71話 一体何がどうなって
「おかえりなさいませ、お兄様」
「はくしょん! た、ただいま、レイクーリア」
無事にというか、軽く風邪を引いてお兄様が帰ってこられたのは5日ほど後のことだった。ということは、えらく身体を冷やされたのかしら。大慌てで駆け寄ってくるメイドたちに、そのへんは任せましょう。
「大丈夫ですの?」
「水をかぶっただけだからね。兵士たちを先に、湯に入れてやってくれ」
「それは部下がやっております。若様はこちらへ」
「ありがとう」
持っていっていた剣を受け取りながらのメイドの言葉に、お兄様はほっとされたようだ。
うちのメイドたちは戦闘力もそうだけれど、普通にメイドとしてもしっかり仕事をしてくれる。まあ、その中で強い者がメイド長やお母様の訓練を受けて護衛部隊になるのだけれどね。
それにしても、水をかぶったって。何があったのかしら、と私は首をひねる。お兄様の報告を伺えば、分かるのでしょうけど。
「これは少々傷みがあるわね。すぐに手入れを」
「はい」
あら。お兄様の剣、傷んでいるのかしら。ということは、剣を抜くような事態になったってこと?
「ああ、大丈夫ですよお嬢様。若様と一緒に水をかぶったので、あちこちに匂いがついたりしているんです。それに、きちんとお手入れをしないと錆が浮いてきますから」
「そうなの」
手入れをしないと錆、ねえ。……面倒くさそう。やっぱりメイスのほうがいいのかしら、そういう意味でも。
お風邪を召されたので、お兄様はお風呂で温まられた後即座にご自身のお部屋に叩き込まれた。お父様やお母様と一緒に、そちらで私はお話を聞くことにする。
「まずはホットミルクをどうぞ。兵士たちにも順次振る舞っておりますので、若様も頂いてくださいませ」
「ありがとう。あったまるなあ」
ひとまず、温かいミルクを口にされてお兄様は、本当に安心なされたようだった。戦をしてきたわけでもないようだし、それでも何だか何かを怖がっていらっしゃるというか、よく分からないけれど私にはそう思える。
「それで、どうだったんだ?」
「いや、まいったよ。本当にすごかった」
お父様の大雑把な質問に、お兄様も大雑把なお答えを返す。お母様が、「すごかっただけでは分からないわよ?」と苦笑しながらおっしゃったので、何とか話は進みそうだけど。
「普段はそんなに大きくない溜池なんだそうだけどね。それがもう、辺り一面川だか海だかって状態」
「そんなにか」
なんですか、それは。
溜池の周りには田畑がどーんと広がっているはずで、そこが軒並み水浸しとかそういうことですか。その村の秋の蓄えが、なくなってしまったという?
「付近の住民はみんな、家畜を連れて高台に避難しているよ。作物は水浸しだけど、まず生命が大事だからね」
「それは良かったわ。旦那様」
「ああ、取り急ぎ食料の保障や住居の確保をしなくてはな。手配をさせないと」
お父様、こういうときの決断はとても早いのが取り柄ね。だからこそ、エンドリュース男爵家当主としてやってこれているのでしょうけれど。
その後も被害報告が続いたのだけれど、そこら辺は飛ばして聞いていた。ええ、分からないんですもの。そういう数字に関することはお父様におまかせするのが一番よ、とはお母様のお言葉なのですが。
「それで、その」
ふと、お兄様が声を低められた。周囲に視線を配って、それからおずおずと言葉を続けられる。
「……兵士が数名、長い蛇のような巨体を見たと言っているんだ。さすがに口止めはさせたが、いつ噂が広まるかわからない」
長い、蛇のような、巨体。
「……それって、お兄様」
「ああ」
その意味まで理解できないほど、私も馬鹿ではないわ。お父様もお母様も、一瞬にして難しいお顔になっておられるもの。
そうしてお兄様は、その意味をわざとお言葉にされた。
「村一面を水浸しにしたのは、多分龍神様だ」