30話 私の侍女は能天気
「主様、しっかりなさってくださあい!」
「んぎゃっ!」
ばっしゃん、と文字通り水を浴びせられた。ってあら、私、何してたのかしら。
いえ、今の問題はそこではないわ。いきなり水をぶっかけてきた侍女が、すぐそこでニコニコ笑っているんだもの。手には何やら、水の入ったきれいなガラスの壺を持っているけれど。
「ちょっとナジャ!?」
「やった、初めて主様に勝ちましたあ!」
「勝ったも何も、この水は……っ」
と言いかけて気がつく。いつの間にか、浴びせられたはずの水はどこかに消えている。髪も服も、お化粧もそのままだわ。テーブルの上の書物も、元の通りのまま。
はて、これはどういうことかしらと首をひねりかけたところで、ナジャが説明してくれた。
「この壺から出てくるの、アナンダお兄様にもらってきたお清めの水ですよ。穢れや呪いを祓ったらちゃっちゃと乾きますし、お化粧やお洋服にも影響はないです」
「お清めの、水」
アナンダお兄様、というのがナジャが今日会ってきた龍神様のお名前なのね。水源を守ってくださっている方より賜った水であれば、確かに清められるでしょう。
……ということは私、やっぱり呪いなり穢れなりついていたわけね。おのれ、魔女め。
あ、思い出した。ブランドにパトラの話を聞いていて、それでパトラが絶対悪い子じゃない、そんなわけないなんて思い込んだんだわ。ナジャは、そんな私を見てお清めの水を浴びせた、ということよね。
「ナジャ。私、どうなっていたの?」
「あーはい、気配が何かチクチクする感じでした。ジェシカ様のお部屋の空気みたいに」
「なるほど」
それはお清めの水ぶっかけたくなるわね、と納得した。ジェシカ様のお部屋、本当に空気がおかしくなってきてるんですもの。……あれからまた、悪化しているのかしら。
その前に、ナジャからお話を聞きましょう。あ、足元にブランドが転がっているのは気にしなくていいわ。とりあえず拾ってソファにでも寝かせておきますか。
「ブランドさんもちくちくしてます。こっちもお水、かけときますねー」
ああ、ナジャが水をかけてくれたわ。でも、私にかけたのに比べてちょっぴり、というかほんの一滴ってどういうことよ。そこ、「まあいいじゃないですかー」と平気な顔をしていないで。
ともかく、ブランドが寝ているうちに話を聞きましょうね。
「えっとですね。お兄様にお話ししたところ、魔女が姿を変えて入り込んでいるのに間違いないでしょうって」
「姿を変えて、ね」
「はいー」
そもそも、既に滅んでいると思われていた魔女だ。元の姿を特に知られているわけでもないのだろうけれど、念のため姿を変えるというのは有り得る話ね。もしバレても、また姿を変えれば良いわけだし。
「さすがに龍や『龍の血』の強い者でも見抜けないようですけど、これぶっかけたら一発だそうですよ」
何その大雑把な見破り方。一度お会いしたことのある龍女王様はもう少し威厳のある方だったけれど、アナンダ様だったっけ、若い龍神様は皆こんな感じなのかしら。いちばん身近なサンプルがナジャなのは、とっても問題なのだけれど。
「変身の術って、呪いと同じなの?」
「要は魔女の掛けた術を解く、ってところで一緒みたいです」
説明を受けても、それでいいのかしらと首を傾げたくなるわね。まあ、そういうことなんでしょう。何しろ私、魔術はさっぱりですもの。メイスの振り回しには自信があるんだけど。
それにしてもその壺、中身使った割には減っているように見えないのだけれど大丈夫なのかしら。
「そのお清めの水、ざぶざぶ使って大丈夫なの?」
「お兄様の水源から繋いでもらってますから。あー、でもあんまり際限なしに使わないでねって言われてますけど」
「水源から?」
待って、水源って水源? 直通なの?
それを思いっきり私にぶっかけたとか、いくら何でも問題でしょう、ナジャ。
「そりゃそうでしょう。水源の水ということは領地全体に流されるはずの水よ。この領地の民はもとより、田畑や植物や動物たちのために使われるはずの水なんです。それをグランデリアのお屋敷で使い果たしたら、龍女王様がお怒りになるレベルのおおごとですよ!」
「か、母様が? はい分かりました考えて使いますっ」
この場合、仕方がないので龍女王様のお名前を使わせていただいた。よし、これでさっきのナジャの勝ちは取り消しね。……問題が違うか。
「あ、お清めの効果なんですけど」
この切り替えの速さが、ナジャのナジャたる所以ね。まあ、話を続けてもらいましょう。
「穢れを受けてからあんまり長いと、さすがに効果が薄いらしいんです。それと、対処療法だから結局は元を潰さないと駄目だって」
「まあ、そうよね。清められた後でも、もう一度向こうが呪ってきたりするかもしれないし」
「終わったらお屋敷全体清めてあげるから呼んでねー、ってお兄様おっしゃってましたよ。主様にもお会いしてみたいとかでー」
なるほど、それはとても助かるわ。魔女をぶん殴ったところで、この空気の淀みが残ってしまってては困るものね。ジェシカ様のお身体にも悪いし。
それに私も、ナジャと似たり寄ったりの能天気っぽい龍神様にはお会いしてみたいわ。ええ。
ともかく、このお屋敷に関しては私の一存では決められないわ。ここはグランデリア公爵邸、私はまだエンドリュース男爵の娘ですものね。
「あら。そうね、公爵閣下とアルセイム様にもご相談してみましょう」
「パトラ様には?」
……ふむ。
龍にわからない、というのは本当のようね。ええ、私の鈍い勘が当たっていればだけど。
「……出会ったら、問答無用で清めて差し上げて。まだ幼子なんだから、呪いの影響が強く出るかもしれないもの」
「わっかりましたあ」
そんなわけで理由を作って答えてあげると、ナジャは無邪気に頷いてくれた。