好きだよ」
「実にややこしいね。だけど、矛盾をはらんだ存在こそが人間だ」
「NIRVANAよりもうるさいものはこの世にひとつしかない。君の御託だ」
僕らはしばらく川のほとりを歩いた。水の流れる音がここちよかった。
「そういえば、」
と彼は切り出した。
「なんだよ」
「あと一カ月で二十八だ。君の予言どおりなら、三十日以内に死なないとね」
「自殺は許さないよ」
「それなら、二十八になってしまうよ」
「何かが君を殺してくれるよ」
「それは素晴らしい」
「なんで相も変わらず海外文学の翻訳体でしゃべるんだ」
「人と会話する時間より、本を読んでいる時間のほうがはるかに長いからね」
「その長さは君の首を絞める紐のそれだ」
「おそらくはね」
と、気持ち悪い口調で言う。
「…僕のお父さんは、」
と気づいたら話しだしていた。なんでこんな奴に告白しているのかわからなかった。
「自殺したんだ。遺書には俺と母親のことは一切書かれていなかった。ロックへの夢と挫折だけが、大仰な文体で書き散らされていた」
「バンドマンだったって言ってたね」
「俺はお父さんの歌声が好きだった。しゃがれていて、野太くて、島国のアジア人とは思えないくらいだった。でもね、バンドは売れなかったんだ」
「なるほど」
「俺は…お父さんはクズだと思う。せめて俺と母親の名前くらい遺書に書いてほしかったと思う。でも、でも…」
また涙があふれてきた。声が震えた。
「お父さんが好きなんだ。助けてあげたい。僕が助けてあげたい。でも、もういないんだ。もういないんだ」
そして近くにあった木に倒れ込むようにしてもたれた。声をあげてむせび泣いた。
ガロアは僕を抱きしめた。びっくりするくらい華奢な体で。
「離せよ。君なんかに慰められたくない」
「君は僕を軽蔑しているね。前から気づいていたよ」
「そうさ、働きなよ」
「でももうすぐ死ぬ」
「俺の言うことを信じ込むなよ。君はいますぐに働きはじめるんだ。そして大嫌いな世間のなかで悶え苦しむんだ。そのなかで詩でも小説でも評論でも書けばいい」
「キリストも仏陀も、なんの著作も残していない」
「冗談はよせよ」
「ねえ、僕は君が好きだ」
「それこそ冗談はよせ、だ」
「…いろんな『好き』があるものだよ。愛とは、定義や認識者の視線の角度によって奇々怪々に形を変える」
僕は父の葬式をすることにした。もうやったじゃないかって? あんな形骸みたいな葬式で、僕が父と決別し切れるわけがないだろう。僕は父と決別しようと思ったのだ。父への哀惜は呪いみたいなものだ。僕は追憶と決別するんだ。そして大人になることも拒むんだ。僕は未来に生きるんだ。こんな子供らしい感覚を、できれば笑わないでやってほしい。僕はいっぱいいっぱいだったんだ。他者からどう見られていようと、僕自身が、生きるのが辛かったんだ。
「ガロア、君も来るかい」
「うん、行くよ」
まったく、どんなことにも誘えばついてくる奴だった。もうそろそろおじさんに片足を突っ込んでいる年齢なのに、子供みたいな顔でうなずきやがる。それにしても、彼は妙に若く見えた。十八くらいに見えないことはないくらいに。
「何をするんだい」
「燃やすんだ」
「何を?」
「ギター」
「これは驚いた、」
とどこかの小説の主人公みたいな言い方で驚きを表現する。
「あんなに練習してたじゃないか」
「ジミ・ヘンドリックスだって燃やしてたよ」
「ギターが泣いてしまう」
「違うさ、」
と僕は遠くを見ながら言った。
「ギターの魂が、煙とともに空へ昇って往ったんだ」
この前の小川に辿り着いた。空がすきとおるように青かった。空気が冷たく、澄んでいた。小鳥がさえずっていた。こんな透明な冬の朝は、絶好の葬式日和だ。
「禁じられた遊びみたいだ」
彼は暗い声でそう言った。
「名前しか知らない」
「親の死を受け止めきれない女の子が、年上の男の子と一緒に葬式ごっこをするんだ」
「そのあとどうなる?」
「男の子の親に無理やりやめさせられて、女の子は男の子と離れ離れになる」
「ふうん」
そして僕は吐き捨てた。
「大人の言うことなんて知るもんか」
僕はギターを野原に置いた。きらめく陽に照らされた、青々とした草花のなかで、すでに褪せている追憶はいかにも際立った。死者のギターは、陽のひかりのなかにそっと置くだけで、喪失の音楽をかなではじめる。
「火を点けよう」
僕はしゃがんで、マッチをこすった。小気味良い音を立てて火が上がった。ギターに近づけた。もう少しという距離になって、僕はそれ以上マッチを接近させることができなくなった。冬だというのに、日光が眩しかった。僕は目を細めた。死の前日、父が僕に「もういらないから」と言ってくれたギターだということを想い出した。死後に母がそれを取り上げて、倉庫にしまったのだ。もはやそのときの父の顔も覚えていなかった。死んでから一年くらいは、父の顔や声を覚えていた。だけれども、それはどんどんぼんやりとしたものになっていって、夕方のひかりに融けていくように僕の記憶から消えていった。
「お前が点けてくれ」
僕は火を消して、燃えカスをポケットにいれた。そして箱をガロアに渡した。
彼は細く長い指で火をつけた。流麗ともいえるように品のいい仕草だった。そして僕の決意を確認するようにちらと僕を見ると、ギターの弦にゆらめく火をかざした。やがて乾燥していた弦はパチパチと音を立てて火が移った。僕は頭が真っ白になった。
「やめろ! やめろ!」
そして地に転げ落ちると、すでに炎の上がるギターを強く抱きしめた。胸に烈しい熱が伝わった。
「危ない!」
そして僕は火が消えるまでずっとギターを抱擁しつつ、草々のなかを転げまわった。ガロアは涙を流しながらそれを離せと叫んでいた。夢のなかの日だまりのようなひかりがあたりを包んでいた。小鳥は喜びを歌うように鳴いていた。草花はあたたかいひかりのなかで風にそよいでいた。僕はそのなかで転がりながら「お父さん」と何度も叫んでいた。
バーによく来ていた客に、伊勢という青年がいた。小柄で華奢な、二十歳過ぎの男だった。彼はイセエビというベタなあだ名をつけられていたが、しばしば「俺はそんな高級なものじゃないよ」と言っていた。
「じゃあなんなんだい、」
と僕は訊いてみた。ガロアはもの憂げに彼を見ていた。いや、彼はいつも、どこも見てやいなかった。彼の眼差しは、世界の何も映してやいなかった。しいて言うなら、自分ばかり見ているやつだった。
「俺はレッテルを他人に貼られたくない」
と、毅然とした、そしてふてぶてしい顔で言う。
「決めつけられるのが嫌いなんだ。だから自分で決める。安エビでいいよ。この“安”は音読みでアンだ。“暗い”の“アン”にかけていて、おもしろいだろう」
別におもしろくなかった。
伊勢はガロアほどではないにしても整った顔立ちをしていて、なにか高貴な人間の風格があるようだった。しかし彼の眼差しは、きっと高貴を拒んでいた。そぎ落とされた頬には荒っぽい知性とうら若い自尊心が充溢し、それがどこか、白い漆喰を下手な職人が塗りたくったような、のっぺりとした印象をひとびとに与えていた。それがなにか、色気に乏しいというか、内省的な人間とくゆうの学者めいた雰囲気を彼にもたらしているようだった。それがバーを訪れる女たちに、「彼はイケメンじゃない」という評価をくださせていた。F××Kだ。このバーで、伊勢に酷いことを言っていいのは、僕だけに違いないのに。
「伊勢はなにをしている人なの?」
「大学生だよ」
「中退するなよ」
「しないよ」
「ちゃんと行ってるの?」
「休学してる」
案の定だ。僕は質問を変えた。
「なんの学問?」
「お金の流通」
「経済学部か経営学部か商学部って言いたまえよ」
「あんまり興味がないからね。成績はいいけど」
そう言い放って、彼は赤ワインの香りを愉しみ、空気に含ませながらすこしだけすすった。
「ねえ、ガロア。ワインはこうやって飲むものだよ」
僕は皮肉のつもりでガロアに話しかけた。
「僕はどうやって飲んでるんだい?」
「コーラでも飲むみたいにガブガブ飲んでるよ」
「それは素晴らしい。ワインなんて、そう飲むにふさわしい卑俗な飲み物さ。なぜかって、これは人をさながら卑俗な集団に属させる力を持つからね。いいかい。人は卑俗に生まれるんじゃない。卑俗な集団に属することを望んで、自らその器に入るんだ」
すると伊勢が僕に小声で訊いた。
「なんでこの人、翻訳されたラ・ロフシュコーみたいに喋るの?」
「人と会話する時間より、本を読んでいる時間のほうがしこたま長いからだって」
「ふうん」
伊勢はそれ以上何も言わなかった。特に思い入れがないもの以外に対しては、伊勢はたいがい人を否定しなかった。それが不幸なことに、多くの人が品行方正というキャラクターに彼を類型づけさせることに役立っていたけれど、心のなかはどういう状態なんだか。だって、こんなバーに平日の昼間からいるんだぜ? 僕? もう二年生の単位はとったよ。
たとえば彼が人を否定するのは、こんな時だ。
「ポール、なんで君は相も変わらず、ウイスキーばかり飲むんだい。その誤魔化しの火は、君の乏しい感性をとことんまで焼いて失くしてしまうよ」
「感性を焼く?」
伊勢は眉を苛立たしげにゆがませた。その表情は彼の品行方正・高貴な印象をすべて奪った。いまの彼は、ただの土臭い粗野なインテリ以外のなんでもなかった。
「ガロア、」
と伊勢は持ち前の低い声で言い放った。(それにしても、僕があだ名をつけるとたいがいそれが浸透してしまう。そんな僕のセンスから言わせてもらえば、安エビというのは完全にスベっている)
「アルコールの炎は、感性を焼くんじゃない。悩ましい、今にも燃えんとする感性を解放させるんだ」
ガロアは黙った。二分は経った。そしてぽつんと蚊が鳴くような声で言った。
「…ごめん」
まったく、気が弱いやつだった。
「…いや、こっちこそごめん」
なぜか伊勢まで謝った。
「俺には、感性とかそういうのは全くないのに」
こいつも気が弱かった。そしてその間ずっと黙り込んでいる、僕のこころが一番脆弱だった。
伊勢はまったく面白いやつだった。多くの人が彼を品行方正な優等生とみなし、まじめさとやさしさゆえに追い詰められて傷ついていると思っていたけれど、僕はあまりそんな風に彼を見たことはなかった。彼は反抗的だった。虚弱そうな肉体に反して、精神の本質はタフだった。彼は自我の価値を確信し、そしてみずからの自我を凝視することによってとことん苦しんでいた。そういう意味では、「内省的な人間」という彼の風貌に対する僕の解釈は、おそらくは間違っていなかった。
「俺はね、こんな考えを思いついたよ」
「なんだい、」
と僕が訊く。
「感情が神だって考えだ」
「悪役みたいだ」
「まあそうだね。でもね、違うんだ。感情を美しいものにするんだ。正しいものにするんだ」
「無理だね。理想論もほどほどにしたまえ。感情には欲望がある。」
「そうだね、でも人間の欲望の底に、もっと深いところに、自我の底辺に墜落したところには、必ず美しい感情があるんだ」
「どうだろう」
「理解してくれなんて言わないよ」
父が死んだのは、欲望よりも深いところへ潜れなかったからなんだろうか? もしそうなら、それはつまり弱いということだ。
「俺は、絶対に絶望しないよ」
「何に対して?」
「自我に対して」
思わず僕は、ガロアを想い起こした。
「ガロアは絶望しているね、自我に」
「そういう絶望ってのはね、宿命と慣れあっている人間が持つものだよ。俺は宿命や不条理と慣れあうことだけはしないからね。闘うんだ」
「あのね、」
と僕は疲れた顔で言った。
「俺に難しいことを言ってもわからないよ。なんでガロアや伊勢は僕にナンカイなことばかり言うんだ。俺の専門は六十年代のロックと喪失の歌だけだ」
「誰も聴いてくれないからだよ」
「壁にでも話してろよ。きっと黄色いヤニが聴いてくれるよ」
少し笑いながら、彼はわかばの濃い煙を吐き出した。
「ポールは煙草を吸わないね」
「俺が何歳か知っているのか」
「相変わらず、成年していないくせに年上に生意気だ」
「それが成年していない人間の特徴だよ」
「身の程をわきまえていない」
「違うね。身の程を知らないんだ。だって世界にまだいないんだから。自分の翼の点検ばかりして、飛んでいる妄想ばかりして、それが飛べないってことを知らない者。それが未成年だ」
「なんで飛んだことがないのに、飛べるって思ってるんだ」
「それは飛んだことがないからさ」
「不思議だね」
「このバーにいるやつはみんなそうだ」
「じゃあ君もじゃないか」
「おそらくは」
と、ガロアの真似をした。伊勢は笑った。彼の笑い方はいつも苦笑いみたいだった。多分、彼は生活のなかで、ファルスの苦味を舐めつくしていたんだ。
僕はガロアと二人きりで、いつもの風俗街を歩いていた。零時を過ぎた真夜中だった。彼はホストのスカウトを受けた。なぜかそのとき僕は存在を無視された。でも、こんなのは慣れっこだった。
「零時を過ぎた。明日だね。誕生日」
僕は言った。
「君は生きなければいけない」
「どうだろうね、」
と彼は力なく言った。
「もう疲れたよ」
「そんなこと言うなよ」
「もう精神が認識に轢き殺されそうだ」
「俺に難しいことを言ってもわからないよ」
「アデン・アラビアを読んでいる君は、多少はインテリなはずだ」
「何が書かれてあるかさっぱりさ」
「僕はどう生きればいいかさっぱりだ」
「ねえ、ガロア」
「なんだい」
「君は絶対に明日を迎えるんだ。そしてちゃんと二十八歳になるんだ。二十八歳になるってことが何を意味するかわかるね? 生き延びるってことだ。27クラブの呪いに打ち勝つってことだ。僕に、『君の言ったことは間違いだったね』と、いつものように偉そうにのたまうってことだ」
「わかったよ」
「本当にわかった?」
「おそらくは」
「もし君が生き延びたら、」
と、涙でぐしゃぐしゃになった顔をガロアに向けた。
「可哀想な君を、僕が助けてあげるよ。無垢な君を、疎外された君を、未成年の危うさのなかでもがく君を、その孤独から救ってあげるよ」
朝、彼は自宅の部屋で、首を吊って死んだ。
僕は来る日来る日もガロアを待った。毎日毎日バーに通った。やがてバイト代が底を尽きたので、親に千円を借りて、ガロアを待った。
「来ないね、」
と久々に姿をあらわした伊勢に話しかけた。
彼は暗い顔でなにも言わなかった。
「ほら、ガロアだよ、ガロア」
「君は知らないの?」
無理にピンとこないふりをした。都合のいい時だけ子どもらしさをよそおう卑怯な自分が、そこにいた。
「死んだよ」
「え?」
「自殺したんだ」
「…」
僕が言葉を見つける前に、伊勢が口を開いた。
「俺はね、」
と切り出す。
「君に挨拶に来たんだ。俺はもうここへ来ない。永遠にさよならだよ。このバーはね、逆説的なことを言うようだけど、未成年で卒業していないといけない場所だ。君はまだ間に合う。君は十七だ。まだ分別にやや欠ける歳だ。いいかい。二十歳になる前に、ここを卒業するんだ。そして外の世界のなかに飛び込むんだ」
「いやだ」
伊勢は悲しそうな顔をした。
「いやだ!」
「ねえ、大きな声を出すんじゃない。子供じゃないんだから」
「僕は、僕は、ずっとこの場所にいるんだ。ずっとこの場所にいるんだ。大人になんかなりたくない。大人になんか絶対なるもんか。未成年? そうだ、僕はずっと未成年のままでいるんだ。未成年のまま死んだお父さんの追憶のなかで生きるんだ。僕の魂は世界のなかになんかない。僕の魂はお父さんの追憶のなかに在るんだ。そして二人で、いやガロアと三人で、いや二十七で死んだロックスターみんなと一緒に、喪失した六十年代の追憶をさまようんだ」
伊勢の顔に刻まれていた、あの悲痛なものは、いったいなんだったのだろう?
「僕はお父さんとガロアを助けてあげられなかった!」
そして顔を手で覆って泣きじゃくった。
「ポール、」
とマスターが呼んだ。僕は顔を覆ったまま返事をしなかった。
「ガロアからの手紙だ」
僕は飛び上がってそれをもぎ取った。
「ねえ、俺はもう行くよ」
伊勢が言った。
「どこへ?」
「世界のなかへ。休学なんかもうやめだ。俺は含まれるんだ。迎合? 迎合なんかしないさ。反抗ってのはね、世界の外でやるもんじゃない。世界の中でやるもんだ」
その後、伊勢とは二度と会うことがなかった。今では、顔も声もよく覚えてやいない。けれども、ひとつだけ、僕の脳裏に深く刻まれているイメージがある。それは、バーを去るときの彼の背中だった。あんなにも色気に乏しかった彼の背中が、男らしい肉の薄い彼の背中が、強烈な色香を放っていたのは、なぜだったのだろうか。
ガロアからの手紙。
『ポール。
君に手紙を書くのは初めてですね。僕は二十七の最後の日に死ぬと決めていました。これは君が言ったからじゃない。僕が決めたことです。いや、僕を強いる宿命が決めたことです。だから君のせいじゃない。責任を感じないでほしい。責任は宿命にもない。悪いのは全部僕だ。
僕はずっと、世界と自分が乖離しているという感覚を持ち歩いていました。僕と世界は色が違う。僕だけが、世界のなかで醜い色をして歩いているように思える。こんな自意識過剰は、おそらくは多くの思春期の少年少女が持っているものだろうと思います。なぜ僕がそう思うかというと、何かの本に書かれていたからです。あんなに偉そうにいろんなことを語っていたけれど、僕の知っていることは、すべて本に書いてあったことです。それによって、僕は外から世界をふてぶてしく眺めて、偉そうに批評していたんです。僕は世界の外にいるから、世界の欺瞞や汚濁から守られていると思っていました。けれども、この世界で一番汚くて嘘ばかりつくのは、自分だという意識がいつも僕を苦しめていました。僕はただ潔癖だったんです。
僕らは不連続な存在だ。僕らの魂はみな孤独で、隔離されているんだ。僕は連続性にあこがれていました。僕は、他者とつながりたかった。寂しかった。それで、あのバーへ足繁く通いました。でもそれは、僕の孤独を深めるだけでした。あのバーは、何か特殊な場所だという感じがします。あのバー自体が、世界から隔離されている気がします。
ポール。
告白します。僕は、君が、好きだった。一度でいいから君とキスをして、一瞬でいいから君と魂をつなげたかった。君と連続したかった。おそらくは、その一瞬は、一瞬じゃない。その一瞬は永遠だ。たとえその後君が僕から去ったとしても永遠だ。なぜならこの一瞬の時間は、煙のように空高く登るから。けれども、こんな想像も、誰とも恋愛したことのない童貞の、キスもしたことがない男の、頭でっかちな妄想に過ぎないのかもしれない。なぜって、これも本に書かれてあったことに過ぎないからです。
ポール。
僕の孤独が、少しゆらいだ瞬間がいくつかある。それは君に肩を抱かれたときじゃない。君の太ももに膝をくっつけて、そのままにしてくれた君のやさしさを感じたときじゃない。それはね、君の役に立った時だ。
ポール。
僕は君から誘われたらいつもついていったね。これはね、僕が無職で、暇だからだというのもあるけど、君の役に立てるかもしれないって感情が、僕の足を動かしたからに違いないんだ。だって、本来なら僕は、一日中部屋に引きこもっていたい人間なんだから。
ポール。
なぜ僕が、生きるのが苦しかったのか、死の間際になって気がついたよ。それは、僕が誰の役にも立っていなかったからだ。世界のなかで、役割が何もなかったからだ。けれども、気がつくのが遅すぎたんだ。もう、僕の魂は、何かに轢き殺されてしまった。もう、生きられない。もう、生きられない。
ポール。
今になって、僕は、世界に含まれるということが何かがわかります。それは、奉仕の喜びを持つということです。
ガロアより(この名前、僕には重すぎるね。君のあだ名をつけるセンス、伊勢と変わんないよ)』
久々に、父の歌をカセットテープで聴いた。下手だった。ぞっとするほどに下手だった。野太いガラガラ声なだけで、ただただやかましかった。こんな歌、売れるわけがなかった。うるさい。うるさい。僕は安いコンポを壁に投げつけた。無機的な音が部屋に響いた。それでもその酷い音楽は、ずっと部屋中で鳴り響いていた。僕はしゃくりあげながらそこにしゃがみこんだ。そして頭を抱えてむせび泣いた。
僕は自分がなぜ泣いているのかわからなかった。音楽の酷さに対して? 違った。父とガロアの死を憂いて? それも違った。僕は気づいた。僕は、未成年の孤独のままに死んだ父とガロアが可哀想で可哀想で、あわれであわれでたまらなかったのだ。僕のことを、上から目線なガキだというなら、そう言えばいい。そうだ、よく言われるように、同情には軽蔑が混じっている。だが、それを自覚することが、いったいなんの役に立つ?
僕には、多くのロックミュージシャンが二十七歳で死ぬ理由がわかった気がした。これは僕独自の仮説にすぎないけれど、彼らは、世界に属していないという未成年のイノセンスを持っていたんだ。世界に属していない、世界と乖離している、世界と色が違う、そんな孤独なイノセンスを持っていたんだ。それをいい歳まで持ちつづけるのは、許されることではない。何が許さない? 世界が。そうだ、ほかでもない世界が、ある時が来ると、彼らの無垢な魂を轢き殺すんだ。もう生きてはいけないという状況まで、それが彼らを追い詰めるんだ。彼らの多くは、いわゆる事故や自殺など、突然死を遂げている。つまり、もう生きてはいけないと、世界が最終判決を与えたんだ。それがだいたい、二十七くらいなんだ。最後のうら若き春の年齢。肌に少し衰えが見られはじめる頃。この孤独を、中年になっても持ちつづけるのは、たいがい難しい。自己を省察できる人間ならなおさらだ。だが、決して! このイノセンスを持つ僕らは、それに被害者意識を持ってはならない。
そうだ。伊勢の言うとおりだ。反抗は、世界の外でやるもんじゃない。世界の内部でやるもんだ。僕らは、世界に含まれなくてはいけない。役割を持ち、奉仕の喜びを持たなければならない。反抗はその上でやらなければならない。そうしないと、未成年の僕らは、生き延びることができないんだ。
世界のなかでのたうちまわり、認めたくないものには毒づき、決して自分はそっちへ向かわないと決意し、それを厳しく守り続け、いくらボロボロになってもみずからの信じる価値へ向かおうとする。真にロックな生き方とは、そういうものだ。僕はもはや、早死にしたナードなロックスターたちを愛さない。僕が敬愛するロックスターは、憎たらしい世界に飛び込み、大嫌いな世間のなかでもだえ苦しみ、憎悪する時代に反抗し、最も憎んでいた戦争に身を投げて死んだ、ポール・ニザンだ。最もロックな歌は、真のインテリだった彼の詩だ。「アデン・アラビア」だ。
僕は彼らの弱さを突き放す。父を、ガロアを、二十七歳で死んだロックスターたちの弱さを突き放す。彼らの弱さを憎み、その弱さにF××Kと毒づく。けれども、僕は彼らが、愛しい。未成年のイノセンスをもったか弱い青年たちが愛しい。いまにも抱きしめたいくらいに愛しい。ガス・ヴァン・サントの映画を見ると、僕は胸が割れそうになる。けれども、彼らの弱さを、美化してはならない。決して美化してはならない。同情? そうだ、同情に価値なんかない。それはただの、軽蔑の混じった子供の感情だ。ないよりはいいかもしれない程度のものだ。いいかい? 同情するならそのひとのために行動し、そしてこころで血を流せ。その人のために血を流せ。そしてその鮮血を、決してひとにひけらかすな。そのひとのために厳しいことだってしなきゃいけないこともたくさんあるだろう。心で泣きじゃくることもあるだろう。だがその涙を流すな。その涙を絶対に流すな。心に押し隠せ。それ以外に価値のある優しさなんて、この世にはない。
あのバーはね、鋭敏な感受性をもっていた伊勢が見抜いたように、未成年の隔離されたイノセンスが息づいていたんだ。未成年の孤独を持ちつづけたいい年の大人たちが、それを持つことをよしとした大人たちが、奉仕を嫌がる大人たちが、世界と隔離された場所で遊んでいたんだ。
十七歳。僕は、あのバーを卒業した。
あと数分で二十八歳だ。もう、ガロアや伊勢の顔や声も、バーの内装も、マスターの微笑も、そのほとんどがてのひらから砂が落ちるように僕の記憶から欠落してきている。彼らの記憶を、いまでも大好きな彼らの記憶を、もっとはっきり持ち続けられたらどんなにいいだろうと思う。僕は、父が死んで以来、喪失が怖い。何かを手に入れたら、いや手に入れる前に、すぐにそれを失うことを考えてしまうタイプの人間だ。けれども、人間はどうしようもなくつぎつぎになにかを失いつづけるものだ。人生は獲得の連続じゃない。喪失の連続だ。
もう少し。5、4、3、2、1、おめでとう。二十八歳。僕は生き延びた。実は、僕はまだ未成年のイノセンスを持ちつづけている。当時の孤独はまだ僕のなかにあとを引き、たびたび僕の胸はそれに襲われる。狂おしい苦痛が僕の体をよじらせることさえある。結局のところ、奉仕の喜びはそれを消滅させることはできないんだ。だって僕らは、不連続な存在なんだから。しかし、僕はもはや、世界のなかにある。
僕は、父もガロアも、助けてあげることができなかった。僕はこの後悔を、一生引きずり続けると決意している。これからも、同じような人を助けることはできないかもしれない。だから、次に未成年のイノセンスを持った人に出会ったら、世界への反発心をもつ孤独で無垢な人に出会ったら、そして運よく助けを求められたら、次のようなロックな言葉を贈ろう。
「考えるということは、ノンと言うことだ」
読んでくださってありがとうございました。